前稿では「百済僧」「観勒」の「上表」は「六二四年」から「一二〇年」程度遡った「五〇〇年」前後ではなかったかと推定したわけであり、「倭国」(九州王朝)への「仏教」の伝来は実は「四二〇年」前後かと推定されることとなったわけです。(同様の結論は既に「古賀達也氏」(※1)やそれに先行する「中小路駿逸氏」(※2)により得られています。)
これについては従来の「仏教伝来」の時期が「高句麗」「百済」に比べ異様に遅かったのはなぜかという回答になるものであり、上の思惟進行によればそれは「書紀」の潤色による錯誤であって、それらの国々からさほど遅くない時期の伝来となるわけであり、しかも「倭の五王」の活動時期とぴったり重なると言うことは、言われてみれば当然至極とも言えます。
対国外、対国内とも活発な活動を繰り広げ、海外から文物を多く取り入れていたと見られるその時期に、「仏教」も同様に国内に取り入れたこととなればきわめて自然な進行と考えられます。たとえば、「三国史記倭人伝」の「百済本紀」によると「三九五年」に「始めて」「百済」と「倭国」が「好(よし)みを結」んでいます。その証しとして「百済」からは「太子」である「典支」を「質」として倭国に送っているようです。さらに「父王」の死去に伴い帰国する「典支」に「倭国」側は「兵」百人をつけて護衛しこれを帰らせ、即位を援助しています(「四〇六年」)。
その後も友好は続き「四一八年」には「百済」より「白絹」五十匹が献上されています。このような友好関係の中で「仏法」が伝えられていたとしても不思議ではありません。
このように「百済」が「倭国」とこの時期「友好関係」を結んだのは「対高句麗」という「戦略上」の理由が大きいと考えられます。「好太王」の碑文によれば、「倭」軍を「好太王」が「渡海」して「破」ったと書かれており、また「百済」や「新羅」を「臣民」としたという事跡(高句麗の建前論)が書かれています。そして、それが「辛卯」(三九一年)の年のことと考えられているわけであり、これは「三国史記」で「倭国」と「百済」が「友好」を開始したとされる「三九五年」の直前のことなのです。
このようにこの時期「高句麗」と「倭国」「百済」は互いに「熾烈」な戦いを行っていました。しかし、「好太王」即位以降「高句麗」の勢いが強くなる中で「百済」と「倭国」は「連係」して対応することとしたのだと思われます。とくに、そのような道を選んだ理由は「百済」側により多くの理由があると考えられます。なんと言っても「百済」は「高句麗」と「国境」を接しているわけですから、より強力な軍事能力を獲得する必要があり、そういう意味で「倭国」と連合したものと推察されます。また、「百済」にしてみると「高句麗」と「前線」で戦っている「背後」を襲われてはたまらない、という意味もあったでしょう。
「高句麗」と「倭国」が手を結ぶというようなことさえも想定して、その前に、あるいはそうはさせないように「画策」したとしても不思議ではないと考えられます。
そういう意味で「百済」の方に、より「友好」を結ぶべき理由があったと考えられ、そうであるなら、「仏教」をあえて「倭国」に伝えなかったなどと言うことは想定できないこととなるでしょう。「仏教」を「百済」から取り入れず、逆に「高句麗」から伝わってしまったならば、「倭国」が「高句麗」に対して「敵意」を持たなくなるようなことも考えられるからです。
明らかに「百済」からは各種の「文物」を「友好」の「証」として「倭国」に提供せざるを得ない「事情」があったのであり、その中に「仏教」というものがあったとしても全く不思議ではありません。(「王」同士が同じ「宗教」を信仰しているという方が「連帯の証」としてふさわしいでしょう)
逆に「倭国」からの使者も「仏教寺院」を目にして何も興味を示さない、というのは想定しがたいものと考えられ、「使者」から「報告」を受けた倭国王は多いに興味をかき立てられたことと思慮されます。
ところで、『書紀』による「仏教」伝来記事は以下の通りです。
「欽明十三年(五三八年)冬十月。百濟聖明王更名聖王。遣西部姫氏達率怒唎斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶。逐所須用。盡依情。此妙法寶亦復然。祈願依情無所乏。且夫遠自天竺。爰洎三韓。依教奉持。無不尊敬。由是百濟王臣明謹遣陪臣怒唎斯致契。奉傳帝國。流通畿内。果佛所記我法東流。是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。…」(欽明紀)
この記事によれば「百済」より「仏像」「経論」などが持ち込まれ、それに対し「欽明天皇」は「歡喜踊躍」して喜んだものの「然朕不自决」として「可禮以不」を「群臣」に問いかけた、ということとなっています。
つまり、「天皇」が「礼拝」するかどうか、と言うわけですから、「国教」とするかどうかということのようです。しかも「天皇」の「詔」として「朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。」とまで言っています。つまり、「今までにこのようなすばらしい教えは聞いたことがない」というわけです。つまり、この「詔」の時点では「国内」に「仏教」が全く入っていないように感じられます。
また、その後「崇仏」と「排仏」で国内は分かれて争うこととなるわけですが、これが「物部守屋」の滅亡で決着したのが「推古紀」の事として書かれています。
「欽明紀」の記事が「仏教伝来」のその時点の記事としてリアルな描写であること、「百済僧」「観勒」の「上表」記事では「仏教」の伝来の記事が「干支二巡」ずれていて、それがそのことに限定されるのかということを考えると、「欽明紀」から「推古紀」が揃って「干支二巡」(一二〇年)ずれているという可能性があるのではないでしょうか。
(※1)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か~「仏教伝来」戊午年伝承の研究」(『古代に真実を求めて』第一集一九九六年三月 明石書店)
(※2)中小路駿逸「日本列島への仏法伝来、および日本列島内での漢字公用開始の年代について」(『大手門学院大学東洋文化学科年報』二巻一九八七年)
これについては従来の「仏教伝来」の時期が「高句麗」「百済」に比べ異様に遅かったのはなぜかという回答になるものであり、上の思惟進行によればそれは「書紀」の潤色による錯誤であって、それらの国々からさほど遅くない時期の伝来となるわけであり、しかも「倭の五王」の活動時期とぴったり重なると言うことは、言われてみれば当然至極とも言えます。
対国外、対国内とも活発な活動を繰り広げ、海外から文物を多く取り入れていたと見られるその時期に、「仏教」も同様に国内に取り入れたこととなればきわめて自然な進行と考えられます。たとえば、「三国史記倭人伝」の「百済本紀」によると「三九五年」に「始めて」「百済」と「倭国」が「好(よし)みを結」んでいます。その証しとして「百済」からは「太子」である「典支」を「質」として倭国に送っているようです。さらに「父王」の死去に伴い帰国する「典支」に「倭国」側は「兵」百人をつけて護衛しこれを帰らせ、即位を援助しています(「四〇六年」)。
その後も友好は続き「四一八年」には「百済」より「白絹」五十匹が献上されています。このような友好関係の中で「仏法」が伝えられていたとしても不思議ではありません。
このように「百済」が「倭国」とこの時期「友好関係」を結んだのは「対高句麗」という「戦略上」の理由が大きいと考えられます。「好太王」の碑文によれば、「倭」軍を「好太王」が「渡海」して「破」ったと書かれており、また「百済」や「新羅」を「臣民」としたという事跡(高句麗の建前論)が書かれています。そして、それが「辛卯」(三九一年)の年のことと考えられているわけであり、これは「三国史記」で「倭国」と「百済」が「友好」を開始したとされる「三九五年」の直前のことなのです。
このようにこの時期「高句麗」と「倭国」「百済」は互いに「熾烈」な戦いを行っていました。しかし、「好太王」即位以降「高句麗」の勢いが強くなる中で「百済」と「倭国」は「連係」して対応することとしたのだと思われます。とくに、そのような道を選んだ理由は「百済」側により多くの理由があると考えられます。なんと言っても「百済」は「高句麗」と「国境」を接しているわけですから、より強力な軍事能力を獲得する必要があり、そういう意味で「倭国」と連合したものと推察されます。また、「百済」にしてみると「高句麗」と「前線」で戦っている「背後」を襲われてはたまらない、という意味もあったでしょう。
「高句麗」と「倭国」が手を結ぶというようなことさえも想定して、その前に、あるいはそうはさせないように「画策」したとしても不思議ではないと考えられます。
そういう意味で「百済」の方に、より「友好」を結ぶべき理由があったと考えられ、そうであるなら、「仏教」をあえて「倭国」に伝えなかったなどと言うことは想定できないこととなるでしょう。「仏教」を「百済」から取り入れず、逆に「高句麗」から伝わってしまったならば、「倭国」が「高句麗」に対して「敵意」を持たなくなるようなことも考えられるからです。
明らかに「百済」からは各種の「文物」を「友好」の「証」として「倭国」に提供せざるを得ない「事情」があったのであり、その中に「仏教」というものがあったとしても全く不思議ではありません。(「王」同士が同じ「宗教」を信仰しているという方が「連帯の証」としてふさわしいでしょう)
逆に「倭国」からの使者も「仏教寺院」を目にして何も興味を示さない、というのは想定しがたいものと考えられ、「使者」から「報告」を受けた倭国王は多いに興味をかき立てられたことと思慮されます。
ところで、『書紀』による「仏教」伝来記事は以下の通りです。
「欽明十三年(五三八年)冬十月。百濟聖明王更名聖王。遣西部姫氏達率怒唎斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶。逐所須用。盡依情。此妙法寶亦復然。祈願依情無所乏。且夫遠自天竺。爰洎三韓。依教奉持。無不尊敬。由是百濟王臣明謹遣陪臣怒唎斯致契。奉傳帝國。流通畿内。果佛所記我法東流。是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。…」(欽明紀)
この記事によれば「百済」より「仏像」「経論」などが持ち込まれ、それに対し「欽明天皇」は「歡喜踊躍」して喜んだものの「然朕不自决」として「可禮以不」を「群臣」に問いかけた、ということとなっています。
つまり、「天皇」が「礼拝」するかどうか、と言うわけですから、「国教」とするかどうかということのようです。しかも「天皇」の「詔」として「朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。」とまで言っています。つまり、「今までにこのようなすばらしい教えは聞いたことがない」というわけです。つまり、この「詔」の時点では「国内」に「仏教」が全く入っていないように感じられます。
また、その後「崇仏」と「排仏」で国内は分かれて争うこととなるわけですが、これが「物部守屋」の滅亡で決着したのが「推古紀」の事として書かれています。
「欽明紀」の記事が「仏教伝来」のその時点の記事としてリアルな描写であること、「百済僧」「観勒」の「上表」記事では「仏教」の伝来の記事が「干支二巡」ずれていて、それがそのことに限定されるのかということを考えると、「欽明紀」から「推古紀」が揃って「干支二巡」(一二〇年)ずれているという可能性があるのではないでしょうか。
(※1)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か~「仏教伝来」戊午年伝承の研究」(『古代に真実を求めて』第一集一九九六年三月 明石書店)
(※2)中小路駿逸「日本列島への仏法伝来、および日本列島内での漢字公用開始の年代について」(『大手門学院大学東洋文化学科年報』二巻一九八七年)