古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭国への仏教の伝来について(四)

2015年02月12日 | 古代史
 前稿では「百済僧」「観勒」の「上表」は「六二四年」から「一二〇年」程度遡った「五〇〇年」前後ではなかったかと推定したわけであり、「倭国」(九州王朝)への「仏教」の伝来は実は「四二〇年」前後かと推定されることとなったわけです。(同様の結論は既に「古賀達也氏」(※1)やそれに先行する「中小路駿逸氏」(※2)により得られています。)
 これについては従来の「仏教伝来」の時期が「高句麗」「百済」に比べ異様に遅かったのはなぜかという回答になるものであり、上の思惟進行によればそれは「書紀」の潤色による錯誤であって、それらの国々からさほど遅くない時期の伝来となるわけであり、しかも「倭の五王」の活動時期とぴったり重なると言うことは、言われてみれば当然至極とも言えます。
 対国外、対国内とも活発な活動を繰り広げ、海外から文物を多く取り入れていたと見られるその時期に、「仏教」も同様に国内に取り入れたこととなればきわめて自然な進行と考えられます。たとえば、「三国史記倭人伝」の「百済本紀」によると「三九五年」に「始めて」「百済」と「倭国」が「好(よし)みを結」んでいます。その証しとして「百済」からは「太子」である「典支」を「質」として倭国に送っているようです。さらに「父王」の死去に伴い帰国する「典支」に「倭国」側は「兵」百人をつけて護衛しこれを帰らせ、即位を援助しています(「四〇六年」)。
 その後も友好は続き「四一八年」には「百済」より「白絹」五十匹が献上されています。このような友好関係の中で「仏法」が伝えられていたとしても不思議ではありません。

 このように「百済」が「倭国」とこの時期「友好関係」を結んだのは「対高句麗」という「戦略上」の理由が大きいと考えられます。「好太王」の碑文によれば、「倭」軍を「好太王」が「渡海」して「破」ったと書かれており、また「百済」や「新羅」を「臣民」としたという事跡(高句麗の建前論)が書かれています。そして、それが「辛卯」(三九一年)の年のことと考えられているわけであり、これは「三国史記」で「倭国」と「百済」が「友好」を開始したとされる「三九五年」の直前のことなのです。
 このようにこの時期「高句麗」と「倭国」「百済」は互いに「熾烈」な戦いを行っていました。しかし、「好太王」即位以降「高句麗」の勢いが強くなる中で「百済」と「倭国」は「連係」して対応することとしたのだと思われます。とくに、そのような道を選んだ理由は「百済」側により多くの理由があると考えられます。なんと言っても「百済」は「高句麗」と「国境」を接しているわけですから、より強力な軍事能力を獲得する必要があり、そういう意味で「倭国」と連合したものと推察されます。また、「百済」にしてみると「高句麗」と「前線」で戦っている「背後」を襲われてはたまらない、という意味もあったでしょう。
 「高句麗」と「倭国」が手を結ぶというようなことさえも想定して、その前に、あるいはそうはさせないように「画策」したとしても不思議ではないと考えられます。
 そういう意味で「百済」の方に、より「友好」を結ぶべき理由があったと考えられ、そうであるなら、「仏教」をあえて「倭国」に伝えなかったなどと言うことは想定できないこととなるでしょう。「仏教」を「百済」から取り入れず、逆に「高句麗」から伝わってしまったならば、「倭国」が「高句麗」に対して「敵意」を持たなくなるようなことも考えられるからです。
 明らかに「百済」からは各種の「文物」を「友好」の「証」として「倭国」に提供せざるを得ない「事情」があったのであり、その中に「仏教」というものがあったとしても全く不思議ではありません。(「王」同士が同じ「宗教」を信仰しているという方が「連帯の証」としてふさわしいでしょう)
 逆に「倭国」からの使者も「仏教寺院」を目にして何も興味を示さない、というのは想定しがたいものと考えられ、「使者」から「報告」を受けた倭国王は多いに興味をかき立てられたことと思慮されます。

 ところで、『書紀』による「仏教」伝来記事は以下の通りです。

「欽明十三年(五三八年)冬十月。百濟聖明王更名聖王。遣西部姫氏達率怒唎斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶。逐所須用。盡依情。此妙法寶亦復然。祈願依情無所乏。且夫遠自天竺。爰洎三韓。依教奉持。無不尊敬。由是百濟王臣明謹遣陪臣怒唎斯致契。奉傳帝國。流通畿内。果佛所記我法東流。是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。…」(欽明紀)

 この記事によれば「百済」より「仏像」「経論」などが持ち込まれ、それに対し「欽明天皇」は「歡喜踊躍」して喜んだものの「然朕不自决」として「可禮以不」を「群臣」に問いかけた、ということとなっています。
 つまり、「天皇」が「礼拝」するかどうか、と言うわけですから、「国教」とするかどうかということのようです。しかも「天皇」の「詔」として「朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。」とまで言っています。つまり、「今までにこのようなすばらしい教えは聞いたことがない」というわけです。つまり、この「詔」の時点では「国内」に「仏教」が全く入っていないように感じられます。
 また、その後「崇仏」と「排仏」で国内は分かれて争うこととなるわけですが、これが「物部守屋」の滅亡で決着したのが「推古紀」の事として書かれています。
 「欽明紀」の記事が「仏教伝来」のその時点の記事としてリアルな描写であること、「百済僧」「観勒」の「上表」記事では「仏教」の伝来の記事が「干支二巡」ずれていて、それがそのことに限定されるのかということを考えると、「欽明紀」から「推古紀」が揃って「干支二巡」(一二〇年)ずれているという可能性があるのではないでしょうか。


(※1)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か~「仏教伝来」戊午年伝承の研究」(『古代に真実を求めて』第一集一九九六年三月 明石書店)
(※2)中小路駿逸「日本列島への仏法伝来、および日本列島内での漢字公用開始の年代について」(『大手門学院大学東洋文化学科年報』二巻一九八七年)
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倭国への仏教の伝来について(三)

2015年02月12日 | 古代史
 仏教の伝来に関係したこととして、『書紀』の「推古紀」の中に興味深い記事があります。

「(推古)卅二年(六二四年)夏四月丙午朔戊申。三有一僧。執斧毆祖父。時天皇聞之。召大臣詔之曰。夫出家者頓歸三寶具懐戒法。何無懺忌輙犯惡逆。今朕聞。有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼以推問之。若事實者重罪之。於是集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸尼並將罪。於是百濟觀勤僧表上以言。『夫佛法自西國至于漢經三百歳。乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲。而貢上佛像及内典未滿百歳。故當今時。』以僧尼未習法律。輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如。仰願其除悪逆者以外僧尼。悉赦而勿罪。是大功徳也。天皇乃聽之。」

 この記事の中には「夫佛法自西國至于漢經三百歳。」という文章があります。つまり、「仏法」が「西国」から「中国」を経由して「百済」に伝わるまで「三〇〇年」かかったというのです。
 五世紀「東魏」の「楊衒之」が撰した「洛陽伽藍記」では、西国(インド)から中国への伝来は「後漢の明帝」の時代(紀元五十七~七十五年)とされ、一般にはこれは「紀元六十七年」のことと考えられています。

「洛陽伽藍記/卷四 城西/白馬寺」「白馬寺,漢明帝所立也。佛入中國之始。寺在西陽門外三裏禦道南。帝夢金神,長丈六,項背日月光明。胡人號曰佛,遣使向西域求之,乃得經像焉。時以白馬負經而來,因以為名。明帝崩,起祗洹於陵上。自此以後,百姓塚上或作浮圖焉。寺上經函,至今猶存。常燒香供養之,經函時放光明,耀於堂宇。是以道俗禮敬之,如仰真容。… 」
 
 これによれば、「後漢」の「明帝」が「西域」に遣使し「経像」を求めたものであり、それを白馬が背負ってきたので「洛陽」に「白馬寺」を建てたとされ、それが「仏教」の「中国」における「始め」であるとされています。 
 また「百済」に「東晋」より仏教が伝来したのは、「三国史紀」によれば「三八四年」とされています。

(「三国史記」百済本紀)「沈流王元年」(三八四年)「九月 胡僧摩羅難自晉至 王迎之致宮内 禮敬焉 佛法始於此」

 この間は「三八四-六十七=三一七年」ですから、これを「三〇〇年」の経過、と表記するのはそれほど間違いではないと思われます。しかし問題はその後です。「觀勒」の上表文では「乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。」、つまり、百済に伝わってから「僅か一〇〇年」と言っているようなのです。
 「百済」に伝来してから「百年」ということは、この「上表」の年次は「三八四年」+「一〇〇年」=「四八四年」付近のこととなってしまいます。
 さらに「貢上佛像及内典未滿百歳」、つまり「倭国」に「仏教」が伝来してからは「一〇〇年未満」というのですから、「八十年」前後と考えれば、「倭国」への伝来の年次は百済に伝来した年次である「三八四年」に「百-八十年」(=二十年)ほどを加えて「四〇四年」前後、という事となります。こう考えなければ「上表文」の趣旨と合致しません。
 ただし、「観勒」は「西国」から「漢」を経由して「百済」に伝来するまで「三〇〇年」かかったと言っていますが、上記の計算では「三一七年」となり、「十七年」の誤差があります。「観勒」の表現法にはこの程度の誤差があると考えると、「百年」にも「百年未満」という数字にも「十年程度」の誤差があっても不思議はありません。それらの合計として算出された「四八〇年」や「四〇四年」という数字についても、数字の幅として「前後十年」程度の誤差を見るべきでしょう。つまり「伝来」については「四〇〇年」±十年程度と見るべきであり、また上表した時期についても「五〇〇年」程度までその幅を広げて考えるべきと考えられます。ただし、いずれにしても「観勒」の時代として「五世紀末」程度を想定する必要があり、「倭の五王」の一人である「武」に対して行われた「上表」であると見ることが相当ではないでしょうか。

 また、この推定はこの時点で「僧正」「僧都」「法頭」などが任命されたという記事内容とも合致します。

「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。
壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。
秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」

 これらの「僧尼」を統制管理する職掌の「中国」における原型は「東晋」の頃のようですが、「王権」が「僧尼」等に対する監督としての「職掌」として任命したのは「南朝劉宋」の「順帝」の「昇明年間」に「楊法持」という人物を「僧正」としたとされているのが最初と考えられます。

「南史 列傳第六十七 楊法持」の段「宋時道人楊法持與高帝有舊,元徽末,宣傳密謀。昇明中,以為僧正。…。」

 この記事は「武」が「上表文」を提出した年次の至近となります。つまり、彼が派遣した「使者」が「僧尼」を管理する「管掌」としての「僧正」という存在を知識として持ち帰ったという可能性(蓋然性)は非常に高いと考えられますが、このことは「観勒」が上表した結果、それに応じて「僧正」などの任命を行ったという『書紀』の記事と整合するものといえ、彼の「真の」時代が「武」の時代であることを強く示唆するものです。(「観勒」という人物名が五世紀のものであるかは不明です。)
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