古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「評制」の施行時期について(二)

2013年09月19日 | 古代史

 ところで「評」や「郡」の末端組織である「村」や「里」について考えてみると、「旧唐書」では「開元年間」以前には「村」記事が全く見られません。また、「北史」では「魏」(北魏)以降「村」記事があります。「南史」では「梁」以降見られます。ところが、「後漢書」等の前史には全く見られません。
 これらのことから「村」の発祥はかなり新しいと言えるのではないでしょうか。それに対し「里」は「漢書」等の古典とも言えるものにも頻繁に見られ、その発祥がかなり古いことが判ります。また、これを元に距離としての「里」(り)が発生したと考えられ、深く生活と統治に根付いた制度であったと思われます。
 「唐」やそれに先行する「隋」の行政制度の末端には「里制」と「村制」の二つがあり、「里制」は租税徴集のために「人工的」に組織されたもので、後出的なものであり、戸数は「百戸」と決められていました。それに対し「村制」は「自然発生」した集落をそのまま「制度」として組み込んだものであり、これはおおよそ「五十戸」程度あった模様です。
 つまり「村」が先在していたところに後から「里」が制度として決められたと見られ、これが「併用」されていたものです。
 上に見る「村」と「里」の起源から考えると、「村」は「北魏」によってほぼ中国の「北半分」が統一された段階で使用されるようになったいわば「鮮卑系」の制度と思われるのに対して、「里」は「漢民族系」の制度とも言えるでしょう。
 「隋」は「南北」を統一し、「南朝」を「呉」と表現し「南朝」の発音を「呉音」と称するなど、自らの王権の正統性をことさらに強調しています。「長安」の発音を「漢音」と称するのも同様の意図からであり、このような流れの中に「漢民族系」の制度とも言える「里」を正式に導入する事となったのではないでしょうか。
 ところで「倭国」では元々「村」であったらしいことが「風土記」から窺えます。
 「風土記」には「石川王」が「総領」である時代に「村」が「里」へ改定されたという記事があります。

「備前国風土記」「揖保郡」の条。
「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後石川王為総領之時 改為広山里…」

 ここでは「都可村」から「広山里」へ変更になったと書かれており、単純な「名称変更」ではなく「村」から「里」への変更が成されているようです。これは明らかな「制度変更」(それは境界変更も含む可能性があります)であると考えられ、これは「風土記」の性格として「七世紀初め」の時期に「一旦」成立したものを換骨奪胎していると考えれば、この記事が「常陸国風土記」などと同様「七世紀初め」の記録であると推定できるものです。
 そう考えると「倭国」で元々「村制」らしいことから、これは「北朝」の影響とも言えるものであり、「仏教」等の文物とともに「北朝」から「高句麗」などを通じて流入したということも考えられます。そうであればその時点で「文化」の流入は「半島経由」であったことは間違いない訳であるので、「半島」の制度も混じり合って流入したと云うことも充分考えられ、「評」という制度が導入されることとなったのも同様の経過のことではなかったかと考えられます。

「常陸国風土記」によれば「郡家」が遠く不便である、ということで「茨城」と「那珂」から「戸」を割いて新しく「行方」郡を作った際のことが記事に書かれています。

「常陸国風土記」「行方郡」の条
「行方郡東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請惣領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家」

 ここに書かれた「癸丑」という干支も「六五四年」が有力とは思われますが、「五九四年」という考え方も可能であると思われます。
 ここでは「茨城」と「那珂」から併せて「十五里(さと)」を割いて「行方郡」を作ったと書かれており、それが計七百余戸といいますから、これは一つの「里」が五十戸程度となります。このことからこの段階ないしはそれ以前に「五十戸制」が敷かれているとする見解が有力でしたが、以下の理由により、そうとは断定できないと考えられるようになりました(当方の見解を変更したものです)
 この分郡には複数の理由が考えられますが、「利便性」という観点だけで考えても、新しく建てられた「行方郡」はともかく「割譲」された「茨城」と「那珂」が小さくなりすぎては奇妙ですし、困ると思えます。これが「利便性」を優先したものでないことは「分郡」に当たって「理由」が示されていないことでも推測できます。通常「郡家」まで遠い等の理由が書かれているのが「分郡」ないしは「新設」の場合よく見受けられる訳ですが、この場合はそのような事は書かれていません。
 このことは「分郡」の理由がもっぱら「茨城」と「那珂」の人口増加にあったと見るべき事となりますが、そうであるとすると、この両郡は「割譲」後、スリム化されて基準(標準)値である「七五〇-八〇〇戸」程度まで「減数」されたと考えられることとなるでしょう。その場合両郡とも元々「千二百戸」ほどあったこととなり、これを「五十戸」制として考えると「二十四里」あったこととなります。
 「改新の詔」では「郡の大小」について「書かれており、「四十里」を超える「郡」の存在も許容しているようですから、「二十四里」程度で分郡しなければならないという必然性はないこととなります。
 しかし、この時点で「八十戸制」であったとすると、両郡とも「十五里」程度となって「隋書俀国伝」に記された「十里」で一軍尼が管理するという基準より五割増し程度となりますから、この程度であれば存在としてあり得ますし、またその程度で「分郡」するというのも規模、タイミングとして理解できるものです。
 ここから各々七-八里引いて新郡を増設したとするとほぼ同規模の郡が三つ出来ることとなり、バランスとしても良くなるものと思われますし、標準的な「里数」や「戸数」となるものと思われます。
 このことからこの時点ではまだ「五十戸制」ではなかったのではないかと考えざるを得ず、この「癸丑」という干支の指し示す年次は「六〇〇年以前」であるところの「五九四年」であるという推定が可能と思われます。

(続く)

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