古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「格謨」と「唐人所計」

2013年09月25日 | 古代史

 ご存じのように「書紀」には「筑紫の君薩夜馬」達を解放するために身を売ったとされる「大伴部博麻」のエピソードが語られています。

「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞『唐人所計』。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并絁五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」

 ところで、この詔の中に「唐人所計」という表現が出てきます。従来この「唐人の計る所」とは何を指すかについては「不明」とされていますが、唯一「正木氏」により「泰山封禅の儀」を指すという研究があります。(※)
 しかし、この「詔」によれば、「薩夜麻達」はこの「唐人所計」を「本朝」に「是非」伝えようとして、その方法に苦慮した結果、「大伴部博麻」が「身を売る」ということとなったとされるぐらいですから、「国家危急」の事態が想定する必要があると思われます。
 このような緊急的な事項としては、彼等が「補囚」となっているという状況も含めて考えると、「軍事」に関わること以外のことは想定しがたいものです。そのような「危機的」状況であれば、これに対する処置等を「至急」「本朝」(これは「筑紫」の王朝を指すと思われます)に指示・伝達する必要があったとするのは当然であり、そのためのメッセンジャー役として「土師連富杼」たちが選ばれたと理解できます。
 また、ここで「本朝」という用語を使用しているのは「博麻」の言葉としてですが、彼は「筑後」の軍丁であり、それは「筑紫の君」である「薩夜馬」の配下にいたものです。当然彼が「本朝」と言う時には目の前の「薩夜麻」の朝庭を指すと考えるのが常道でしょうから、「筑紫朝廷」が「本朝」であると言う事となります。しかもその「筑紫朝廷」を「持統」は「天朝」と呼称しているのです。(この「天朝」は「聖武」などが使用した「遠朝廷」と重なるものといえるでしょう)

 「熊津都督府」の「鎮将」として存在していた「劉仁願」(実質的な占領軍司令官)は、後に「流罪」となるなど、不審な行動があったようであり、彼は「熊津都督府」という立場で何らかの「経略」を企んだのではないでしょうか。「補囚」の身ではあったものの、このような「劉仁願一派」(「郭務悰」達を含む熊津都督府の要人達)の策動を知ることの出来た「薩夜麻」達は「郭務宋」と「百済禰軍」について、「熊津都督」の「私者」「私蝶」であるとしてその「交渉」を拒否するようにという内容を「本国」に伝えようとしたと思われます。
 これに関連すると思われるのが「二〇一一年」に発見された「百済禰軍墓誌」(拓本)に出てくる「格謨」という用語です。
 この「百済禰軍墓誌」では、「以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰。」という文章となっています。
 この中で使用されている用語はいずれも難解なものが多いのですが、ここでいう「謨」は「謀」とほぼ同義とされますから、いわゆる「計画」であり「はかりごと」です。(ただし、現在の「皇帝」の立てた計画という意味はないと考えられます。その場合は「聖謨」と言うようです。)
 (以下「聖謨」の例)

「「舊唐書/本紀 卷一 本紀第一/高祖 李淵」

「(貞観)九年五月庚子…
史臣曰:有隋季年,皇圖板蕩,荒主燀燎原之焰,羣盜發逐鹿之機,殄暴無厭,橫流靡 救。高祖審獨夫之運去,知新主之勃興,密運雄圖,未伸龍躍。而屈己求可汗之援,卑辭答 李密之書,決神機而速若疾雷,驅豪傑而從如偃草。洎謳謠允屬,揖讓受終,刑名大剗于煩苛,爵位不踰於?軸。由是攫金有恥,伏莽知非,人懷漢道之寬平,不責高皇之慢罵。然而 優柔失斷,浸潤得行,誅文靜則議法不從,酬裴寂則曲恩太過。姦佞由之貝錦,嬖幸得以掇 蜂。獻公遂間於申生,小白寧懷於召忽。一旦兵交愛子,矢集申孫。匈奴尋犯於便橋,京 邑咸憂於左袵。不有聖子,王業殆哉
贊曰:高皇創圖,勢若摧枯。國運神武,家難『聖謨』。言生牀第,禍切肌膚。鴟鴞之詠, 無損於吾。」

 この「聖謨」と比較すると「格謨」とは「現皇帝」という程高位ではないもののかなりの地位にある人物が立てた計画ないしは計略のことをさすと考えられます。
 この「格謨」に関しては「晋書」に例があり、そこでは「燕」の王朝のこととして『「前皇帝」が「質素」を旨としていたのにあなたは華美で浪費している』という部下の諫言中に「先王格謨、去華敦僕、哲後恆憲」という表現がされています。
 これによればやはり「格謨」とは、「先王」の建てた「統治の方針」であり、また「姿勢」ともいうべきものでもあるようであり、「現皇帝」に関するものではないことがわかります。そのことから考えても、「百済禰軍墓誌」の場合は「禰軍」の上司であった「熊津都督」である所の「劉仁願」が立てた計画を指すのではないかと推測できるでしょう。この事から「格謨」とは「唐人所計」そのものであると考えられます。
 つまり「薩夜麻」達はこの「百済禰軍」達が実行しようとしていた「格謨」について何らかの情報を入手したのではないかと思料され、実行部隊として送り込まれた「郭務悰」と「百済禰軍」に対して必要なアクションを取ろうとして「思い余って」「大伴部博麻」が「身を売る」という事態となったと考えられます。
 そう考えると「唐人の計」とは「泰山封禅」ではないことが理解できるでしょう。なぜなら「泰山封禅」は「唐」の「高宗」が「長安」で企図したことであり、「劉仁願」の建てた計画ではないからです。(いわば「聖謨」であるわけです)
 この推移はそのまま彼らが「どこ」にいたかということの推定にもつながるものです。この「格謨」が「現地司令官」クラスのアイデアを示すとしてそれを「薩夜麻」達が知ることが出来たとすると、「薩夜麻」達も「劉仁願」達の至近に所在していたと考えることが出来るのではないでしょうか。
 一般には彼らは「唐軍」の捕虜となったとされていることから、「唐」まで連行されていたと考える向きもあるようですが、そうではない可能性の方が強いと思われます。

(続く)

(※)『薩夜麻の「冤罪」I』古田史学会報八十一号二〇〇七年八月十五日

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「評制」の施行時期について(三)

2013年09月25日 | 古代史

 既にみたように「皇太神宮儀式帳」によれば「評」の設置と「屯倉」の設置は同時であり、「評督」が「屯倉」を管理している形になっています。ところで、「改新の詔」では「屯倉」を止めるとされていますが、「儀式帳」ではそれが「設置」されたこととなっています。この事から「儀式帳」時点と「改新の詔」時点とは時代の「位相」が異なると考えられるわけですが、その場合、どちらがどうなのかと言うこととなると「既成概念」に捕らわれて「儀式帳」を「七世紀半ば」に置き、「改新の詔」をもっと後代とすると言うのが一般的でした。(当方もそのように考えていた時期がありました)
 しかし、すでに述べたように「評制」の施行がもっと早かったと考えると即座にこの「儀式帳」も同様に早かったこととなり、既成の考えに大きく修正を迫ることとなります。それは「伊勢神宮」の成立の時期と、「屯倉」の成立の時期の推定に関わります。
 「儀式帳」の記事は「度会宮」の成立と「屯倉」の設置の時期として大きく異ならないことを示していますから、「評制」が施行が早くなると「度会の宮」つまり「伊勢神宮」の成立も当然早まることとなると思われます。それは「遺跡」から「出土」した「剣」の「鍔」の時代推定と見事に合致することとなるものです。

 「熊本県菊池市」にある「木柑子フタツカサン古墳」出土の「銀象嵌『鍔』」と「三重県伊勢市」の「南山古墳」から出土した「銀象嵌『鍔』」は、「酷似」という言葉がふさわしいほど良く似ていることが確認されています。その形状、象嵌技法と技術などは「同一工房」によるものという可能性が強く示唆されています。
 また、共に「六世紀後半」という時代推定がされていることなどから、この二つの古墳の主には「深い関係」があると考えられるわけですが、それが「伊勢」という地名で連結されているように見えることも重要でしょう。
 なぜなら、元々「伊勢」は「肥後」に存在した地名であると考えられ、それがその後「伊勢神宮」の「移転」(「遷宮」と言うべきでしょうか)に伴い、現「伊勢」の地に移動したものと推察されるからです。(これは水野氏の議論をなぞる形になりますが)
 また、「伊勢神宮」に強く関連しているとされる「倭姫」という人物は、「垂仁紀」では皇后である「日葉酢媛命」から生まれた第四子とされています。
 この「日葉酢媛命」は、その死に際して「夫」である「垂仁天皇」が「出雲」の「野見宿禰」の提言を取り入れ、「殉葬」をやめて「埴輪」に変えさせたというエピソードがある人物であり、これが「近畿」の実態とは整合しないというのは有名な話であり、いわゆる「書紀」不信論の代表とされています

「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条」「皇后日葉酢媛命一云。日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以造作人馬及種種物形。獻于天皇曰。自今以後。以是土物。更易生人。樹於陵墓。爲後葉之法則。天皇於是大喜之。詔野見宿禰曰。汝之便議寔洽朕心。則其土物。始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰。是土部連等之始祖也。」

 しかし、既に指摘されているように「近畿」では「人型埴輪」は「五世紀」中頃付近で既にかなりの数が現れますが、これは上のエピソードに言うような「出雲」など「島根県」の遺跡の状況とは整合しませんから、説話として不審であるとされるわけですが、他方「九州」は「埴輪」そのものの発生が遅く、また「人形埴輪」については「五世紀後半」に九州地域にも一部に見られるようになりますが、それも「六世紀半ば」になると「埴輪」自体が姿を消します。(ご存じのように「九州」は「石人・石馬」文化でありまた「装飾文化」の集中地点でもあります。)
 これらのことは「筑紫」の「古墳」とそれに付随する「埴輪」という観点で考えると、上のエピソードもその「時期」が「整合」していると考えられています。つまり「垂仁天皇」という人物の統治領域の中心は「近畿」ではなく「筑紫」であったという推測が可能となるわけですが、それは「日葉酢媛命」の「皇女」である「倭姫」も「筑紫」あるいはその至近の場所に所在していたという可能性が高くなることを示すものと思料します。(以上は古田氏も言及されていることです)そしてそれは「伊勢」という地名及び「伊勢神宮」という存在そのものがオリジナルが九州にあったという推測を可能とするものであると思われます。
 この「九州」の「伊勢」が現在の「伊勢」に移されたということが考えられ、それが現「伊勢神宮」の成立時点と考えると、古墳の示す年代である「六世紀末」という時点がその成立年代として考えられることとなるわけですが、それは「屯倉」「評制」というキーとなる事象とセットとなっているものであり、いずれも「六世紀末」にこの「列島」に出現したものと推定できるでしょう。

(続く)

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