「書紀」の「用命紀」等による天皇の死去の状況が「天然痘」によるものであり、それは「五世紀」に起きたことを「年次移動」して書いているものとみたわけですが、現在通説では「天然痘」の大流行(パンデミック)は上の「欽明紀」「敏達紀」を信憑して「六世紀」に起きたと考えられているようです。しかし「五世紀」にはなかったのかというそれを反証するものはありません。
この「天然痘」はその病原体が「列島」起源のものではないことが判明していますから、半島や大陸から持ち込まれたとすると、半島などと往来が頻繁になった時期を措定すべきであり、その意味で「五世紀」というのは「天然痘」の流行時期として適合していないとはいえないこととなります。
この時代は「倭の五王」という「南朝」への遣使が行われる時期であると共に「半島」において「高句麗」の南下政策が強まり、「百済」と「倭国」がそれに対抗して「通交」していた時期でもあります。「好太王碑」の文章によっても「倭人」が相当多数半島に所在していたらしいことが知られます。
つまりこの「五世紀」という時期は「倭国」と「百済」との間がかなり親密になった時期であり、その意味で「天然痘」が流行する素地ができていたこととなりますから、その感染拡大が「六世紀」や「八世紀」などに限らないことは確かと思われます。(中国では遅くとも四世紀には「天然痘」による死者などが出ていたとされますから、その意味でも「早すぎる」と言うことはないといえます。)
「天然痘」のような強力な伝染病は死亡率も高く、古代にはそれを逃れるための有効な治療法がないわけですから、必然的に「神仏」に頼るということとなります。そのことから「仏教」が伝来する或いはそれを受容するという中に「伝染病」の流行が背景にあったと言うことが考えられるでしょう。
また、これらの記事が遡上するという可能性があるのは『隋書俀国伝』の中に「天下熱病」を窺わせる表現や「請観音経」についての記述がないことからも推定できると思われます。
『書紀』にあるように「敏達紀」である「五八五年」付近で「天然痘」の大流行があったとすると、それに程近い時期に派遣されたはずの「遣隋使」からそのような報告があって当然と思われるのに対して、記事ではそれがみられないということからも、実際にはその流行がもっと以前のことであるという可能性が高いものと推量します。それは国内に「観音(観世音菩薩)信仰」があるという説明がされていないということでも推察されます。
既にみたように「請観音経」の中心は「月蓋長者」に関する治病説話であり、それは「天然痘」のような強い伝染病が流行したことがその契機であって、「釈迦」や「観世音菩薩」「勢至菩薩」などを称揚することによる功徳によりそれが治まったとされています。「倭国」における「天下熱病」もこの「請観音経」がその救済として尊崇されたとすると、それと程近い時期に行われた「遣隋使」がそのことに触れないのは不審ではないでしょうか。
しかし実際には「隋書俀国伝」では「如意寶珠」に対する信仰が語られているのです。
この「如意寶珠」は基本的に「小乗」の経典(「賢愚経」や「大方便仏報恩経」)にあるものであり、「北魏」で漢訳されたとされ「北朝系」と考えられます。それに対し「請観音経」は「百済」を通じもたらされたものであり「南朝系」の経典と考えられますから、その意味でも食い違いがあります。
またそこで「俗」の主役となっているのは古から続く「神道系」の信仰であったとされます。「隋書俀国伝」によれば当時の「倭国」の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」とされています。つまり、「倭国」では古来より伝わる「神道」形式の信仰が主たるものであったと思われるわけであり、この「巫覡」についても「病気」に対しての民間療法の一種ではなかったかと考えられ、これと「如意寶珠」についての信仰が「習合」しているものと推察されます。しかしこれは「天下熱病」に対応する性格のものではないと言うことがいえるでしょう。ここで行われている「如意寶珠」に関する記事の中には「治病」関係の説話が見られないからです。つまりこの段階或いはそれ以前の近い時期には「天然痘」の大流行が起きているとはいえないこととなるでしょう。
この「天然痘」はその病原体が「列島」起源のものではないことが判明していますから、半島や大陸から持ち込まれたとすると、半島などと往来が頻繁になった時期を措定すべきであり、その意味で「五世紀」というのは「天然痘」の流行時期として適合していないとはいえないこととなります。
この時代は「倭の五王」という「南朝」への遣使が行われる時期であると共に「半島」において「高句麗」の南下政策が強まり、「百済」と「倭国」がそれに対抗して「通交」していた時期でもあります。「好太王碑」の文章によっても「倭人」が相当多数半島に所在していたらしいことが知られます。
つまりこの「五世紀」という時期は「倭国」と「百済」との間がかなり親密になった時期であり、その意味で「天然痘」が流行する素地ができていたこととなりますから、その感染拡大が「六世紀」や「八世紀」などに限らないことは確かと思われます。(中国では遅くとも四世紀には「天然痘」による死者などが出ていたとされますから、その意味でも「早すぎる」と言うことはないといえます。)
「天然痘」のような強力な伝染病は死亡率も高く、古代にはそれを逃れるための有効な治療法がないわけですから、必然的に「神仏」に頼るということとなります。そのことから「仏教」が伝来する或いはそれを受容するという中に「伝染病」の流行が背景にあったと言うことが考えられるでしょう。
また、これらの記事が遡上するという可能性があるのは『隋書俀国伝』の中に「天下熱病」を窺わせる表現や「請観音経」についての記述がないことからも推定できると思われます。
『書紀』にあるように「敏達紀」である「五八五年」付近で「天然痘」の大流行があったとすると、それに程近い時期に派遣されたはずの「遣隋使」からそのような報告があって当然と思われるのに対して、記事ではそれがみられないということからも、実際にはその流行がもっと以前のことであるという可能性が高いものと推量します。それは国内に「観音(観世音菩薩)信仰」があるという説明がされていないということでも推察されます。
既にみたように「請観音経」の中心は「月蓋長者」に関する治病説話であり、それは「天然痘」のような強い伝染病が流行したことがその契機であって、「釈迦」や「観世音菩薩」「勢至菩薩」などを称揚することによる功徳によりそれが治まったとされています。「倭国」における「天下熱病」もこの「請観音経」がその救済として尊崇されたとすると、それと程近い時期に行われた「遣隋使」がそのことに触れないのは不審ではないでしょうか。
しかし実際には「隋書俀国伝」では「如意寶珠」に対する信仰が語られているのです。
この「如意寶珠」は基本的に「小乗」の経典(「賢愚経」や「大方便仏報恩経」)にあるものであり、「北魏」で漢訳されたとされ「北朝系」と考えられます。それに対し「請観音経」は「百済」を通じもたらされたものであり「南朝系」の経典と考えられますから、その意味でも食い違いがあります。
またそこで「俗」の主役となっているのは古から続く「神道系」の信仰であったとされます。「隋書俀国伝」によれば当時の「倭国」の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」とされています。つまり、「倭国」では古来より伝わる「神道」形式の信仰が主たるものであったと思われるわけであり、この「巫覡」についても「病気」に対しての民間療法の一種ではなかったかと考えられ、これと「如意寶珠」についての信仰が「習合」しているものと推察されます。しかしこれは「天下熱病」に対応する性格のものではないと言うことがいえるでしょう。ここで行われている「如意寶珠」に関する記事の中には「治病」関係の説話が見られないからです。つまりこの段階或いはそれ以前の近い時期には「天然痘」の大流行が起きているとはいえないこととなるでしょう。