古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

邪馬壹国と倭国

2013年09月12日 | 古代史

 「倭人伝」を見ると、「伊都国」には「王」の存在が書かれています。「倭人伝」の中で「王」の存在が書かれているのはこの「伊都国」と「邪馬壹国」だけです。それ以外の国には(略載できるとされた七ヶ国についてだけですが)「官」が派遣されているようであり、「王」はいないものと見られます。
 このような体制は「郡県制」ではないかと考えられ、かなり強い権力が「邪馬壹国」にあることが推定できます。
 その「伊都国」にしても「王」は、ただ「君臨」しているだけであり、実際の統治行為は「官」がこれを行っていたと考えられます。中国の例でも、州には「王」(候王)がいる場合でも、実質的な行政担当者として「刺史」(ないしは「牧」)が存在していました。

 「周代」以前の「封建制」は「秦の始皇帝」により「郡県制」へと移行させられましたが、「漢」の時代になるとその「折衷的制度」である「国郡県制」へと変化しました。これは「国」に「候王」の存在を認めたものです。
 「倭国」は「周代」以来、「士・卿・大夫」という階級的職制があったとされ、そのことからも「周」の制度を取り入れていたと思われます。つまり「諸国」には各々「王」がいるという状態であったものと考えられ、その中心として「邪馬壹国」があったものと思われます。(封建制といえるでしょう)
 その後「前漢」とのルートが確保された後は、「漢」の「最新」の文化が流入したものであり、ここにおいて「郡県制」の施行が試みられたものと思料します。
 それを示すのが「後漢書」の「安帝の永初元年」という年次(一〇七年)に記された「帥升」の遣使であり、彼の「一三〇人」という大量の「生口」を献上したという貢献が「統一王権」を確立したという自負が為したものという推測も可能であると同時に「倭国王」として正式な「国交」の樹立を望んだものという解釈も出来るでしょう。
 彼の王権が彼という個人的カリスマによっていたであろう事は容易に想像できるものであり(古代には普遍的ともいえるものです)、「秦」の「始皇帝」さながらの強権を発動したものと思われ、この時点で「統一王権」が倭国に発生したものと思料され、「国郡県制」が施行されたものと思料します。(最もこの時点で「完璧」な制度が出来たとは思いませんが、現代考えるよりはかなり本格的なものであったろうと推定できるでしょう)
 しかし、彼の亡き後は「混乱」が発生したということと思われます。それを示すのが「後漢書」の「桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。」という記録であり、また「倭人伝」の「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年」という記録と思われます。これらはいずれも「帥升」が亡くなった後の混乱を示した記事と思われ、各諸国が群雄割拠した状態であったことを示すと考えられます。
 そして、その後「卑弥呼」が共立されて以降再び「諸国」から「王」が消えたというわけであり、再度「統一王権」の成立と「国郡県制」の施行と官の配置が行われたものと見られ、それが「倭人伝」の記事に現れていると考えられます。
 
 このように「指導力」「統率力」のないような人物が「王」となり、「力」と「大義名分」で全体を律することができなくなると「郡県制」は崩壊せざるを得ないという「弱点」が現れたものと思われます。
 一人のカリスマ的能力によって成し遂げられた「統一」は、その人物が亡くなったり失脚したりすると、もろくも崩れ去る運命であるともいえるものであり、「倭国」においても再び各諸国に「王」が乱立する状態が発生したものと推量します。その中でも強力なものの一つが「狗奴国」であり、その「男王」である「卑彌狗弧」ではなかったでしょうか。
 このような推移が「漢書」による「百余国」から「魏志倭人伝」の「今使訳通ずるところ三十国」と書かれている変化につながったものと思われます。

「三十国」というのが「倭国」つまり「女王」の統治範囲として書かれた国々を指すと考えられますが、そうであれば「百餘国」から大きく減少していることとなります。
 従来この「減少」の意味を「統合」の結果であるとする考え方もありましたが、これはそうではなく、単に「百餘国」から「三十国」がいってみれば「分離独立」して「女王国」の統治下に入った(残った)と言うべきであり、そのように「分離独立」した(あるいはせざるを得なかった)理由というのが上に見るような「内乱」であったと思われ、その結果「狗奴国」などが「女王」の統治範囲の外において他の国々の「盟主」となっていたという可能性も考えられます。(ただし、「狗奴国」が残りの「七十国」全部を代表していたとは思われません。これら「七十国」についてもある程度の地域ごとに分裂していたと考えるべきであり、「近畿」「東海」「関東」など各地域ブロックを統治領域としていた「国」があり、また「王」がそれぞれにいたものと推定されます。)
 しかし、この「卑弥呼」の時代に再度「邪馬壹国」が「北部九州」を制圧した結果、半島への出入口を閉ざされた他の地域の勢力は明らかに「先進的」な「情報」や、「鉄」「銅」などの「資源」の入手が困難となったものと思われ、ここにおいて「邪馬壹国」率いる「倭国」の優位性が確立したと考えられます。もちろんそれには「魏」の皇帝との関係を巧みにアピールした「卑弥呼」と「壱与」の戦略があったものでしょう。

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