古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭国への仏教伝来について(五)

2015年02月14日 | 古代史
 前々項で「僧正」というような「僧尼」を管理する体制が「五世紀」の南朝劉宋時代に制度化されたとみたわけですが、「書紀」にはそれと一連の記事として「僧尼」の戸籍ともいうべきものが作成されたと書かれています。(以下再掲)


「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。
壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。
秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」

 このデータベースには「度之年月日」つまり「得度」した日付が記録されているとされますが、それはこの時代に「元嘉暦」が導入されたと考えられる点からも首肯できるものです。さらに「結縄刻木」が停止されたという「明要」の項の記事とも整合するといえるでしょう。「文字」が成立して初めて「具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁」なども記録できるようになったとみられるからです。
 そして、この「元嘉暦」の導入と関係しているのが「年号」の使用開始です。

 『二中歴』には「継体二十五(応神五世孫 此時年号始)」(「継体天皇」は「応神天皇」の五世の孫であり、その治世は二十五年間続き、主要な事項は年号の使用開始である)と書かれています。
 これは従来、「六世紀前半」の記事であり、「継体」の時代というのは、通常「倭の五王」の一人である「武」の時代から後継者としての「磐井」の時代であり、成文法としての「刑法」が制定され、「律令政治」の原型が作られた時代と考えられています。(磐井の墳墓の様子を記した「風土記」の記事から「刑法」の存在が想定されているわけです)
 このような時期に「年号」の「使用開始」という記録があるわけで、これは一見「律令」の開始という様なことを想定すると、整合性は高いものと思われ、このことからこの『二中歴』の細注には「正当性」があると考えて、余り関心を払われていなかったと思われます。しかし、この時期を「六十年」過去側に修正すると「四五七年」となります。
 『書紀』の日付の研究(※)から、「元嘉暦」の使用開始時期について、遅くても「四五六年八月」と判明しています。それ以前の「三九九年」から「四五六年八月」までは「儀鳳暦」でも「元嘉暦」でも合うとされていますが、実際には「南朝」で「元嘉暦」を使用開始したのが「四四五年」とされており、この年次以降のどこかで「倭国」に伝来したと考えられることとなりますが、「六十年」の年次移動の結果「年号」の使用開始が「四五七年」となると、これは「暦」の解析から導き出された「元嘉暦」の伝来時期の下限とされる「四五六年」とまさに「接する」年次となり、「暦」が伝わった時点で、同時に「年号」も使用し始めたと考えると非常に整合的だと思われます。 
 日付表記法は「干支」によるか「年号」によるかですが、いずれにしろ、「一年」の長さを正確に把握しなければならず、「暦」と「年号」というものが不可分であるのは当然であり、「元嘉暦」の導入と「年号」の使用開始が「同時」であったとしても、何ら不自然ではありません。(ただしこの「元嘉暦」の伝来は「百済」を経由したものと推定されますが。)

 これに類する例を挙げると、「三国史記」に「真徳女王」時代のこととして、「唐」から「独自年号」の使用を咎められたことが書かれており、その際の「新羅使者」の返答によれば、「唐」から「暦」の頒布を受けていないから「独自年号」を使用しているとしています。

「二年冬使邯帙許朝唐。太宗勅御史問 新羅臣事大朝何以別稱年號。帙許言 曾是天朝未頒正朔 是故先祖法興王以來私有紀年。若大朝有命小國又何敢焉」

(以下大意)
「二年冬、邯帙許を使者とし、唐に朝貢させた。その時太宗は御史を通じて、(以下のように)問いただした。新羅は大朝(唐)に臣として仕えているのに、どうして別な年号を称しているのか。邯帙許は(次のように)言った。いまだかつて、天朝(唐)は正朔(暦)を(新羅に)頒ち与えたことがありません。そのため先祖の法興王以来、勝手に年号を使っています。もし大朝から命令があるならば、小国(わが国)はどうしてあえてこれに反対しましょうか。」

 ここでは「正朔を奉じる」こと、つまり「宗主国と同じ暦を使用する」ということと、「宗主国」の年号を使用するということがセットになっていることが判ります。
 「倭国」の場合は「暦」は伝わったものの「南朝劉宋」からは「年号」の使用の強制がなかったのではないかと考えられ、「暦」だけを受容することとなったと見られます。それは「高句麗」が独自年号を使用していたことと関係があると思えます。
 このような「年号」使用開始というのものは、その「王権」の権威の高揚や「統治」の固定化などにより強く作用するためのツールとして使用されたと見るべきであり、その意味で「半島内」の覇権を「高句麗」と争っていた「倭国」にとって、「年号」の点で後れを取るのは「あってはならないこと」であったのではないでしょうか。
 また、国内的にも「東国」への進出と同時期に「年号」の使用開始が行なわれていると見られることとなりますから、それもまた「東国」に対する統治の強化等に有効に作用したであろう事が推察できるものです。
 このようなことから考えると「年号」の使用開始と「元嘉暦」の伝来とは直接的な関係があると考えられ、逆に「暦」の伝来から「六十年」も隔たって「年号」を使用開始したとすると、著しくタイミングがずれているといえるのではないかと推量します。

 この時期に「年号と「暦」を使用開始したとすると、それは「倭国王」の「済」の時代のこととなると思われます。「済」は「四四三年」「四五一年」と「遣使」記事があり、その後「世子」である「興」が「四六二年」に遣使していますから、「四五七年」という年次はほぼ「済」の年代を指すと考えて間違いないようです。

(※)小川清彦『日本書紀の暦日について』一九四七年
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