古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

薄葬令について(続き)

2015年02月25日 | 古代史
 すでにみたように「前方後円墳」の築造が広い範囲で一斉に停止されるということについては、明らかにこの段階で列島に「強い権力者」が登場したことを意味すると思われ、「為政者」の意志を末端まで短期間に伝達・徹底させる組織が整備されたことを意味すると考えられるわけですが、またこの時点でその「意志」を明示する何らかの「詔」なり「令」が出されたことを推察させるものであり、それが「薄葬令」ではなかったかということを論じています。
 また、その終焉が「二回」別の時期として確認されるということは、そのような「詔」の類が「二回」出されたことを意味するとも思われます。
 いずれにしても「前方後円墳」はあたかも「狙い撃ち」されたように消滅するわけです。それは「前方後円墳」で行われていた「祭祀」にその原因があったとみられます。
 この「前方後円墳」で行なわれていた「祭祀」については初期の「竪穴式石室」を伴う古墳の場合、「円頂部」で行なわれていたものであり、その後「横穴式(横口式)石室」に変化して以降は「くびれ部」(方形部と円形部の接続部分)に作られた「造り出し部」で行われるように変更されていたとされますが、その内容としては「前王」が亡くなった後行なわれる「殯」の中で「新王」との「交代儀式」を「霊的存在の受け渡し」という、「古式」に則って行なっていたものと考えられ、「仏教」的観念からは遠く離れたものであったことが推測できます。そのためこのような祭祀が行われていることが、「倭国王」として仏教を布教・拡大するのに「障害」となると考えられたことと、「王」の交代というものが「神意」によるということになると、相対的に「倭国王」の権威が低下することを恐れたということが考えられます。
 この時「倭国王」は中央集権的な「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され、(それは「隋」に啓発されたものと思われますが)「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されるからです。そのことは「冠位」の制定と関係していると考えることができます。
 『書紀』によれば「冠位」の制定は「六〇四年」とされています。しかし『隋書俀国伝』には「六〇〇年」に訪れた「遣隋使」からの情報として「隋代」開始時点付近の「冠位制定」が記されています。
(以下『隋書俀国伝』の一節)

「開皇二十年(六〇〇年)…上令所司訪其風俗。使者言…頭亦無冠 但垂髮於兩耳上。 至隋其王始制冠 以錦綵為之以金銀鏤花為飾。…」

 これによれば、「六〇〇年」に派遣された「遣隋使」が述べた「風俗」の中に「冠位制」について記されていますが、これは既に述べたようにこの「開皇二十年記事」が本来「隋初」のものであった可能性が考えられます。そこでは「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀後半」に「冠位制」が施行されたことを意味していると考えられるわけです。
 そこには「内官」と書かれ「王権内部」における人事階級制について書かれていると思われるわけですが、この「階級制」は「内官」だけではなく「諸国」の王達も「倭国王」支配下の「官人」として階級が定められるように「敷衍」されることとなったと推量され、「倭国王」を頂点とする権力のピラミッド構造を「国内」に構築する意図があったものと考えられます。
 そうであれば「王」の交代というものに「倭国王」が介在しない形の「祭祀」が存在するのは問題であったかも知れず、これを避けようとするのは当然かも知れません。そのため、「古墳造営」に対して「制限」(特にその「形状」)を加えることで、そのような「古式」的呪術を取り除こうとしたものと推測され、そのため「前方後円墳」が「狙い撃ち」されたように「終焉」を迎えるのだと考えられます。
 そのことは「埴輪」の終焉が同時であることからも言えそうです。「埴輪」の意義については各種の議論がありますが、「前方後円墳」で行われていた「祭祀」に伴う重要な要素であるという事と、「墓域」を「聖域」化するためのパーツであるというものがあります。これらについても「前方後円墳」の築造停止と共に消滅するものであり、これは「祭祀」が停止されたことに付随する現象であると考えられるものです。

 ところで、『隋書俀国伝』では「殯の期間」として「貴人は三年」と表現されているのに対して、この「孝徳紀」の「薄葬令」を見ると「凡王以下及至庶民不得營殯。」とされており、ここでは「王」以下については「殯」そのものが否定されています。さらに『隋書俀国伝』では「八十戸制」であると考えられるのに対して、「薄葬令」では「五十人」の整数倍の人数が「役」(えだち)として決められており、ここでは「五十戸制」の可能性が強いと思われます。
 この「五十戸制」が「隋代」以降の制度であると考えられることからも、「薄葬令」は「遣隋使」により持ち帰られた「隋」の制度を反映していると思われます。
 既に見たように「遣隋使」の派遣時期についての考察から、「六世紀末」の「隋初」段階で「遣隋使」が派遣され、「隋」から大量の文物が流入していたらしい事が推察されることとなりましたが、そのことから「墓制」(葬送儀礼)についても「隋」に倣ったという可能性が考えられるところです。
 「薄葬」は「唐代」に入って「厚葬」に漸次替わっていきますが、「南北朝」時代は「魏晋」以降の「薄葬」が継続していたと見られ、「隋」においても同様であったものと見られます。
 「隋代」の高官の遺詔にも「薄葬」を述べたものが確認され、まだこの時代は「薄葬」が標準的であったものと思われますし、「隋」の「高祖」(文帝)もその遺詔の中で「…但國家事大,不可限以常禮。既葬公除,行之自昔,今宜遵用,不勞改定。凶禮所須,纔令周事。務從節儉,不得勞人。…」としており、基本的には「葬儀」を簡便にし、大規模な墳墓の造成や副葬品の埋納を禁止しているようです。実際に彼の墳墓なども発掘されていますが、(泰陵)副葬品は同時代の諸国の王とさほど変わらないとされます。
 また「中国」では「王」クラスの墳墓は「方墳」が一般的であり、それが「薄葬令」に影響していると考えられます。
 これらのことから「阿毎多利思北孤」の治世期間と思われる「隋初」という時期に「隋」との交流の中から学んだものとして「薄葬令」が出され、それに基づき「前方後円墳」の築造が停止されたものと見て不思議はないこととなります。

 それに対しこれを『書紀』の記述の時期として「七世紀半ば」と想定すると明らかな「矛盾」があると考えられます。それは、この「薄葬令」の後半に書かれている「人や馬」などについての「殉死」禁止の規定です。

「…凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。…」

 ここでは「殉葬」(あるいは「殉死」)等の「旧俗」の禁止が明確に書かれているわけですが、そもそも「殉葬」は「卑弥呼」の頃から「倭国」では行なわれていたと考えられるものの、出土した遺跡からは「七世紀」に入ってからそのような事が行なわれていた形跡は確認できていません。明らかに「馬」を「追葬」したと考えられる例や、「陪葬」と思われる例は「六世紀後半」辺りまでは各地で確認できるものの、それ以降は見あたらないとされます。
 このことから考えて、このような内容の「詔」が出されたり、またそれにより「禁止」されるべき状況(現実)が「七世紀」に入ってからは存在していたとは考えられないのは確かです。存在しないものを「禁止」する必要はないわけですから、この「禁止規定」が有効であるためには、「殉葬」がまだ行われていると云う現実が必要であるわけであり、その意味からも「七世紀半ば」という年代は、「詔」の内容とは整合しないものです。

 以上のことから「六世紀末」と「七世紀初め」の二段階にわたり、「薄葬令」が出されたと考えると「事実」をよく説明できるものと思われ、『書紀』に「年次移動」という資料操作が行われているという可能性が高いと思われます。

 また、古田史学会報七十四号(二〇〇六年六月六日)で「竹村順広」氏が「放棄石造物と九州王朝」という題で触れられた「益田岩船」(奈良県橿原市白橿町)や「石宝殿」(兵庫県高砂市竜山)などの「巨大建造物」は、明らかに「工事途中」の「古墳」の一部であり(外形はどのようなものになる予定であったかは不明ですが)、これは「六世紀終末」という時点で「薄葬令」が出されたことにより、その工事が途中で「放棄」されたものであると見る事ができるでしょう。
 この「古墳」が(竹村氏も引用するように)『播磨国風土記』の中で「聖徳王御世、弓削大連所造之石也。」とされているように「聖徳王」つまり「阿毎多利思北孤」(ないしはその太子「利歌彌多仏利」)の時代のこととされ、また「物部守屋」と関連して語られていることなどからも、この「石造物」が「六世紀末」のものであることを強く示唆しています。
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