「二中歴」「年代歴」の「明要」のところに「細注」として「文書始出来結縄刻木止了」とあります。また同じく「二中歴」の「年代歴」の冒頭には「年始五百六十九年内、三十九年無号不記支干、其間結縄刻木、以成政」とあります。
この「二中歴」の書き方からは「文書」ができたのと「結縄刻木止了」は同時であるように受け取られます。ここで言う「結縄」と「刻木」は「漢籍」を探ると以下のように中国の周辺の諸国(いわゆる夷蛮の国)において「メッセージ」(指示や伝達など)を伝える際に使用されていたという記述が確認され、これらは「文字」がない世界ではごく当然のように使用されていたものと見られます。
まず「結縄」については「漢書」などに「易経」を引用する形で以下のような記事が見えます。
(「漢書/藝文志第十/六藝略/小學」より)「…易曰:「上古結繩以治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸夬。…」」
(「後漢書/志第九 祭祀下/迎春」より)「…論曰:臧文仲祀爰居,而孔子以為不知。漢書郊祀志著自秦以來迄于王莽,典祀或有 未修,而爰居之類眾焉。世祖中興,蠲除非常,修復舊祀,方之前事邈殊矣。嘗聞儒言,三 皇無文,結繩以治,自五帝始有書契。至於三王,俗化彫文,詐偽漸興,始有印璽以檢姦萌, 然猶未有金玉銀銅之器也。」
また「刻木」については以下のような記事が見えます。
(「三國志/魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十/烏丸」より)「(註)魏書曰…大人有所召呼,刻木為信,邑落傳行,無文字,而部眾莫敢違犯。…」(「後漢書」にも同趣旨の記事があります。)
(「隋書/列傳第四十九/北狄/突厥」より)「…無文字,刻木為契。…」
(「隋書/志第二十六/地理下/揚州/林邑郡」より)「…刻木以為符契,…」
以上からは「三皇」時代には「結縄」であったとされ「五帝」の時代には「文字」が造られたとされています。また「刻木」は「突厥」「林邑」「烏丸」などにおける風俗として書かれていますから、いずれも夷蛮の地域のものです。
これらによればどちらかといえば中国の中心域では「結縄」、周辺諸国では「刻木」ではなかったでしょうか。このことから「倭国」における「結縄刻木」という表現からは、中国の古い風習と夷蛮の国らしい珍しい方法とがミックスしていると(魏使には)見られていたこととなるでしょう。
また、上の「刻木」の例では「烏丸」におけるものが注目されます。(上の三国志の例)そこでは「信」つまり「手紙」やメッセージの代わりとして「刻木」しているとされます。「大人」からの指示が「刻木」として各邑落に伝わり、そこに「文字」がないのに(文様だけがあったと思われます)誰も違反するものがないとされているわけです。
他にも『隋書』に書かれた「突厥」や「林邑」の例では「刻木」とは「符契」を意味し、それらは身分証明であったり、信用確保のために使用するものであったとされます。(木ないし竹に何らかの「文様」を刻みつけ、それを二つに割った上で両者がそれを所有し、何らかのタイミングでそれを合わせることにより身分証明として使用したもの)
倭国においてもこれらと同様の意義があったという可能性が考えられる訳です。
「倭国」において「仏教」が伝来した後もこれを止められなかったとされるわけですが、その理由は「まだ『日本語』を表す文字がなかった」ということではなかったでしょうか。「無文字」とはそういう意味なのだと思われます。
彼らは情報を伝えるのに、「結縄刻木」していたものであり、このような生活は「弥生」以来なのではないかと思われます。
「王」も彼等に対して何か「詔」のようなものを発する時には「結縄刻木」で表していたものと思われます。それが「無文字 無号 不記干支 『以成政』」という部分に明確に現れていると言えるでしょう。
その「結縄刻木」時代に「文字」の代わりとして「刻まれた」文様が「日本語」を表すものであったこともまた当然です。この「結縄刻木」という用語が「無文字」という状態を表すのに常套的に使用されるていることを考えあわせれば、この時点では「公用語」は「日本語」であり、「刻木」されたものは「文様」ではあっても「文字」(それも「漢字」)ではなかったこととなるでしょう。
そしてその後「仏教」が伝来したことにより「漢語」が流入したわけですが(この場合「漢語」は「経典類」を意味すると思われます)、「公用語」は依然として「日本語」であったと思われます。そのため「結縄刻木」が続かざるを得なかったと理解できます。(また「暦」も未だ伝来していないため、干支も使用されていなかったもの。)
そしてその後ある程度期間を経た後「結縄刻木」が停止されることとなったわけですが、それはそれまでの「文様」の代わりに、「漢字」を使用して「日本語」を表記できることとなったからと推量されるわけであり、またその時点で「万葉仮名」(の原型と思われるもの)が成立したことを示すと思われるわけです。
伝来した漢籍の表記に使用されている「漢字」を日本語表記に転用可能であると考え工夫するのにやや時間がかかったとすると、それが「仏教伝来」から「明要年間」までの期間であると考えられます。(約五十年)
これについては「漢語」を「公用語」としたという理解もありますが(※)、それでは一般民衆に対して布告などを行う際にも「漢語」が使用されたこととなり、とても誰も理解できなかったであろうと推測されます。「結縄刻木」が行われなくなったと言うことは代わりに「文字」が発明されたからであり、それは当然「日本語」を表すものでなければならなかったはずです。でなければ「一般民衆」には伝わらなかったと考えられます。
また「漢語」を公用語としたという理解は「武」以前の「珍」や「済」がすでに「上表文」を中国皇帝に提出していることと矛盾するといえます。
「宋書」「太祖元嘉二年(四二五年),讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。」
「宋書」「(元嘉)二十八年(四五一年),加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。濟死,世子興遣使貢獻。」
これらの記事では「表」が提出されたと見られ、「倭国王権」が「漢文」を使用していたことは明確です。それが「渡来人」の手によるものであるかは問題ではありません、その「漢語」による「文書」の存在そのものは「倭国王」を初めとする「倭国王権」が認識していたことは確かであると思われるからです。そうであるなら「明要」年中という「文書始出来」という記述の内容が「漢文」による「文書」の成立を示しているものではないことは当然のこととなります。
また、確認できる「文書木簡」では明らかにそこに書かれた文章は「日本語」を漢字を使用して表現したというものであり、「漢文」とは言えないと思われます。もちろん「漢籍」にその出典があるような語も確認できますが、基本的には「日本語」としての文章が書かれていると判断でき、このことはこの「文書始出来」とされる「明要年間」において確立したことではなかったかと考えられるものです。
(※)中小路駿逸「日本列島への仏法伝来、および日本列島内での漢字公用開始の年代について」及び「仏法伝来と漢字の国内公用開始についての補足ならびに訂正」大手門学院大学デジタルリポジトリ
この「二中歴」の書き方からは「文書」ができたのと「結縄刻木止了」は同時であるように受け取られます。ここで言う「結縄」と「刻木」は「漢籍」を探ると以下のように中国の周辺の諸国(いわゆる夷蛮の国)において「メッセージ」(指示や伝達など)を伝える際に使用されていたという記述が確認され、これらは「文字」がない世界ではごく当然のように使用されていたものと見られます。
まず「結縄」については「漢書」などに「易経」を引用する形で以下のような記事が見えます。
(「漢書/藝文志第十/六藝略/小學」より)「…易曰:「上古結繩以治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸夬。…」」
(「後漢書/志第九 祭祀下/迎春」より)「…論曰:臧文仲祀爰居,而孔子以為不知。漢書郊祀志著自秦以來迄于王莽,典祀或有 未修,而爰居之類眾焉。世祖中興,蠲除非常,修復舊祀,方之前事邈殊矣。嘗聞儒言,三 皇無文,結繩以治,自五帝始有書契。至於三王,俗化彫文,詐偽漸興,始有印璽以檢姦萌, 然猶未有金玉銀銅之器也。」
また「刻木」については以下のような記事が見えます。
(「三國志/魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十/烏丸」より)「(註)魏書曰…大人有所召呼,刻木為信,邑落傳行,無文字,而部眾莫敢違犯。…」(「後漢書」にも同趣旨の記事があります。)
(「隋書/列傳第四十九/北狄/突厥」より)「…無文字,刻木為契。…」
(「隋書/志第二十六/地理下/揚州/林邑郡」より)「…刻木以為符契,…」
以上からは「三皇」時代には「結縄」であったとされ「五帝」の時代には「文字」が造られたとされています。また「刻木」は「突厥」「林邑」「烏丸」などにおける風俗として書かれていますから、いずれも夷蛮の地域のものです。
これらによればどちらかといえば中国の中心域では「結縄」、周辺諸国では「刻木」ではなかったでしょうか。このことから「倭国」における「結縄刻木」という表現からは、中国の古い風習と夷蛮の国らしい珍しい方法とがミックスしていると(魏使には)見られていたこととなるでしょう。
また、上の「刻木」の例では「烏丸」におけるものが注目されます。(上の三国志の例)そこでは「信」つまり「手紙」やメッセージの代わりとして「刻木」しているとされます。「大人」からの指示が「刻木」として各邑落に伝わり、そこに「文字」がないのに(文様だけがあったと思われます)誰も違反するものがないとされているわけです。
他にも『隋書』に書かれた「突厥」や「林邑」の例では「刻木」とは「符契」を意味し、それらは身分証明であったり、信用確保のために使用するものであったとされます。(木ないし竹に何らかの「文様」を刻みつけ、それを二つに割った上で両者がそれを所有し、何らかのタイミングでそれを合わせることにより身分証明として使用したもの)
倭国においてもこれらと同様の意義があったという可能性が考えられる訳です。
「倭国」において「仏教」が伝来した後もこれを止められなかったとされるわけですが、その理由は「まだ『日本語』を表す文字がなかった」ということではなかったでしょうか。「無文字」とはそういう意味なのだと思われます。
彼らは情報を伝えるのに、「結縄刻木」していたものであり、このような生活は「弥生」以来なのではないかと思われます。
「王」も彼等に対して何か「詔」のようなものを発する時には「結縄刻木」で表していたものと思われます。それが「無文字 無号 不記干支 『以成政』」という部分に明確に現れていると言えるでしょう。
その「結縄刻木」時代に「文字」の代わりとして「刻まれた」文様が「日本語」を表すものであったこともまた当然です。この「結縄刻木」という用語が「無文字」という状態を表すのに常套的に使用されるていることを考えあわせれば、この時点では「公用語」は「日本語」であり、「刻木」されたものは「文様」ではあっても「文字」(それも「漢字」)ではなかったこととなるでしょう。
そしてその後「仏教」が伝来したことにより「漢語」が流入したわけですが(この場合「漢語」は「経典類」を意味すると思われます)、「公用語」は依然として「日本語」であったと思われます。そのため「結縄刻木」が続かざるを得なかったと理解できます。(また「暦」も未だ伝来していないため、干支も使用されていなかったもの。)
そしてその後ある程度期間を経た後「結縄刻木」が停止されることとなったわけですが、それはそれまでの「文様」の代わりに、「漢字」を使用して「日本語」を表記できることとなったからと推量されるわけであり、またその時点で「万葉仮名」(の原型と思われるもの)が成立したことを示すと思われるわけです。
伝来した漢籍の表記に使用されている「漢字」を日本語表記に転用可能であると考え工夫するのにやや時間がかかったとすると、それが「仏教伝来」から「明要年間」までの期間であると考えられます。(約五十年)
これについては「漢語」を「公用語」としたという理解もありますが(※)、それでは一般民衆に対して布告などを行う際にも「漢語」が使用されたこととなり、とても誰も理解できなかったであろうと推測されます。「結縄刻木」が行われなくなったと言うことは代わりに「文字」が発明されたからであり、それは当然「日本語」を表すものでなければならなかったはずです。でなければ「一般民衆」には伝わらなかったと考えられます。
また「漢語」を公用語としたという理解は「武」以前の「珍」や「済」がすでに「上表文」を中国皇帝に提出していることと矛盾するといえます。
「宋書」「太祖元嘉二年(四二五年),讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。」
「宋書」「(元嘉)二十八年(四五一年),加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。濟死,世子興遣使貢獻。」
これらの記事では「表」が提出されたと見られ、「倭国王権」が「漢文」を使用していたことは明確です。それが「渡来人」の手によるものであるかは問題ではありません、その「漢語」による「文書」の存在そのものは「倭国王」を初めとする「倭国王権」が認識していたことは確かであると思われるからです。そうであるなら「明要」年中という「文書始出来」という記述の内容が「漢文」による「文書」の成立を示しているものではないことは当然のこととなります。
また、確認できる「文書木簡」では明らかにそこに書かれた文章は「日本語」を漢字を使用して表現したというものであり、「漢文」とは言えないと思われます。もちろん「漢籍」にその出典があるような語も確認できますが、基本的には「日本語」としての文章が書かれていると判断でき、このことはこの「文書始出来」とされる「明要年間」において確立したことではなかったかと考えられるものです。
(※)中小路駿逸「日本列島への仏法伝来、および日本列島内での漢字公用開始の年代について」及び「仏法伝来と漢字の国内公用開始についての補足ならびに訂正」大手門学院大学デジタルリポジトリ