さらに前回からの続きです
「弥勒仏」と太子像
「野中寺」の「弥勒菩薩像」について考えると、この台座銘には確かに「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」とあり、この「知識」達がこの「像」を「弥勒」であると認識していたと思われるわけですが、これに関しては、初期「弥勒仏」が、本来は「太子像」であり「釈迦」の出家前の姿を写したものとされていることが関係しているのではないかと推察されます。つまり「弥勒」といえば「半伽思惟像」というわけですが、この「半伽思惟像」というものは本来「太子」時代の「釈迦」の姿を写したものであり、人々を救済する方法について思索を巡らせ悩んでいる姿を現す姿勢であったとされます。
「弥勒」信仰は北朝で早くに興ったものであり、弥勒像(半伽思惟像)が多く造られるようになったものです。但し本来は「太子像」(まだ仏道修行中の仏陀の肖像)であったと思われます。しかし「弥勒信仰」が盛んになるとこの「太子像」が「弥勒像」であると認識されるようになり、「弥勒」といえば「半伽思惟像」という定式ができあがります。その意味で言うとこの「野中寺」の像も「太子像」ではないかと見る事もできそうです。(同様の論もあるようです。(※1))
後に「北周」の「武帝」により「廃仏」が進められると、「弥勒信仰」も排斥されるようになります。そして「隋」が政権の座につくと「高祖」(文帝)により仏教が保護・奨励されるようになり、その時点で「弥勒」も復活していたものです。(※2)
この「弥勒」信仰は北朝と密接な関係にあった「高句麗」に伝わり、そこから「新羅」へと伝わったものです。特に新羅で「弥勒」信仰は盛んになり、「半伽思惟」という「弥勒像」が多く造られていました。そして「新羅」と交流があった「倭国」にも伝来したものと考えられますが、その時点では「倭国王権」の交流主体は「百済」であり、「新羅」は(倭国に対し)従属的関係でした。当然その「新羅」から文物を取り入れるということは主たるものにはなり得ず、部分的で局限的であったと思われます。つまり「弥勒信仰」と「半伽思惟像」が「新羅」などから「倭国」へ伝来し、それが「王権」で信仰するところとなったかは疑問であると思われることとなるでしょう。
それに対し「百済」からは「百済王」から「倭国王」へと「法華経」が伝来したものであり、これに対し「倭国王権」は深く傾倒し、「倭国王」や「倭国王家」においては私的な信仰が始められたものと思われます。その時期に『法華義疏』など書かれたものであり、その中で「光宅寺法雲」などの教えを「本義」としていることや「弥勒」が批判されていると言う事からもこれが「南朝」系の「法華経」に由来するものであることがわかります。そして「遣隋使」が送られ、使者の発言によって「訓令」を受ける際に「提婆達多品」などが補綴された「法華経」(「添品妙法蓮華経」の原型)が伝来したものであり、そのためそれを国政の中心に据える政策をとることとなったものです。このようにして「法華経」と「阿弥陀信仰」が「国家的事業」として推進されていくこととなったものであり、この時点では「弥勒信仰」は脇役であり、全く影に隠れていたものと推量します。
「隋」における「弥勒信仰」は「煬帝」の時に「宮殿」の中に「狂信的」な弥勒信仰集団が乱入するという事件があり、それ以来「隋王権」から弾圧と排斥が行われていたものです。その後「隋」が滅び「唐」が成立すると再び「弥勒」信仰が受け入れられるようになったものであり、「遣唐使」が送られるようになると彼等によって「弥勒」信仰が再び我が国にもたらされることとなったものです。それでもすぐに「弥勒信仰」が深く「王権」に受容されるということはなかったものと思われます。なぜならそのためには「経義」を深く理解する必要があり、それは「遣唐僧」などの帰国以降かなり時間の経過が必要であったと考えられるからです。つまりそれ以前に倭国に「半伽思惟像」が伝来していたとしても、それは「弥勒」ではなく「太子像」として受け入れられていたのではないかということが疑われるわけです。それはまた「聖徳太子」に対する信仰という点からもそういえると思われます。
一般に「聖徳太子信仰」はかなり後代に発生したものであり、その「聖徳太子」に関わる伝承に「弥勒仏」が出てくるということは、「弥勒信仰」が隆盛となった時期にそのような伝承が形成されたことを想定させますが、「弥勒信仰」が確実に「倭国内」に浸透したのは「七世紀後半」から「八世紀」に入ってからであり、「弥勒」を信仰していたとされる「聖武」の時代であったという可能性が高いと考えられます。
「弥勒」に関する説話の成立がおおよそ「八世紀」以降のものであることもそれを傍証するものと言えます。このことは「左手無名指切断」という過激なことを行なったのも「聖武」であったという可能性さえ含んでいると見られます。
彼は「大仏」建造でも判るように「過度」に仏教に帰依していましたから、(自らを「三宝の奴」と称していた)かなりエキセントリックな行動もあったようであり、彼が行なった事跡と言うことも考えられます。その彼の行状が「天智」に結びつけられているのは後代になると「天智」「聖武」の区別がつかなくなっていたという可能性があることからもいえます。たとえば「各種の資料に「あめのみかど」という名称の人物が出てきますが、これが「天智」なのか「聖武」なのかで論争があったりします。
この「あめのみかど」とは『万葉』や『古今』などに歌が収められている人物ですが、『古今集』以降の解釈書などでは「天智」と解釈されていたものであり、それを「山田孝雄博士」により「聖武」のことであると証明されたというものです。
山田氏によれば『漢字で書く時に天帝若くは天皇といふ文字を宛ててよい樣だから、その意味でいへば、いづれの天皇をもさし奉りうることになる。さうすれば實はいづれの天皇をさし奉るのであるか、わからぬことになつてしまふ。そこで、これは、ある特別の天皇をさし奉つたのだといふことが證明せられねばならぬことである。』とされています。
この事は「先帝」という「語」においても同様と思われ、その「帝」を特定するなにかが別になければ「誰」のことだか不明とならざるを得ません。上の例で言えば「崇福寺」の創建が確かに「天智」によるということがどこかに書かれている必要があることとなりますが、それはどこにも書かれていない訳ですから、この「先帝」を「天智」と即断する訳にはいかないこととなるでしょう。
このことから「聖武」の事跡の内「天智」の事跡と混乱されているものが他にもある可能性が考えられます。この「崇福寺」創建に関わる伝承もそれに該当するのではないでしょうか。
(※1)宮地昭『弥勒菩薩と観音菩薩 ―図像の成立と発展―』龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー二〇一三年。
(※2)「七代寺重建記」の文に明らか。
「弥勒」信仰は北朝で早くに興ったものであり、弥勒像(半伽思惟像)が多く造られるようになったものです。但し本来は「太子像」(まだ仏道修行中の仏陀の肖像)であったと思われます。しかし「弥勒信仰」が盛んになるとこの「太子像」が「弥勒像」であると認識されるようになり、「弥勒」といえば「半伽思惟像」という定式ができあがります。その意味で言うとこの「野中寺」の像も「太子像」ではないかと見る事もできそうです。(同様の論もあるようです。(※1))
後に「北周」の「武帝」により「廃仏」が進められると、「弥勒信仰」も排斥されるようになります。そして「隋」が政権の座につくと「高祖」(文帝)により仏教が保護・奨励されるようになり、その時点で「弥勒」も復活していたものです。(※2)
この「弥勒」信仰は北朝と密接な関係にあった「高句麗」に伝わり、そこから「新羅」へと伝わったものです。特に新羅で「弥勒」信仰は盛んになり、「半伽思惟」という「弥勒像」が多く造られていました。そして「新羅」と交流があった「倭国」にも伝来したものと考えられますが、その時点では「倭国王権」の交流主体は「百済」であり、「新羅」は(倭国に対し)従属的関係でした。当然その「新羅」から文物を取り入れるということは主たるものにはなり得ず、部分的で局限的であったと思われます。つまり「弥勒信仰」と「半伽思惟像」が「新羅」などから「倭国」へ伝来し、それが「王権」で信仰するところとなったかは疑問であると思われることとなるでしょう。
それに対し「百済」からは「百済王」から「倭国王」へと「法華経」が伝来したものであり、これに対し「倭国王権」は深く傾倒し、「倭国王」や「倭国王家」においては私的な信仰が始められたものと思われます。その時期に『法華義疏』など書かれたものであり、その中で「光宅寺法雲」などの教えを「本義」としていることや「弥勒」が批判されていると言う事からもこれが「南朝」系の「法華経」に由来するものであることがわかります。そして「遣隋使」が送られ、使者の発言によって「訓令」を受ける際に「提婆達多品」などが補綴された「法華経」(「添品妙法蓮華経」の原型)が伝来したものであり、そのためそれを国政の中心に据える政策をとることとなったものです。このようにして「法華経」と「阿弥陀信仰」が「国家的事業」として推進されていくこととなったものであり、この時点では「弥勒信仰」は脇役であり、全く影に隠れていたものと推量します。
「隋」における「弥勒信仰」は「煬帝」の時に「宮殿」の中に「狂信的」な弥勒信仰集団が乱入するという事件があり、それ以来「隋王権」から弾圧と排斥が行われていたものです。その後「隋」が滅び「唐」が成立すると再び「弥勒」信仰が受け入れられるようになったものであり、「遣唐使」が送られるようになると彼等によって「弥勒」信仰が再び我が国にもたらされることとなったものです。それでもすぐに「弥勒信仰」が深く「王権」に受容されるということはなかったものと思われます。なぜならそのためには「経義」を深く理解する必要があり、それは「遣唐僧」などの帰国以降かなり時間の経過が必要であったと考えられるからです。つまりそれ以前に倭国に「半伽思惟像」が伝来していたとしても、それは「弥勒」ではなく「太子像」として受け入れられていたのではないかということが疑われるわけです。それはまた「聖徳太子」に対する信仰という点からもそういえると思われます。
一般に「聖徳太子信仰」はかなり後代に発生したものであり、その「聖徳太子」に関わる伝承に「弥勒仏」が出てくるということは、「弥勒信仰」が隆盛となった時期にそのような伝承が形成されたことを想定させますが、「弥勒信仰」が確実に「倭国内」に浸透したのは「七世紀後半」から「八世紀」に入ってからであり、「弥勒」を信仰していたとされる「聖武」の時代であったという可能性が高いと考えられます。
「弥勒」に関する説話の成立がおおよそ「八世紀」以降のものであることもそれを傍証するものと言えます。このことは「左手無名指切断」という過激なことを行なったのも「聖武」であったという可能性さえ含んでいると見られます。
彼は「大仏」建造でも判るように「過度」に仏教に帰依していましたから、(自らを「三宝の奴」と称していた)かなりエキセントリックな行動もあったようであり、彼が行なった事跡と言うことも考えられます。その彼の行状が「天智」に結びつけられているのは後代になると「天智」「聖武」の区別がつかなくなっていたという可能性があることからもいえます。たとえば「各種の資料に「あめのみかど」という名称の人物が出てきますが、これが「天智」なのか「聖武」なのかで論争があったりします。
この「あめのみかど」とは『万葉』や『古今』などに歌が収められている人物ですが、『古今集』以降の解釈書などでは「天智」と解釈されていたものであり、それを「山田孝雄博士」により「聖武」のことであると証明されたというものです。
山田氏によれば『漢字で書く時に天帝若くは天皇といふ文字を宛ててよい樣だから、その意味でいへば、いづれの天皇をもさし奉りうることになる。さうすれば實はいづれの天皇をさし奉るのであるか、わからぬことになつてしまふ。そこで、これは、ある特別の天皇をさし奉つたのだといふことが證明せられねばならぬことである。』とされています。
この事は「先帝」という「語」においても同様と思われ、その「帝」を特定するなにかが別になければ「誰」のことだか不明とならざるを得ません。上の例で言えば「崇福寺」の創建が確かに「天智」によるということがどこかに書かれている必要があることとなりますが、それはどこにも書かれていない訳ですから、この「先帝」を「天智」と即断する訳にはいかないこととなるでしょう。
このことから「聖武」の事跡の内「天智」の事跡と混乱されているものが他にもある可能性が考えられます。この「崇福寺」創建に関わる伝承もそれに該当するのではないでしょうか。
(※1)宮地昭『弥勒菩薩と観音菩薩 ―図像の成立と発展―』龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー二〇一三年。
(※2)「七代寺重建記」の文に明らか。