古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「弥勒仏」と太子像(再度)

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

「弥勒仏」と太子像

 「野中寺」の「弥勒菩薩像」について考えると、この台座銘には確かに「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」とあり、この「知識」達がこの「像」を「弥勒」であると認識していたと思われるわけですが、これに関しては、初期「弥勒仏」が、本来は「太子像」であり「釈迦」の出家前の姿を写したものとされていることが関係しているのではないかと推察されます。つまり「弥勒」といえば「半伽思惟像」というわけですが、この「半伽思惟像」というものは本来「太子」時代の「釈迦」の姿を写したものであり、人々を救済する方法について思索を巡らせ悩んでいる姿を現す姿勢であったとされます。
 「弥勒」信仰は北朝で早くに興ったものであり、弥勒像(半伽思惟像)が多く造られるようになったものです。但し本来は「太子像」(まだ仏道修行中の仏陀の肖像)であったと思われます。しかし「弥勒信仰」が盛んになるとこの「太子像」が「弥勒像」であると認識されるようになり、「弥勒」といえば「半伽思惟像」という定式ができあがります。その意味で言うとこの「野中寺」の像も「太子像」ではないかと見る事もできそうです。(同様の論もあるようです。(※1))
 後に「北周」の「武帝」により「廃仏」が進められると、「弥勒信仰」も排斥されるようになります。そして「隋」が政権の座につくと「高祖」(文帝)により仏教が保護・奨励されるようになり、その時点で「弥勒」も復活していたものです。(※2)
 この「弥勒」信仰は北朝と密接な関係にあった「高句麗」に伝わり、そこから「新羅」へと伝わったものです。特に新羅で「弥勒」信仰は盛んになり、「半伽思惟」という「弥勒像」が多く造られていました。そして「新羅」と交流があった「倭国」にも伝来したものと考えられますが、その時点では「倭国王権」の交流主体は「百済」であり、「新羅」は(倭国に対し)従属的関係でした。当然その「新羅」から文物を取り入れるということは主たるものにはなり得ず、部分的で局限的であったと思われます。つまり「弥勒信仰」と「半伽思惟像」が「新羅」などから「倭国」へ伝来し、それが「王権」で信仰するところとなったかは疑問であると思われることとなるでしょう。
 それに対し「百済」からは「百済王」から「倭国王」へと「法華経」が伝来したものであり、これに対し「倭国王権」は深く傾倒し、「倭国王」や「倭国王家」においては私的な信仰が始められたものと思われます。その時期に『法華義疏』など書かれたものであり、その中で「光宅寺法雲」などの教えを「本義」としていることや「弥勒」が批判されていると言う事からもこれが「南朝」系の「法華経」に由来するものであることがわかります。そして「遣隋使」が送られ、使者の発言によって「訓令」を受ける際に「提婆達多品」などが補綴された「法華経」(「添品妙法蓮華経」の原型)が伝来したものであり、そのためそれを国政の中心に据える政策をとることとなったものです。このようにして「法華経」と「阿弥陀信仰」が「国家的事業」として推進されていくこととなったものであり、この時点では「弥勒信仰」は脇役であり、全く影に隠れていたものと推量します。
 「隋」における「弥勒信仰」は「煬帝」の時に「宮殿」の中に「狂信的」な弥勒信仰集団が乱入するという事件があり、それ以来「隋王権」から弾圧と排斥が行われていたものです。その後「隋」が滅び「唐」が成立すると再び「弥勒」信仰が受け入れられるようになったものであり、「遣唐使」が送られるようになると彼等によって「弥勒」信仰が再び我が国にもたらされることとなったものです。それでもすぐに「弥勒信仰」が深く「王権」に受容されるということはなかったものと思われます。なぜならそのためには「経義」を深く理解する必要があり、それは「遣唐僧」などの帰国以降かなり時間の経過が必要であったと考えられるからです。つまりそれ以前に倭国に「半伽思惟像」が伝来していたとしても、それは「弥勒」ではなく「太子像」として受け入れられていたのではないかということが疑われるわけです。それはまた「聖徳太子」に対する信仰という点からもそういえると思われます。
 一般に「聖徳太子信仰」はかなり後代に発生したものであり、その「聖徳太子」に関わる伝承に「弥勒仏」が出てくるということは、「弥勒信仰」が隆盛となった時期にそのような伝承が形成されたことを想定させますが、「弥勒信仰」が確実に「倭国内」に浸透したのは「七世紀後半」から「八世紀」に入ってからであり、「弥勒」を信仰していたとされる「聖武」の時代であったという可能性が高いと考えられます。
 「弥勒」に関する説話の成立がおおよそ「八世紀」以降のものであることもそれを傍証するものと言えます。このことは「左手無名指切断」という過激なことを行なったのも「聖武」であったという可能性さえ含んでいると見られます。
 彼は「大仏」建造でも判るように「過度」に仏教に帰依していましたから、(自らを「三宝の奴」と称していた)かなりエキセントリックな行動もあったようであり、彼が行なった事跡と言うことも考えられます。その彼の行状が「天智」に結びつけられているのは後代になると「天智」「聖武」の区別がつかなくなっていたという可能性があることからもいえます。たとえば「各種の資料に「あめのみかど」という名称の人物が出てきますが、これが「天智」なのか「聖武」なのかで論争があったりします。
 この「あめのみかど」とは『万葉』や『古今』などに歌が収められている人物ですが、『古今集』以降の解釈書などでは「天智」と解釈されていたものであり、それを「山田孝雄博士」により「聖武」のことであると証明されたというものです。
 山田氏によれば『漢字で書く時に天帝若くは天皇といふ文字を宛ててよい樣だから、その意味でいへば、いづれの天皇をもさし奉りうることになる。さうすれば實はいづれの天皇をさし奉るのであるか、わからぬことになつてしまふ。そこで、これは、ある特別の天皇をさし奉つたのだといふことが證明せられねばならぬことである。』とされています。
 この事は「先帝」という「語」においても同様と思われ、その「帝」を特定するなにかが別になければ「誰」のことだか不明とならざるを得ません。上の例で言えば「崇福寺」の創建が確かに「天智」によるということがどこかに書かれている必要があることとなりますが、それはどこにも書かれていない訳ですから、この「先帝」を「天智」と即断する訳にはいかないこととなるでしょう。
 このことから「聖武」の事跡の内「天智」の事跡と混乱されているものが他にもある可能性が考えられます。この「崇福寺」創建に関わる伝承もそれに該当するのではないでしょうか。

(※1)宮地昭『弥勒菩薩と観音菩薩 ―図像の成立と発展―』龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー二〇一三年。
(※2)「七代寺重建記」の文に明らか。
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「弥勒信仰」について

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

「弥勒信仰」について

 「天智」の「無名指切断」のエピソードについては、その多くが「弥勒」との関連で語られていることは注意を要します。
 「弥勒信仰」は明らかに「後代的」であり、「六世紀末」から「七世紀初め」という時期には「倭国内」にはほとんど浸透していなかったと考えられ、それは「遣唐使」として派遣された「僧」が「経義」を学んで帰国した後に隆盛したものと考えられます。特に「法相宗」では「弥勒」が主尊であり、三蔵法師「玄奘」が信仰していたものが「弥勒」であったとされ、彼に師事した「道昭」「智通」「智達」等の帰国後「弥勒信仰」が起きたものと考えられます。その「道昭」の帰国年次としては「六六一年」という説が有力です。このことから、一見この説話の時代もそのような「弥勒信仰」の高揚した時期と考えられがちです。例えば「藤氏家伝」にも「…。故賜純金香爐、持此香爐、如汝誓願、従観音菩薩之後、到兜率陀天之上。日々夜々、聴弥勒之妙説。朝々暮々、転真如之法輪。…」というような文言が書かれ、そこでは「死後」「弥勒」から「妙説」を聴く、というようなことが言われています。
 また、「野中寺」の弥勒菩薩像の台座銘には以下のようにあります。

「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」

 この「丙寅年」は通常「六六六年」と考えられており、これは「弥勒菩薩像」と「天智」が関連している証左であるとされています。つまり「中宮天皇」とは「天智」を指すというわけです。これらのことから、「弥勒」信仰と「天智」には強い結びつきがあるように考えられています。
 しかし「三経義疏」の一つである「維摩経義疏」の中では「弥勒」に対して以下のような「批判的」言辞が確認でき、これが「六世紀終わり」の時期に「百済」から「法華経」が伝来して以降成立したものと考えられ、これを「聖徳太子」の書とする説もあり、その意味で当時の「倭国王権」のなかでは「弥勒」は信仰されていなかったという可能性が高いと考えられます。
 「維摩経義疏」には(菩薩品第四)「弥勒」について以下にように書かれています。

「今禰勒に凡そ四の執あり,一に己に勝行ありと存し,二に受記を存し,三に菩提の果を存し,四に滅度の涅槃を存す.前の二は是れ因の執,後の二は是れ果の執なり,今諸天の機,応に無相の空行を聞かんとす.而るに今此の四の存を以て為に説くが故に,則ち説と機と差(タガ)へり…
一には云はく,菩提は即ち是れ佛の無上智なり.言ふこゝろは,真諦の中には禰勒の空と衆生の空と一相無二にして得と不得となきが故に『若禰勒得菩提一切衆生亦得』と云ふ.二には云はく,今菩提と言ふは即ち是れ真諦なり.禰勒と衆生と,皆即ち真諦なり.故に『一切衆生亦得』と云ふなり」

 この「維摩経義疏」の文言は「弥勒」に対する「距離感」を示し、「傾倒している」とは言えないことを示すものです。
 さらに(私見では)「遣隋使」によって(あるいは同行した隋使により)「法華経」(「提婆達多品」が補綴されたもの)が伝えられたと見ており、これは「訓令」の一部であったと考えているわけですが、それを示すように「法隆寺」には「弥勒菩薩像」がありません。「中宮寺」や「広隆寺」には「弥勒菩薩像」があっても、「肝腎」の「法隆寺」にはないのです。
 「法隆寺」は既に考察したように元は「元興寺」であったものであり、また「倭国」で初めての「勅願寺」であったと考えられますから、この「寺院」に「弥勒菩薩像」がないと言うことは、当時の「倭国王権」の信仰には「弥勒」がいなかった事を示すものと推量します。
 この「元興寺」の「本尊」は元々は「釈迦像」と「阿弥陀繍仏」であり、そのため「四月八日」をもって「堂内」に「丈六仏像」を入れようとしたというエピソードが語られています。つまり、「聖徳太子」にその存在が投影されている「阿毎多利思北孤」やその太子「利歌彌多仏利」達は「弥勒信仰」の中にはいなかった事を示すと思われることとなります。
 また、上に見たように「藤氏家伝」では「鎌足」が「弥勒信仰」をしていたように伝えられていますが、以下の資料ではその「弥勒」と「弥勒信仰」に批判的である「維摩経」を「元興寺呉僧」「福亮」から「講説」を受け、そのために私財を投じたとされています。

『扶桑略記』「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。

同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」

『日本帝皇年代記』「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」

『元享釈書』「齊明皇帝の段」
「四年七月、通達二師、奉敕乘新羅■入唐、受相宗於玄奘三藏。是歳、呉僧元興寺福亮、赴鎌子請、於陶原家講維摩經。爾來、鎌子延海内碩徳、相次講演凡十二年。」

 このように「維摩経」の講説をわざわざ「私財」を投じて受けているということ、しかもそれはただ一回だけではなく、「十二年」もの長きに亘ったとされており、「道昭」が帰国して「弥勒信仰」が新たに起こったとされる時期をその中に含んでいます。それを考えると、その中で批判的な書かれ方をしている「弥勒」を「鎌子」が信仰すると言うことははなはだ考えにくいこととなるでしょう。この事から一見「道昭」によって「鎌足」の「弥勒信仰」が始められたという見方もできると思われがちですが、その「道昭」は帰国後「周遊」に出たとされ、各地に伝道して回ったらしく、王権の元に還った事情については『文武紀』に「和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。」(文武四年(七〇〇年)三月己未条)とされ、「飛鳥寺」への帰還は「六七五年前後」が推定されますが、この時点では「鎌足」も「天智」もすでに「死去」しています。つまり「道昭」から「弥勒信仰」が「天智」など「王権」に伝来し浸透したとは考えにくいこととなるでしょう。ただし、「鎌子」の長子である「定恵(定慧)」からの「伝来」というのは考えられなくはありません。
 彼の帰国は「六六五年」(劉徳高等の来倭に便乗したもの)とされますが、彼は「玄奘」の元で「仏典」の漢訳作業を行なっていた「神泰法師」に師事したとされ、「間接的に」彼から「弥勒信仰」が伝えられたという可能性もあり、彼が「天智」に「弥勒信仰」を伝授したという事も想定することは可能ではあります。
 彼は帰国後「暗殺された」という説もあるものの『日本帝皇年代記』には「甲寅七 多武峯開山定慧法師入滅、大織冠鎌足之長子也」という記事もあり、この「甲寅七」というのが「七一四年」を意味すると考えられますから、かなり長期間健在であったとも考えられます。(「元亨釈書」にも同様の記事があります)しかし、そうであれば父である「鎌子」が「維摩経」の講説を受け続けたという記録とは矛盾すると考えられます。
 つまり、帰国した「定恵(定慧)」と一番接近した日々を送ったはずの「鎌子」が「終生」「維摩経」を信仰し続けたと考えられるわけであり、そうであれば彼の信仰に息子の「定慧」が全く関与していないということとなりますから、「定慧」から「鎌子」や「天智」に「弥勒信仰」が伝授されたとはいえないこととなります。
 これらのことは「鎌足」やその盟友とも考えられる「天智」の「弥勒信仰」というものが本当にあったのか疑わしいこととならざるを得ないものです。
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近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-(再度)

2024年02月23日 | 古代史
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近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-

 「桓武」「嵯峨」両帝の時代に「崇福寺」に関する「勅」が出され、そこでは「先帝」が(「崇福寺」を)創建したと言うことが語られています。

「日本後紀卷十一逸文(『類聚國史』一八〇諸寺・『日本紀略』)」「延暦二十二年(八〇三)十月丙午【廿九】丙午。制。崇福寺者、『先帝』之所建也。宜令梵釋寺別當大法師常騰、兼加検校。」

「日本後紀卷廿七逸文(『日本紀略』)」「弘仁十年(八一九)九月乙酉【十】》乙酉。勅。崇福寺者、『先帝』所建、禪侶之窟也。今聞。頃年之間、濫吹者多。云々。宜加沙汰、勿汚禪庭、所住之僧、不過廿人。但有死闕、言官乃捕之。」

 本来「先帝」とはその字義通り「先代」の「帝」を指す言葉であったものです。例えば『聖武紀』には「文武」を「先帝」と称する例があり、「孝謙」の時代には「聖武」を「先帝」と記した例しか見あたらないなど、多数の「前代」の天皇を指す例が確認できます。ただし、「元明」の時代に「天智」「天武」を「先帝」と称した例も存在していますが、それらは全て「前後関係」から「特定」可能な例ばかりです。
 しかし、上の例では、最初の勅は「桓武天皇」が出されたものであり、後のものは「嵯峨天皇」から出されたものですから、当然双方の「先帝」は「先代」の「帝」という用法ではないこととなりますが、問題は「天皇」を特定する形容がされていないことです。
 たとえば、『懐風藻』を見るとそこには「淡海先帝」とあります。これが「天智」ないし「利歌彌多仏利」を指すとすると、「淡海三船」の時代から一〇〇年以上前のこととなり、かなり遡上した例であることが判ります。
 上の「桓武と「嵯峨」両帝の例における「先帝」がもし同様に「天智」を指すとすると、この「先帝」もかなり遡上すると考えなければなりませんが、問題は「淡海(近江)」というような「天皇の代」を特定するべき形容が前置されていないことです。ここでは単に「先帝」とあります。しかし「崇福寺」を建てたのが「天智」であるならば、「淡海先帝」などとあって然るべきではないでしょうか。(単に「先帝」では誰のことか不明だからです)
 現に「天智」を指すと思われる例があり、そこでは「近江」という名称が前置されています。

「日本後紀』巻卅八逸文(『類聚国史』一七七最勝会)天長七年(八三〇)九月癸酉二」「令薬師寺毎年設最勝王経之会。中納言従三位兼行中務卿直世王奏稱。此寺、清御原天皇、為皇后而所建立也。皇后、『近江帝』之女、柔範光暢、毘賛天倫。皇帝嘉寵、建斯仁祠。而創基未竟、宮車晏駕。皇后含悲帰仏、終成宝刹。如今、所入封物田地、充用有剰、学衆稍多、説法猶少。夫大雄慈悲、不進而希応。至理澹泊、不銓而難知。請、毎年開設斎筵、屈宿徳、演説尊経、決択奥義。便以在播磨国賀茂郡水田七十町、充其供料、庶扇覚風而慰先霊、飛慈雲而増聖寿。三光縦沈、慧炬無滅、五岳如砺、梵声不止。庶講読就此試定。立為恒例。許之。」

 ここでは「近江帝」と表記されており、「先帝」ではありません。
 上に見るように実際に「崇福寺」の初出は『聖武紀』であり、「天智」の時代ではありません。この『日本後紀』及び先行する『続日本紀』あるいは『書紀』の中で「崇福寺」(志我山寺も同様)が「天智」の創建によるものということは一切書かれていません。つまりここに「先帝」とあるだけでは誰のことなのか不明なのです。
 少なくとも「先帝」といえば「天智」というような等式はこれら「史書」の中では成立していませんから、「史書」を見ているだけでは誰のことかが判らないということとなります。このことは少なくとも「無条件」に「天智」とは言い得ないことを示すものであり、他の状況から判断することとならざるを得ないものです。
 先に挙げた仏教関係の資料等はその成立がこの『日本後紀』を下るものばかりですから、遡って理解するというのは方法として正しくはないと思われます。また、それらによっても、「崇福寺」は「淡海」の都の守護として建てられたとされていますが、「淡海」に都があったのは上に見るように「天智」だけではなく、「聖武」の「紫香楽宮」も該当すると思われますから、「崇福寺」が本来「紫香楽宮」周辺の寺院を指すということも充分考える必要があることとなります。
 後述するように「あめのみかど」(天帝)という称号が「聖武」に使用されるに及んで、「天智」の呼称として使用されていた「あめのみこと」(天命)と混同され、その結果「聖武」と「天智」の事跡のいくつかについて、「混乱と同一化」が進行した結果「大津宮」至近の「志我山寺」が「崇福寺」と呼称(あるいは誤認か)されるようになったのではないかと推察します。
 「聖武」が「崇福寺」を建てたのなら、「桓武」「嵯峨」両帝が「聖武」のことを「先帝」と呼称していることとなり、それは「無形容」であることと関連があるとも言えるでしょう。「淡海先帝」とするとそれこそ「天智」のこととなってしまいますから、そうは受け取られないように「無形容」なのだと思われます。「聖武」は「持統」の孫であり「天智」の曾孫に当たりますから、「天智」に傾倒する彼らにとって特別な存在であったとしても不思議ではありません。
 仮に、この「崇福寺」という寺院が「天智」の創建であり、(つまり「先帝」も「天智」であるとして)「志我山寺」が「崇福寺」と同じであったとしても、その「志我山寺」が「天智」の創建であるという記事は『書紀』にも『続日本紀』にも現れないことを別に説明する必要があるでしょう。更に「嵯峨」以前に「崇福寺」へ「行幸」した「天皇」がいないという不審も説明しなければなりません。(前述したように「志我山寺」への行幸は存在し、それは「聖武」が行ったものです)
 既に述べたように「元明紀」には「志我山寺」「筑紫尼寺」と並んで「観世音寺」の寺封の打ち切りについての記事があります。そこでは「志我山寺」について「三十年経過している」旨のことが書かれていました。それに対し「観世音寺」は「五年」とされています。また同様に「元明紀」には「観世音寺」について、「天智の誓願」になる寺院であって、進捗がはかばかしくないという意味のことが書かれています。

「和銅二年(七〇九年)二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」

 これらを見ると「観世音寺」と「志我山寺」は全く扱いが異なり、「志我山寺」については「天智」との関連が語られていないことに気づきます。そのことは「志我山寺」について、「天智の誓願」にかかる寺院ではなく(観世音寺と異なり)また順調に建設が進んだことらしいことが推察できます。つまり、「崇福寺」が「志我山寺」と同一であったとしても、それが「天智」と関連しているとは言えない事を示すものです。
 また「紫香楽宮」の遺跡からは「なにはづ」と「あさかやま」が書かれた「歌木簡」が出ています。この「歌木簡」は「儀式」(「即位」あるいは「遷都」等重要なもの)の際に読み上げられたものと推測され、それはこの「紫香楽宮」が「都」とされ、「大盾」を建てたという記事ともつながり、この地が「聖武」にとって重要な場所であったことが推測できるとともに、そういう「風習」ないし「伝統」が当時の王権にあったことが推測できます。それはまた、この「なにはづ」と「あさかやま」が往時の「倭国王権」にとって重要なものであったことを推測させるものであり、「勝満」という自称を「聖武」がしていたことを考えると、この「なにはづ」の歌を詠み上げることとその「なにはづ」の歌そのものが「七世紀初め」の「倭国王権」への傾倒を示すものと見ることもできると思われ、その起源として「阿毎多利思北孤」の時代が措定されるべきと考えられるものです。
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「近江崇福寺について」(4)-菩提遷那について-(再度)

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

近江崇福寺について(4)-菩提遷那について-

 このように「行基」が「崇福寺」の創建に関わっているとみるのは「菩提遷那」(「婆羅門僧正」)という人物との関連からも推定できます。
 この人物は「遣唐使」であった「多治比広成」「学問僧理鏡」「中臣名代」らの要請により「天平六年」(七三六年)に「唐」より来日した「インド人僧」であり、彼が来日した際には「行基」が出迎えをするなど歓迎を受けています。そして彼は「東大寺」の大仏開眼の際には「導師」として「大仏の目に墨を入れる」という大任を果たしており、「聖武天皇」以下王権内部から強力な支持を受けていた事が解ります。その理由としてはやや不明な点はありますが、「大仏」つまり「毘盧舍那佛」そのものが「華厳経」に関連しているものであり、「菩提遷那」はその「華厳経」を常に読経していたとされますから、「毘盧舍那佛像」を造るという中に「菩提遷那」がかなり指導的役割をしていたものではないかと考えられます。
 またそれは後日「東大寺」を建立するために、「行基」(及び「橘諸兄」)が「伊勢神宮」に遣わされ、「舎利」を献上することで「伊勢神宮」の領地(飯高郡)から寄進を受けることとなったという経緯があったという「伝承」とも関連しているとされます。なぜならその「舎利」は「菩提遷那」が「天竺」から持ち来たったものとされているからです。そして、その「舎利」について「伊勢神宮」ではこれを「(如意)寶珠」であるとして歓迎したとされます。(『行基菩薩秘文』による)
 それによれば「日輪」(これは天照大神)すなわち「大日如来」の本地は「廬舎那仏」であるとして、「大仏」を作りそれを収容する寺院を造ることを「善いこと」であるとしています。

「「天平十四年十一月二日、右大臣正二位橘朝臣諸兄、為勅使参入伊勢太神宮、天皇御願寺可建立之由所被祈也。爰件勅使帰参之後、同十一月十五日夜示現給。帝皇御前、玉女坐而放金光(天)宜(久)当朝ハ神国、尤可奉欽仰神明給也。而日輪者大日如来也。本地者蘆舎那仏也。衆生者悟解此理、当帰依仏法也園囿。御夢覚給之後、弥堅固御道心給、始企件御願寺給也。謂東大寺是也。…
実相真如之日輪、明生死長夜之闇/本有常住之月輪、掃無明煩悩之雲/我遇難遇之大願、於闇夜如得之燈/亦受難受之宝珠、於渡海如請之《請之》船/造聖武大仏殿故、慶豊受大神宮事/善哉善哉■■■、神妙神妙自珍者/《五》先垂跡地神霊、富相応所安一志/飯高施福衆生故、…」

 これについては一般には「平家」によって「東大寺」が焼亡した際に再建のため「伊勢神宮」に「重源上人」が「後白河法皇」から遣わされた時点で作られた話と解釈されています。しかし、そもそもこの「伊勢」参詣が「天平の創建時に伊勢に祈願したという先例」に基づくものであったとされており、そのような事実がないにも関わらず「先例」に基づくとしても説得力がないのは確かですから、話の内容から考えて実話であったという可能性が高いと思われます。そう考えて矛盾がないという点が重要です。飯高郡の豪族らしい人物が以下のように「位」を授けられているのはその現れと思われます。

「天平十年(七三八年)九月丙申朔甲寅。伊勢國飯高郡人无位伊勢直族大江授外從五位下。」
「天平十四年(七四二年)夏四月甲申。伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族縣造等。皆賜飯高君姓。…」

 また「伊勢神宮」への参詣については多くの史料が「行基」と共に「橘諸兄」についても記していますが、『続日本紀』には確かに「伊勢神宮」へ使者として「橘諸兄等」が派遣された記事があります。

「天平十年(七三八年)五月辛夘。使右大臣正三位橘宿祢諸兄。神祇伯從四位下中臣朝臣名代。右少弁從五位下紀朝臣宇美。陰陽頭外從五位下高麥太。齎神寳奉于伊勢大神宮。」
 
 この派遣の後に飯高郡の「无位伊勢直族大江」に対して「外從五位下」を授けるという褒賞が行われており、これは「飯高郡」からの調庸の施入に対するものではなかったかと考えられるものです。(特に銀あるいは水銀という特殊な金属材料が産出していた記録があり、これが目的であったとも考えられるでしょう)
 この時と前後して(時期は史料により異なる)「行基」も派遣されたとする伝承があります。たとえば『日本帝皇年代記』によれば「行基」は「天平十三年」に「伊勢神宮」に「仏舎利」を献上するため派遣されています。

「辛巳(天平)十三 勅行基法師、授仏舎利一粒、献伊勢太神宮、有種々神託…」

 この時の「仏舎利」が「菩提遷那」の提供したものであると言われているわけであり、そのことは「廬舎那佛」の造仏に際して「菩提遷那」の深く関わっていることと、それにさらに「伊勢神宮」とが関連していることを示すものです。
 その「菩提遷那」が「唐」に滞在していた時点で所在していた寺院が長安(西京)の「崇福寺」なのです。
 後に「鑑真」が来日した際に「菩提遷那」が慰問に訪れ、「長安」の「崇福寺」であなたに「律」を教えられたことがあるか覚えているかという問いに「鑑真」が覚えていると返事したとされます。

(「東大寺要録」「大和尚伝」より)「…後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」
 
 つまり「菩提遷那」と「崇福寺」とは特別な関係であり、「インド」から唐に渡ってきた「菩提遷那」が(期間は不明ですが)学問僧として「崇福寺」に滞在していたものであり、その時点で「鑑真」を初めとした高僧から教義を授けられた意義深い場所であったものです。この「崇福寺」と今「紫香楽」の地にその創建を措定している寺院名が同じ「崇福寺」であるのは偶然ではなく、「行基」や「聖武天皇」は「菩提遷那」のために「長安」の「崇福寺」を再現しようとして同じ寺名の寺院を我が国にも作ろうとしていたのではないかと推察されるわけです。
 上に見るように『日本帝皇年代記』に拠れば(紫香楽の)「廬舎那仏」は「長一十六丈」とされ(これは「釈迦」の身長とされる「一丈六尺」の十倍となります)、大きさが指定されていることから実際には造られたものと考えられます。ただしこれがうまく行ったのかどうかは不明であり、大きすぎると型の内部で気泡などができやすく鋳造はかなり困難を極めたという可能性が高いと思われます。
 また「正倉院文書」の中の「筑後国正税帳」をみると、『造同( 銅) 竈工人』が献上された」旨の記事があります。これが「天平十年(七三八年)」のこととされていますから、上に見る伊勢神宮への参詣などと一環の事象であったことが推定され、彼らが「菩提遷那」と「廬舎那佛」の造仏に深く関わっているのは明白と思われます。彼らは「聖武」が「紫香楽」に建造する予定であった(実際に建造したか)寺院(これが「崇福寺」と考えられる)に「廬舎那仏」を安置するための要員であったという可能性があると思われ、このような「巨大金銅仏」の建造に関わる技術や知識も旧王権である「筑後」によらなければならなかった事情が垣間見えるものです。(実際に「筑後」の「国衙遺跡」からは「鉄滓」・「銅滓」、ふいごの「羽口」・坩堝などが出土するなど「鉄」や「銅」を精錬していた痕跡が確認されています。)
 「金銅仏」などを製作する技術も「筑後」が先行していたものであり、「王都」には「金銅仏」を要する寺院が多数あったことが推測されますが、それは「遣隋使」派遣時点以降本格的な仏教導入とその拡大が行われたことが明らかとなっており、それは当然「金銅仏」などの製造も必要となったと考えられる事につながるものだからです。
 「唐」の都「長安」にあった「崇福寺」ならば「菩提遷那」との関連で「聖武」や「行基」にとって特別の意義があったとみられ、それにちなんで命名したとして不思議はありません。しかも以下の史料からみて「長安」の「崇福寺」は「武則天」時代の「垂供末年」(六八八年)以降でなければ「崇福寺」という寺名ではなかったことが明らかです。
 彼が来日する以前に所在していたとされる長安の「崇福寺」は当初「西太源寺」という寺院であったとされます。

「周西京廣福寺日照傳/地婆訶羅。華言日照。中印度人也。洞明八藏博曉五明。戒行高奇學業勤悴。而呪術尤工。以天皇時來遊此國。儀鳳四年五月表請翻度所齎經夾。仍準玄奘例。於一大寺別院安置。并大德三五人同譯。至天后垂拱末。於兩京東西太原寺《西太原寺後改西崇福寺。東太原寺後改大福先寺》及西京廣福寺。…」
(「宋高僧傳卷二/譯經篇第一之二正傳十五人 附見八人/周西京廣福寺日照傳」より)

 これをみると「崇福寺」は「天后垂拱末」つまり「六八八年」という段階ではまだ「西太原寺」という寺院名であり、「崇福寺」という寺院名に変えられるのはそれより後のことであったことがわかります。その意味からも『天智紀』の創建ではなかった可能性が高いと言えるでしょう。
 それに対しこの「崇福寺」が「七世紀半ば」の創建であるというのがもし正しいとすると、その「寺名」は別の由緒を考えなければなりませんが、その場合、「南朝」の首都建康に「晋(東晋)」の時代にあった「崇福院」に由来すると言う考えもあり得ます。「崇福寺志」によればその創建は「北宋」の「擁熙年間」という説もあれば「東晋」にあった「崇福院」がそれであるという説もあるなどとされ、定まっておらず、いわゆる天智朝の時代に存続し続けていたものかは疑わしいともいえるでしょう。(それが倭国に認知されていたかも同様に疑わしいといえます)
 またこの「紫香楽宮」の至近には後年「甲賀寺」があったとされます。そこに「盧舎那仏像」を建てる予定があったという伝承が伝えられています。推測するとこの「甲賀寺」が本来の「崇福寺」ではなかったでしょうか。
 またここに「甲賀寺」が建てられたとすると、『敏達紀』に登場する「弥勒像」を伝えたという「鹿深臣」との関連が考えられます。

「敏達十三年(五八四年)秋九月条」「從百濟來鹿深臣闕名字。有彌勒石像一躯。佐伯連闕名字。有佛像一躯。」
 
 この「鹿深」は「甲賀」と同一の地であり、ここがその「鹿深臣」の勢力の範囲であって、そこには「弥勒」に関する信仰拠点のようなものがあったとしても不思議ではありません。
 そう考えれば、当初「崇福寺」して建てられたもののその後「甲賀寺」として残ったということが推定されます。
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「近江崇福寺について」(2)(再度)

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

「近江崇福寺について」(2)

 「天智」が左手無名指を切り落としたという伝承についてすでに述べましたが、それらを記した各種史料には「天智」が創建したとされる「崇福寺」について、その創建が「天智七年」あるいは「戊辰」の年と記され、これは通常「六六八年」の事と理解されています。しかし、それは以下の記事等から疑問と考えられます。

(『日本帝皇年代記(上)』より)「戊辰(白鳳)八」「行基並誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、(改行)志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(二行書きになっています)

 この『日本帝皇年代記』の特徴として、「寺院」の建立創建記事がある場合は、必ずその「主体」が書かれています。これに従えば上の「(崇)福寺」と「百済寺」の主体は「行基」と判断せざるを得ません。そうであれば、この年次は「行基」の誕生を記したものですから、この年に「行基」により建てられたはずがないこととなります。
 一見この記事の全ては冒頭の「戊申(白鳳)八」という年次にかかるものと理解されそうですが、実際にはこの年次の記事は全て「行基」に関わるものであり、「改行」以降は彼の生前の業績を記した文章であると考えられます。もしこの記事の順序が逆で「行基」の誕生記事が後に書かれてあれば「(崇)福寺」と「百済寺」の創建の主体は「天皇」(倭国王)と言うこととなると思われますが、この場合は「行基」の業績として「崇福寺」と「百済寺」が挙げられていると考えるべきです。
 また、この中に書かれた「百済寺」は現在も「志賀県東近江市」に存在する寺院と考えられ、「志賀」という郡名は「(崇)福寺」と「百済寺」の双方にかかると思われます。結局この「福寺」というのが「崇福寺」を指すとすると、その創建年はずっと後の事となり、「行基」による開基であるとすると、「八世紀」に入ってからの事と考えざるを得なくなるでしょう。
 ここに書かれたものの「原資料」となったものについては他の「崇福寺」と「天智」をつなげる「史料群」と「原資料」が共通であったものと見られ、それらにおいてはこの記事を「行基」と切り離して、「六六八年」という年次に「福寺」と「百済寺」創建が成されたと「誤解」したという可能性があると思われます。つまり、他の「史料」(前項で例としてあげた『扶桑略記』『元享釈書』等)などでは、原史料を見誤り、この年次(六六八年)の「創建」として誤伝したという可能性があると推定され、実際にはもっと遅い時期のことであったと見られる訳です。それを示すものが『続日本紀』における「崇福寺」の初出時期です。
 「崇福寺」は「聖武」の時代に始めてその寺名が現れます。またそれは「紫香楽宮」を設営後に始めて現れるという事も確認できます。つまり、「紫香楽村」に「離宮」を作ったというのが「七四二年」のこととされますが、「崇福寺」という寺名の初出はその「七年後」です。

『続日本紀』「天平十四年(七四二年)八月癸未条」「詔曰。朕將行幸近江國甲賀郡紫香樂村。即以造宮卿正四位下智努王。輔外從五位下高岡連河内等四人。爲造離宮司。」

『同』「天平廿一年(七四九年)閏五月甲午朔癸丑条」「…『崇福。』香山藥師。建興。法花四寺。各?二百疋。布四百端。綿一千屯。稻一十万束。墾田地一百町。…」

 しかし、ここでもこの「崇福寺」が「天智」の創建である旨の注記等は一切ありません。もしここに以前から「崇福寺」があり、それが「天智」の勅願であったならそれに言及しないというのは考えられません。
 さらにこの「紫香楽宮」の至近には「寺地」が開削され、そこに「盧舎那仏像」を建てる予定であったとされます。

『続日本紀』「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳条」「詔曰。…粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。…」
『同』「同月壬午条」「東海東山北陸三道廿五國今年調庸等物皆令貢於紫香樂宮。」
『同』「同月乙酉条」「皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 ここにみられる「詔」は「聖武」の「廬舎那佛」を造る意気込みを物語るものとして著名なものですが、これは「紫香楽宮」で出されたものであり、ここでは「盧舍那佛像」の為の「寺院」を「開く」とされ、また「削大山以構堂」とされていますから、山勝ちの場所を切り開き「寺地」を確保しようとしていることが判ります。
 「聖武」は当初ここに「大仏殿」を建てるつもりでいたものであり、骨組みの中心となる部分までは建てられていました。

「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。」

「同月乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 この詔でも「削大山講堂」とされ(これは一部実行されたもののようですが)、このことからも「寺院」と山が近接した地形であることが知られます。文脈からみてこれが「紫香楽宮」の至近に開く予定のものであったことは間違いないものですが、さらに「行基法師」が弟子達を引き連れ、多くの人々を「勧誘」したとされています。ここにおいてこの「寺地」と「行基」の間に関係があることが推測できます。この「寺地」こそが本来の「崇福寺」に相当するものではなかったと考えられるものであり、この事が『日本帝皇年代記』に書かれた「行基」の業績としての「崇福寺」の開基であったと考えられないでしょうか。
 この「紫香楽宮」は各種資料からここに「正式」に遷都され「都」として機能していたことが明らかとなっています。そうであれば「都」を「鎮護」する「寺院」がなかったはずはないこととなるでしょう。そう考えれば上に見た寺院は確かにこの時点で創建されたものであり、「盧舎那仏像」を造る計画が正式に進行していたこととなります。
 これについては『日本帝皇年代記』にも「紫香楽」に「廬舎那仏」を造ったという記事があり裏付けられます。

「癸未十五(七四三年)十月十五日帝近江信楽京鋳初廬遮那佛銅像/長一十六丈、依良弁勧化也」

 ただしここではなぜか寺院名が書かれていませんし、また「行基」ではなく、彼の弟子である「良弁」の勧化(勧進)であるように書かれています。しかし、この時「行基」と「良弁」はほぼ一体となって行動していましたから、この「良弁」の行動も「行基」の意思を体したものと考えて問題ないものと思われます。
 『日本後紀』には「崇福寺」と「梵釈寺」の両方について「禅侶の聖なる地」であることを述べる下りがあります。

『日本後紀』巻廿四弘仁六年(八一五)正月丁亥十五」「…又崇福梵釋二寺者。禪居之淨域。伽藍之勝地也。今聞。道俗相集。還穢佛地。繋馬牽牛。犯汗良繁。宜令近江国嚴加禁斷。若有不從制者。五位已上録名。六位已下留身。並言上。」

 ここでは、あたかもこの二寺院だけがいわば「特別扱い」されているように見えます。しかし数ある「寺院」の中でこの両寺院だけが「道俗相集、還穢佛地」であったとは思われません。多くの寺院においても同様であったのではないかと考えられます。しかし、「嵯峨天皇」はこの両寺院に限って「淨域」とし、また「佛地」であるとされ、その神聖性を保つようにと言う「勅」を出しているわけです。このことから、「嵯峨」にとって、「崇福寺」と「梵釈寺」は重要な意味を持つものと位置づけられていたようです。
 ところで、「梵釈寺」はその創建が「桓武天皇」の時代とされています。この両寺院が並び称されているように見える事から、「崇福寺」についてもそれほどその創建が遡らないのではないかという推定が出来ると思われます。
 また「崇福寺」の位置を推定可能な資料が存在しています。
 上の『日本後紀(逸文)』では「崇福寺」と「梵釈寺」が並べて記され、「梵釈寺」の別当が「崇福寺」についても兼務し、「検校」を加えるようにと「勅」が出されています。
 この「梵釈寺」はその場所が現「東近江市蒲生」付近にあったものと推定されており、これは「大津」の「崇福寺」とされる寺院のある場所からはかなり遠いものの、「紫香楽宮」からはほど近く、「崇福寺」が「紫香楽宮」至近にあったとすると納得のいく記述であると思われます。
 さらに同様のことは『日本後紀(逸文)』の「嵯峨天皇」の行幸記事からも言えそうです。
 そこでは「滋賀」の「韓埼」へ行幸するとして、まず「崇福寺」を過ぎた後「梵釈寺」へと行き、そこから「湖」(琵琶湖)へ出ています。
  
「弘仁六年(八一五年)四月癸亥【廿二】」「幸近江國滋賀韓埼。便過崇福寺。大僧都永忠。護命法師等。率衆僧奉迎於門外。皇帝降輿。升堂禮佛。更過梵釋寺。停輿賦詩。皇太弟及群臣奉和者衆。大僧都永忠手自煎茶奉御。施御被。即御船泛湖。國司奏風俗歌舞。五位已上并掾以下賜衣被。史生以下郡司以上賜綿有差。」

 この行幸ルートから考えた場合、これを旧「大津京」を経由したとすると、「梵釈寺」へ行く道順が「迂回」ルートとなってしまい、遠回りになってしまいます。そう考えると、これは旧「紫香楽宮」を経由して「梵釈寺」に行きそのまま「湖」(琵琶湖)へ出たものと考えるとわかりやすいと思えます。その場合「崇福寺」を「紫香楽京」付近に措定することが可能であり、また妥当であると考えられることとなります。(「梵釈寺」については創建時の場所は違うという説もありますが、詳細は不明であり、また再建される際に全く別の場所が選ばれる理由も併せて不明ですから、当初からここに存在したという可能性も高いと思料します)
 「嵯峨」の「詔」には「禅侶之窟」という表現がされています。この「窟」は「比喩」ではなく実際に「洞窟」状の地形をしていることを表していると見るべきであり、「崇福寺」がその背後に「崖」のようなものがあり、そこに「窟」があったことを推察させます。しかし「大津京」の至近にある「崇福寺」とされる「寺院跡」は、確かに山中にはあるものの「洞窟状」のものは発見されておらず、合致しないものと推定されます。
 それに対し「紫香楽宮」の「甲賀寺」の後背地には「崖」が存在しそこに「石仏」を刻む予定であったことが推定されています。(「聖武」は当初ここに「大仏殿」を建てるつもりでいたものであり、骨組みの中心となる部分までは建てられていたようです。

「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。」

「同月乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 このことから「紫香楽宮」至近に「崇福寺」の所在を想定することは可能と思われる訳です。
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