古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「評制」の施行時期について(一)

2013年09月17日 | 古代史

 「古田史学の会」のホームページに古賀さんが「秦人凡国評」の木簡に関連して一文書いています。それを見て思い出しましたが、以前この「秦人凡国評」の表記を見て疑問に思ったことがありました。それはこの「木簡」には「評」の名称が書かれていないことです。「秦人凡国」とは「国」の名称でしょうから、「評」名としては何も書かれていないという不思議なこととなってしまいます。
 この事はこの「木簡」が通常よく見られる「過所木簡」や「荷札木簡」ではないことを示すものであり、何らかの「文章」の一部ではないかと言うことを示唆します。つまり『「秦人凡国」の「評」云々』という様な文章の流れになっている可能性が考えられ、例えばこの「評」が「秦人凡国」の「評」についての何らかの報告のようなものであったとみられることとなるでしょう。
 通常「評」木簡は三種類あります。一つは「年次」(「干支」(及び月日))-「国」-「評」というように「年次」と「国」名が前置されている場合と、「年次」がなく「国」-「評」というように「国」名だけが前置されている場合、そしていきなり「評」から始まるものと三種類があります。これを捉えて「評」の成立よりも「国」の成立が遅れるというような議論もあります。 
 「評」が書かれた木簡を分析してみると「年次」が書かれた木簡で「五十戸」表記がある木簡は非常に少ないことが判ります。(多くが「里」表記になっている)
 「五十戸」という表記は後に「里」に取って代わられることが推定されていますから、「年次」が書かれるようになる時点と「五十戸」が「里」に書き換えられる時点とは接近しているのではないかと考えられる事となります。
 また「年次」の書かれた木簡の全てが「国」表記を伴っています。これらのことから、「年次」が書かれるようになった時点以降「国」表記もされるようになり「里」表記へと書き換えられていくという推移が考えられますから、逆に言うと「国」表記がなくいきなり「評」から始まるものは「里」移行以前のものであり、「初期型」なのではないかと考えられることとなるでしょう。

 ところで、ここで「秦人凡国」とされているものと「隋書俀国伝」に書かれた「秦王国」が無関係とはとても考えられません。「凡国」の読みは「おおこく」とされていますから、この「秦人凡国」は「秦王国」と実は全く同じものではないかと考えられることとなります。その「秦王国」は「隋書俀国伝」の記事からは「竹斯国」の近隣にあることが推定できますから、「九州島内部」かせいぜい「山口県」付近ではないかと考えられ、発音の近似もあり「周防国」(すおうこく)との関係が注目されます。
 また、そのことは「隋書俀国伝」で「一二〇人」いるとされた「軍尼」の掌握している領域が実際には「評」であったのではないかという疑いへとふくらみます。(以前書いた拙論ではこれを「クニ」であると考えていたものです)
 つまり、「軍尼」が百二十人いて、しかもその上部組織に言及がないことからもこの時点では「国」がまだ成立していないことを示すと思われますが、そのことは「木簡」に見るように「国」が前置される以前には「評」だけが書かれている事とつながるという可能性があると言えるでしょう。
 つまり「軍尼」が管掌している「範囲」(戸数八百程度と考えられる)の名称は「評」であったのではないかと云うことです。

 「五十戸制」は「隋」にある制度ですが、「評」という制度は「隋」には見られません。この事は「五十戸制」と「評制」は少なくとも同時に導入されたものではないと言う事を示します。
 「俀国伝」中の「秦王国」は「裴世清」来倭時点の行路記事に出てくるわけですから、「六〇八年」段階の国内事情を反映していると考えられますが、その時点で「秦王国」は「竹斯国」と並んで既に「令制国」と同様の広さがあったことを示すと思われ、その中に複数の「評」を内包していたことを意味すると考えられます。
 既に拙論『「六十六国分国」と「国県制」』の中で「令制国」と同等の広さを持った「国」の成立は「七世紀初め」の時点であり、その時点において「強い権力」が発現したということを考察した訳ですが、その際の「国県制」の施行は「直轄領域」だけであったのではないかと考えるようになりました。
 拙論では「九州島」など「倭国王」の直轄領域ではそれまで「国-郡-県制」であったものではないかと考え、それをこの時点で「国-県制」へ変更したものとし、また「附庸国」である「諸国」について「クニ」が散在していたものを集約して「国」を成立させ、それまでの「クニ」は「県」へ名称変更したものであり、これにより国内の制度が統一されたと理解した訳ですが、この「国-県」という制度は結局「直轄領域」だけであったものであり、「諸国」は「国-評」という制度となったらしいことが推定されるようになりました。つまり「クニ」と考えていたものは既に「評」になっていたと云うことではないかと考えられるわけです。
 確かに従来から「評制」は「畿内」には施行されなかったという意見もあり、それは当方も同意見ですが、この段階で「評制」が施行されていたとすると、やはり「畿内」(直轄領域)には適用されなかったという可能性が高いと考えられます。
 また、「評」という制度は「半島起源」と考えられていますから、「隋・唐」と関係を深めていく中で(それに逆行するように)「半島」から「評制」を取り入れていたと云うことは非常に考えにくいことと思われます。そう考えると「隋代」以前に「評制」を取り入れていた、あるいは「遣隋使」派遣以前に「評制」が倭国に流入していたということを考える方が自然なのではないかと考えられることとなります。
 つまり「評制」は「阿毎多利思北孤」段階の「諸国」へのものであり、「五十戸制」及び「国県制」は「利歌彌多仏利」段階ではなかったかと考えられるわけです。

 ところで、「皇太神宮儀式帳」に「八十戸制」とおぼしき表現が出てきます。

(『皇太神宮儀式帳』)
「難波朝廷天下立評給時、以十郷分、度会山田原立屯倉、新家連珂久多督領、磯連牟良助督仕奉。以十郷分竹村立屯倉、麻績連広背督領、磯部真夜手助督仕奉。(中略)近江大津朝廷天命開別天皇御代、以甲子年、小乙中久米勝麿多気郡四箇郷申割、立飯野(高)宮村屯倉、評督領仕奉」

 上の資料を見ると「十郷」で一つの屯倉に充て、そのために「評督」(督領)を置いたとされていますが、「評」の戸数は「八百戸」程度あったと考えられるわけですから、「一郷」は「八十戸」程度あることとなり、これは「隋書俀国伝」に言う「八十戸制」と強い関連が考えられるものです。またこの記事は「五十戸制」と「評制」の先後関係にも影響を与えるものであるのは明らかであり、この時点で制定された「評督」の管轄範囲の「郷」の戸数が「八十戸」程度とすると、「評制」の方が「五十戸制」よりも「先行」することを意味するものとも言え、上の推定を補強するものとも言えるでしょう。

 ここでは年次として「難波朝廷天下立評給時」とありますが、「拙論」でも触れたようにこれは「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の朝廷を意味するものと思われ、この時点で「難波」に前方拠点を設けたことを示すと考えられます。これが後に「副都難波」を作ることとなる前章であったと推察します。

(続く)

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