古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「近江崇福寺について」(1)(再度)

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

「近江崇福寺について」(1)

 『二中歴』によれば「白鳳年間」(六六一年から六八四年)に「観世音寺」は創建されたことになっています。また『日本帝皇年代記』によれば「庚午年」(六七〇年)の創建とされています。しかし『続日本紀』によれば「七〇九年」になって「元明天皇」の「詔」が出ており、それによれば「『観世音寺』は『天智天皇』の誓願により『斉明天皇』の菩提を弔うために建てられることとなったが進捗しておらずまだできていない」とされています。つまり「七〇九年」の時点で「未完成」というわけです。
(以下『続日本紀』に書かれた「元明天皇の詔」)

「七〇九年」「慶雲六年」「二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺 淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月差發人夫專加検校早令營作。」

 これに対し「大宰府」遺跡から発掘された「観世音寺」の「創建時のもの」とされる「瓦」(老司Ⅰ式)については、その形式から「七世紀中葉」のものとされ、「大宰府政庁Ⅱ期」(老司Ⅱ式及び鴻廬館式瓦の使用)に先立つこと「五-十年程度」と推定されています。また「老司一式」瓦には更に「大きく」二種類あるとされており、それは時代の差であると考えられているようです。このことは「上」に見た「創建」の年次と「進捗」を促す詔の年次付近とふたつの時期があったことと重なる事実です。つまり、発掘から判定された「瓦」の年代測定と『二中歴』の記事は矛盾しないと考えられるとともに、「元明天皇」の「詔」とも合致することとなるわけです。このことは「創建時期」としては「六六一年」以降の時期(「白鳳年間」)と考えて問題ないことを示します。しかしそれは以下の「太政官処分」記事と矛盾します。

「大宝元年(七〇一年)八月…甲辰。太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」

 この「太政官処分」に関しては「矛盾」に充ちており、整合的解決が困難の様に思われますが、少なくとも上で見た「元明」から出された「詔」とは大きく矛盾しています。
 この「太政官処分」記事については、そこに書かれた「庚子年」という年次が「一部」の「写本」にある「庚午」であったとして考えても、「観世音寺」の工事進捗状況とは全く一致しません。もし「庚午年」からであったとして「志我山寺」について「三十年」経過しているというように解釈しても、「処分」時点は「七〇〇年」となり、そこから五年逆算すると「観世音寺」が建てられたのが「六九五年」になってしまいますが(※)、これは上に見た「創建記事」や「元明」の「詔」とも整合していないと言う「矛盾」は以前として残ります。
 この「太政官処分」の重要な点は「三十年」と「五年」です。「五年」という年限は、『大宝令』の以下の規定によっていると思われます。

「禄令 寺不在食封之例条」「凡寺。不在食封之例若以別勅権封者。不拘此令(権。謂。五年以下。)」

 つまり、「寺は食封の例に入れない、ただし「勅」として封戸を施入するときは五年を限る」というわけです。また「三十年」という年数については、「天武」の時代に出された「勅」(以下のもの)に準拠しているものと考えられます。

(六八〇年)九年夏四月是月条」「勅。凡諸寺者。自今以後。除爲國大寺二三以外。官司莫治。唯其有食封者。先後限卅年。若數年滿卅則除之。且以爲。飛鳥寺不可關于司治。然元爲大寺而官司恒治。復嘗有功。是以猶入官治之例。」

 そこでは今後「寺封」は三十年を限度とするというわけであり、この「太政官処分」がこれらの規定を踏まえた上で出されているというのは確実ですから、「五年」と「三十年」という「年数」は「動かせない」わけです。つまり、「七〇一年」を表すと思われる「大寶元年」を動かすか「庚子年」を動かすかあるいは両方を変えるか、いずれかでなければ整合的解決は見いだせません。
 ただ、いずれにせよ「観世音寺」及び「筑紫尼寺」と「志我山寺」について扱いが大きく異なる事というに気がつきます。「志我山寺」については建てられてから「三十年」経過していると言うことであり「観世音寺」及び「筑紫尼寺」はまだ五年しか経過していないというのですから、全く置かれた状況が異なっている事が解ります。一般には「観世音寺」も「志我山寺」も同じ「天智」の「発願」によるとされていますが、「志我山寺」だけが建設が中断することなく進捗したかのように見られることとなると同時に、「寺封」も受け続けていたことにもなります。しかし、その様な事があり得るでしょうか。 
 そもそも「壬申の乱」後「大友皇子」の「近江朝廷」(「近江大津宮」)は「廃墟」となったと考えられ、その「近江京」の片隅に存在していた「寺院」が「無事」で済んだはずもないと考えられるものであり、それが「八世紀」まで存続していたとか、寺封をそのまま受け続けていたというようなことははなはだ考えにくいものです。
 また、重要なことは「近江大津京」跡の「崇福寺跡」とされる遺跡の発掘の結果、その塔心礎から「無文銀銭」が発見されているということです。
 発掘された「塔心礎」からは「金銅」「銀」「金」「瑠璃」の四壺に納められた「地鎮具」が発掘され、その中に「無文銀銭」が存在していました。このような「入れ子式」の「舎利容器」は「南朝」から「百済」へとつながる系譜を持つものであり、この「志我山寺」についても同様に「百済」を通じて「南朝」とつながることを示唆するものです。(百済の「泗比城」の定林寺が同様に地下式心礎です)
 またここで「無文銀銭」が「地鎮具」として「埋納」されていると言う事からは、この「無文銀銭」が「重要視」「神聖視」され、「呪術」的威力を持っていると考えられたいたことが推察できます。
 また「私見」によれば「無文銀銭」は「隋代」(後期)に「新羅」より流入し、「唐」との間に交易を行なう用途が主であったと考えられますが、その事は即座に「無文銀銭」とこの「志我山寺」の間に「直線的関係」、つまり「無文銀銭」の使用開始の年次と「志我山寺」の創建年次とが「接近」しているという想定をさせるものでもあります。つまりこの「志我山寺」の創建年次はもっと遡上するという可能性があるといえます。
 また、この寺の建築様式は「東面金堂」のいわゆる「観世音式」或いは「川原寺式」というものであり、(そのこともあって「天智」と関連づけられているともいえますが)「元々」の「法隆寺」における「レイアウト」においても「同様」に東面金堂であったと考えられ、それは「観世音寺」などの「源流」となったものと推量されるものですが、「志我山寺」においても同様の配置であることも、「法隆寺」の「創建」(六〇七年)とそれほど違わないという可能性があることを示唆します。 
 この「志我山寺」(「崇福寺」)の創建に関しては、『扶桑略記』他によれば建設する際に地面を掘ったところ、「(多)宝塔」が出土したという伝承があるとされます。それらの伝承の中ではこの「多宝塔」については「古代インド」の「阿育(アショカ)王」が埋めたという説話中のものと解釈されているわけですが、同様に「阿育王」の「多宝塔」に関するものとして「唐代」の記録「法苑珠林」に記事があります。
 そこでは「倭国」から派遣された「官人」として「会丞」という人物がいるとされ、彼に「倭国」の「仏法」のことを問いただすと以下のように答えたとされます。

「彼の国、文字(にて)説かず。承拠する所無し。然れども、其の霊迩を験すれば、則ち帰する所有り。故に彼の土人、土地を開発し、往々にして古塔の霊盤を得。仏の諸の儀相数え、神光を放つ。種々の奇瑞、此の嘉応を詳(つまびらか)にす。故に先有を知るなり」

 ここで「土地を開発」つまり、田畑を耕したり道路、池などを作ろうとして地面を掘ると「古塔の霊盤」というのが出土するとされ、それは「阿育王」が全世界に建てた「多宝塔」であろうという事となっているのです。
 これは「阿育王」の所産であると言うことも共通しており、「今昔物語集」に言う「多宝塔」と同じものではないかと思料されます。 
 「会丞」という人物は「大業の始め」に来たとされていますがこの「法苑珠林」記事は独自資料なのか『隋書』にその年次等が依存しているのかが不明であり、もし後者であれば実際の派遣年次はもっと遡上するという可能性があります。ただしここに書かれたことは彼の見聞したこととされているわけですから、まだ「遣隋使」として送られる以前のことであることとなり、「六世紀」の「倭国」の実情を示すとも考えられます。
 (ここに書かれた彼の言葉によれば、この段階で「文字」がないように受け取られます。『隋書俀国伝』によれば「百済から仏法」を得た後は「文字」があったとされ、それによって「日本語」を表記するようになったのはかなり早い段階であったと思われ、この「七世紀初め」という段階で「文字」によって「仏法」が説かれていないというのはやや不審ですが、民衆に文字が一般化していたというわけではないということは充分に想定できます。)
 このようなものが「出土」していることが「七世紀」の初めのこととして語られていることは、この「崇福寺」の創建と「無名指」を切断したという伝承の成立も実際にはもう少し早い時期を想定するべきではないかと思われますが、それは、そのような行為により「父母」に感謝する祭祀が行なわれたとすると、それは「六七〇年代」としては「伝統的すぎる」と考えられる事と整合するといえます。
 ただし、こう考えた場合、「志我山寺」は「天智」がその「母」である「斉明」の菩提を弔うための誓願として建てられたものという考えは否定されることとなります。つまり、「志我山寺」はすでに「天智以前」から建てられていたものであり、その建築主体は「天智」ではなく『隋書』に言う「利歌彌多仏利」にあたる人物と考えられます。
 このような推定は、「心礎」から発見された「無文銀銭」が「銀小片」が付着していたことから、「開通元宝」に重量基準を合致させたバージョンであると推測でき、このことからこれは「隋代」までは遡上せずせいぜい「初唐」まで遡りうるものであると考えられる事と整合すると言えるでしょう。(「無文銀銭」に関する当ブログ記事を参照してください)推測によれば「六三二年」の「高表仁来倭」時点付近が「小片」付加のタイミングと考えられます)
 「志我山寺」が「利歌彌多仏利」の建てた寺であるとすると、その「心柱」の基礎に「無文銀銭」を納めていたことは不自然ではないでしょう。これらのことは『扶桑略記』などに書かれた「六六八年」という年次のかなり「以前」から「近江」の「山中」に建てられていたという可能性が高いと考えられるものです。(そこでは「戊辰」という「干支」により年次か表記されており、そこだけを見ると「干支一巡」前の「六二八年」という可能性もないわけではないと思われます)
 この「近江」ないし「志賀」という地に「官衙」のようなものあるいは「寺院」があったと考えられるのは、後の「近江国府」の遺跡から出土した木簡や土器などによっても明らかであり、それは種々の理由から時代として「七世紀半ば」が推定されるとされていることからも窺えます。(※)
 この場所が後に「国府」とされたのは偶然ではなく、それ以前からこの場所及びその周辺には「官庁」ような建物ないし施設があり、それが実際に「活動」していたということが布石としてあったからではないかと見られていましたが、それが「須恵器」「木簡」などから明確となったのです。ただし、これを地方豪族(和邇氏など)と関係づけようとする試みあるようですが、それは「先入観」というものではないでしょうか。
 「官衙的」建物があり、またそれを示唆する「木簡」等が出土したとすると、そこには明らかに「王権」と深い関係がある施設があったものであり、それが「七世紀半ば」までは確実に遡上するという事の意味は重大であると思われます。
 つまり「近江京」というものが「天智」によって営まれるより以前に「志賀」の地に「王権」が関与した施設があったこととなり、それは「志我山寺」そのものの創建時期とも関連してくると考えられるものでもあります。
 更に「近江大津京」跡と推察される遺跡の下層からは「七世紀半ば」に編年される土器も出土しており、そのことは「崇福寺」だけではなく「大津京」そのものの創建も一般に考えられているよりかなり遡上するという可能性を含んでいるものです。
 「志我山寺」や「筑紫尼寺」という命名法は「地域名」(というより国名)+「寺」(その特徴を示すものを付する)という形で定型化されていることに気がつきます。これは上に述べたその創建の時期などから考えて「隋」の「文帝」が諸国に「舎利塔」を建てさせたという事実に関連しているという可能性が強く、「倭国」においても「国ごと」に「寺」あるいは「塔」を建てるという事業を行った事実の反映ではないとか考えられるわけです。これが「国分寺」の倭国における始源であると思われますが、この時何を「分けた」のかというと、最も考えられるのは『法華経』(ただし『堤婆達多品』が補綴されたもの)を写経したものではなかったでしょうか。そしてそれは「隋帝」(私見では「高祖」)から「下賜」されたものと考えると、(時代的にも)整合すると思えます。
 ところで、国分寺として検出される遺跡のほとんどが「寺院」としての遺跡の「外」に「塔」が存在しており(つまり「回廊」がある場合など典型的ですが、その閉じた空間の外部に塔が存在しているわけです)、またその「寺院全体」の方位と「塔」の方位が異なっている例が多く、「塔」が先行して建てられていた形跡が窺えますが、それは「隋」の「文帝」の「舎利塔」を建てるようにという詔そのものをそのまま継承ないしは模したものと見られ、「寺」がまだない場合は「塔」だけでもよい、適地を探してそこに建てなさいという「文帝」の指示についてもそのまま国内に指示したものと見られるわけです。
(以下「隋」の「高祖」の「詔」)

「隋文帝立佛舍利塔 二十八州起塔五十三州感瑞
雍州仙遊寺 岐州鳳泉寺 華州思覺寺 同州大興國寺 涇州大興國寺 蒲州栖巖寺 泰州岱岳寺 并州無量壽寺 定州常岳寺 嵩州嵩岳寺 相州大慈寺 廓州連雲岳寺 衡州衡岳寺 襄州大興國寺 牟州巨神山寺 ?州會稽山寺 蘇州虎丘山寺
右此十七州寺起塔出打?物及正庫物造
秦州 瓜州 楊州 益州 亳州 桂州 交州 汝州 番州 ?州 鄭州
右此十一州隨逐山水州縣寺等清淨之處起塔出物同前
門下仰惟。正覺大慈大悲救護群生津梁庶品。朕歸依三寶重興聖教。思與四海之內一切人民。俱發菩提。共修福業。使當今見在爰及來世。永作善因。同登妙果。宜請沙門三十人諳解法相兼堪宣導者。各將侍者二人。并散官各給一人。熏陸香一百二十斤馬五匹。分道送舍利。『往前件諸州起塔。如川陸寺就有山水寺所起塔依前。山舊無寺者。於當州內清靜寺處建立其塔。』所司造樣送往當州。僧多者三百六十人。其次二百四十人。其次一百二十人。若僧少者盡見僧。為朕皇后太子廣諸王子孫等及內外官人一切民庶幽顯生靈。各七日行道并懺悔。起行道日打剎。莫問同州異州。任人布施。錢限至十文已下。不得過十文。所施之錢以供營塔。若少不充役丁。及用庫物。率土諸州僧尼並為舍利設齋。限十月十五日午時。同下入石函。總管刺史以下縣尉以上。自非軍機停常務七日。專檢校行道及打剎等事。務盡誠敬副朕意焉。主者施行
仁壽元年六月十三日。內史令豫章王臣暕宣」
(「大正新脩大藏經/法苑珠林百卷/舍利篇第三十七/隋文帝立佛舍利塔」より)

 上に見るように「山舊無寺者。於當州內清靜寺處建立其塔」とあり、「寺」が重要なのではなく「塔」を建てることに意味があるとするわけであり、「倭国」においても「塔」だけが建てられたという事例があったとみられるわけです。
 このように「国分寺」(というより「国分塔」とでもいうべきか)として「七世紀初め」という時期に創建されたものについて、「大宝年間」という時点において「寺封」を停止するというわけですから、「倭国」から「日本国」への転換がこの時点付近で行われたと見られることと深く関係しているといえるでしょう。

(※)大津市教育委員会によると、2011年8月に近江国府中枢部の国庁跡から北東約400m(菅池遺跡)の古墳時代から平安時代に亘る溝の「最下層」から出土した木片が、飛鳥時代から白鳳時代(7世紀中頃)の木簡の可能性が高いことが発表されています。
 年代測定の基準としては共伴した「土師器」や「高坏」などの編年から「近江遷都」とされる「天智六年(六六七年)以前」と判断したとされます。
 つまり、この付近にそれ以前から、「公的」な施設もしくは豪族の拠点があったという可能性が考えられる事となりました。
コメント

「第四指」と「魔法」(再度)

2024年02月23日 | 古代史
前回からの続きです

「第四指」と「魔法」

 すでに述べたように説話の中では「天智」は「崇福寺」建立に際して、「寶鐸」や「白石」が掘り出されたこと、またそれが「夜光る」ということを「奇瑞」であるとして、喜んでおり、ためらわずその「左手無名指」を「燃やし」また「切り落として」、供えています。これはやはり、この「第四指」に「供える」にふさわしい「霊力」があるとその当時考えられていたこと、少なくとも「天智」自身がそう考えていたことを示していると思われます。
 確かに『法華経』の「薬王菩薩本事品」には「手指」を燃やして「供養佛塔」することを勧めていますが、その「指」の中でも「左手無名指」を選んでいるというところに「仏教」以前の世界の雰囲気が感じられます。つまりこの行為は仏教の教義に則ったものというより、「仏教以前」に行われていた「神道」的要素が強いと考えられます。
 このような「血」の儀式様のものは仏教の教えとはかなり遠いものと思われ、このような「生け贄」的考え方は「神道」など当時の日本における「俗」としての古典的要素が強いと考えられます。
 しかし、以下の中国の例においても、「出家」しようという人物が、指を切断している例があり、中国ではそのような思考法がそれほど珍しくなかったともいえます。

「祖堂集卷第十八」「仰山和尚」の段
「仰山和尚嗣?山,在懷化。師諱慧寂,俗姓葉,韶州懷化人也。
年十五,求出家,父母不許。年至十七,又再求去,父母猶?。其夜有白光二道,從曹溪發來,直貫其舍。父母則知是子出家之志,感而許之。師乃斷左手無名指及小指,置父母前,答謝養育之恩。…」

 この中では「父母」に「恩」を示すため「指を切断して」供えたとされています。「父母」への「恩」を示すために、自分の「指」を切断するというのは一見わかりにくい論理ですが、「恩」に「答謝する」為には「拝礼祭祀」を行なう必要があり、そのためには「神」に供えるものが必要であったと言うことではないでしょうか。
 この段階では彼は「出家」する前ですから、「中国」の民間に流布していた宗教の中で暮らしてきていたものであり、そのような状況下でこの行為を行なったと考えられますが、そのような中では「神」に供え物をする、特に「血」を「供える」ということが重要視されていたと言うことが考えられます。
 そもそも仏教では「不殺生」というのが「戒律」の重要な要素であったものであり、「五戒」の第一に数えられるものです。しかし、「中国」では仏教発祥の地である「インド」とは違って、以前より「犠牲」を伴う「儀礼」を行う文化がありました。それは仏教伝来後もかなり後代まで遺存したものであり、例えば「南朝」「梁」の「武帝」は、深く仏教に帰依した結果、宗廟へのお供え物についても「疏菜果実」つまり「肉類」は取り止めとしたとされています。つまり、この時点までは「宗廟」で犠牲を用いた儀式を行なっていたものであり、それは代々の皇帝の「義務」でもあったわけです。しかし、彼の代になって「儀式」には「犠牲」を用いないということとなったものです。
 「生類」全てに「人間」と同等の「命」の重さを見て、殺生を禁じ、解放するという考え方や行動は、「生贄」という「傷を付け」「血を流す」儀式を行なう思想とはかけ離れています。このような「生贄」やそれを伴う儀式は「殷」や「周」など「古代中国」に淵源するものといえますが、仏教以前の古代的感覚であると思われます。
 「唐」時代以降についても状況は余り変わらなかったものと見られ、「唐皇帝」は「道教」の開祖である「老子」について、「唐皇帝」の祖先であるとして「道教」を重視しましたが、これは「天師道」と呼ばれ、後漢時代の「五斗米道」の流れをくむものとされています。その基本は「天地」の神への感謝と豊作と幸運を祈念した「禮際」を行なうものであり、それには「供え物」(生贄)が必須であったと考えられます。
 この「仰山和尚」の「出家」に関するエピソードでもやはり「天地」の神と祖先神への感謝が基本であったと思われ、「指」を切り落として供え物とすると言うのは当時それほど珍しいものではなかったのかも知れません。
 「天智」の例でも、『扶桑略記』の文章では「奉為二恩」とされ、「奇瑞」とされる「寶鐸」等が掘り出されたことを「父母」に感謝し、そのために「薬王菩薩本事品」にある「指灯」の行を行なったあと、今度は「神祇」に対して「祭礼」を行ない、その際に「お供え」(生け贄)として燃やした自己の「第四指」(無名指)を差しだしたと言うことが考えられ、共に同じような「祭式儀礼」であったと思われます。
 ちなみに、この『祖堂集』の「仰山和尚」のエピソードはそのほかの点でも「天智」のそれと酷似しています。
 「元亨釈書」等では「白石」が掘り出され、それが「夜有光」とされており、これを「奇瑞」としているわけですが、『祖堂集』では「其夜有白光二道」とあって、やはり「夜光る」ものであり、それを「奇瑞」であるとするのも共通です。
 そして、その結果「天智」と「仰山」は共に「左手無名指(仰山は小指も)」を切り落として、それを「父母」に感謝の意を表するとして、「天地の神に」「供えて」祭礼を行なったということとなります。
 この「逸話」が記された『祖堂集』(そどうしゅう)は、五代十国の「南唐」時代(十世紀)に成立した中国禅宗の記録です。しかし、『祖堂集』は中国国内で編集されたものの、いわばそのまま「お蔵入り」となり、その後「高麗」に持ち込まれ、一二四五年「順佑五年」に高麗大蔵経の附録として刊行されたものの、それも二十世紀初頭に発見されるまでその存在は知られていなかったとされます。しかし、上に見る記事の酷似は偶然とは言いがたく、上に見た諸資料中でも一番早い時期と考えられる『三宝絵』(「十世紀頃」か)に『祖堂集』が影響を与えているという可能性が考えられるところです。
 また、確かに「指を燃やす」というような行は上に見るように「法華経」にあるものであり、その意味では上の行為は仏教と必ずしも食い違っている訳ではありませんが、それを「切り落として」「石壇」(地中)に納めるということについては、どう考えてももはや「仏教的」とは言えないと思われます。
 このような仏教の経義と微妙に異なる儀式が行なわれている事から考えて、この時の「天智皇帝」なる人物の時代は、「仏教的」な雰囲気で満たされていた訳ではなく、以前からの「民間信仰的」が色濃く残っていた事が想像されます。それは仏教に深く傾倒している人物でさえもその「時代的限界」の中にいたと言うことを示すと思われ、逆に言うとそのような事が行なわれるということはこの時代が、もっと古い時代のことではないかという事をも考えさせるものとも言えます。それから想起させられるのは『隋書俀国伝』の「知卜筮、尤信巫覡。」という記事です。
 この記事はすでに検討したように「開皇年間の早い時期」つまり「五八〇年代」に派遣された「遣隋使」の口頭報告をまとめたものと思料され、それ以前の「倭国」の状況を窺わせるものですが、そこでは「俗」つまり民衆レベルでは多くが「巫覡」つまり「男女の祈祷や占いをする人達」に頼って生活していたことを示すものであり、そのような時代的雰囲気というものは、「天智」と称される人物が行った「左手第四指」を切り落とすという行為が行なわれた背景としての時代的雰囲気とよく重なるものではないでしょうか。
 つまり「天智皇帝」が本当に「天智天皇」を指すのか、「崇福寺」の創建は本当に「六六八年」なのかと言うことが問われていると言えるでしょう。
コメント

「天智」と「左手無名指」(再度)

2024年02月23日 | 古代史
今回もかなり以前に「投稿」していたものを再度アップします。
どうしても以前のものが「埋もれてしまう」という問題があり、「検索」窓はあるものの自然な流れで目に入るというものでもないため、時折リマインドする必要があるのかなと思って改めて投稿しているものの一環です。

「天智」と「左手無名指」

 『今昔物語集』など複数の資料に「天智」が「左手無名指」を切り落としたという記述があります。

「『今昔物語』巻十一 天智天皇、建志賀寺語第二十九」
「…其時ニ、天皇□(底本の破損による欠字)□召テ宣(のたま)ハク、翁、然々(しかしか)」ナム云テ失ヌル。定(さだめ)テ知ヌ、此ノ所ハ止事無(やむごとな)キ霊所也ケリ。此ニ寺ヲ可建(たつべ)シト宣(のりたまひ)テ、宮ニ返ラセ給ヒヌ。
其明ル年ノ正月ニ、始メテ大ナル寺ヲ被起(たてら)レテ、丈六(じやうろく)ノ弥勒(みろく)ノ像ヲ安置シ奉ル。
供養ノ日ニ成(なり)テ、灯盧殿(とうろでん)ヲ起(た)テ、王自(みづか)ラ右ノ名無シ指(および)ヲ以テ御灯明ヲ挑(かかげ)給テ、其ノ指ヲ本(もと)ヨリ切テ石ノ筥(はこ)ニ入(いれ)テ、灯楼(とうろう)ノ土ノ下ニ埋(うづ)ミ給ヒツ。」

 これによれば「指」そのものを灯明とした後、それを「埋納」したという事と理解されます。
 また、この『今昔物語集』と同様の記述は『元享釈書』や『扶桑略記』などの仏教資料にも見られます。

『元亨釈書巻二十一』「天智皇帝の段」
「七年正月初三。帝即位。曷為緩。考也。帝創建福寺于志賀都。當平基趾得寶鐸。長五尺五寸。又得白石。長五寸。夜有光。帝喜奇瑞斬左手無名指。納殿前燈幢石壇中。…」

『扶桑略記』「天智天皇の段」
「七年戊辰正月十七日。於近江國志賀郡。建崇福寺。始令平地。掘出奇異寶鐸一口。高五尺五寸。又掘出奇好白石。長五寸。夜放光明。天皇殺左手無名指。納燈爐下唐石臼内。奉為二恩。…(已上同寺縁起より)」

 更に「九八四年」に「源為憲」が著した『三宝絵』の下巻の「僧宝の十」にも、次のようにあります。

「…天智天皇、寺をつくらむの御願あり。此の時に王城は近江の国大津の宮にあり。寺所を祈りてねがひ給へる夜の御夢に、法師来りて申さく、「乾(いぬい)の方(北西)にすぐれたる所あり。とく出でてみ給へ」と。…
あくる戊辰の年(六六八年)の正月に、はじめてつくらしめ給ふ。土ひきて山を平ぐるに、宝鐸を堀り出でたり。また白き石あり。夜光をはなつ。
御門いよいよつつしみたうとび給ひて、堂をつくり、仏をあらはし給ひつ。御門、左の方の無名指をきりて石のはこに入れて、とうろうの土のしたにうづみをき給ふ。
これ、て(掌)に灯火を捧げて、弥勒に奉り給ふ志を表はし給へるなり。『志賀の縁起』にみへたり。」

 これは上の『三宝絵』では「弥勒」と関連したものとしていますが、実際には『法華経』の「薬王菩薩本事品」に見える以下の内容を下敷きにしたものではないかと考えられているようです。

「…若有發心。欲得阿■多羅三貌三菩提者。能燃手指。乃至足一指。供養佛塔。勝以國城妻子。及三千大千國土。山林河池。諸珍寶物。而供養者。…」『法華経薬王菩薩本事品第二十三』
 
 これらから理解されることは、「(崇)福寺」を造るに際して土地を開削したところ、「寶鐸」と「白石」を掘り出したとされ、「鐸」という表現をしているところから見て「内部」に「舌状」のものが吊り下げられている形状を想定させますから、いわゆる「銅鐸」ではないかと考えられますが、それと共に掘り出された「白石」が「夜光る」と言うことから、「帝」は「奇瑞」であると喜び、「左手無名指」を「灯籠」代わりとしてその身を燃やした後、その指を「本から」「切り落として」、「灯籠」の土の下(あるいは「燈幢」つまり「燈籠」と「幢」(旗竿状のもの)を建てる「石壇」の中)に「納めた」というわけです。
 これについては『元享釈書』では「殿前」とされ、この「殿」という表現からは「創建」された「建福寺」ではなく「宮殿」の「殿前」ではないかと思料されるものであり(「寺院」には「堂」はあっても「殿」はないと考えられます)、「宮殿」(この場合「淡海宮殿」か)の「正殿」の前には「燈」(明かり)「幢」(旗)があり、それらが立てられている基礎部分の石壇の中に自らの「左手無名指」を切断して「納めた」と言うことであると推定されます。
 更に「鑑真」と共に来倭した「思託」の『延暦僧録』によると(これは逸文として『本朝高僧伝』に記載されているものです)によれば、「無名指を切り落として」それを「灯明」に入れて燃やしたとされています。また『今昔物語集』以外ではそれを「左手」としています。(「 鳩摩羅什」の訳による『大智度論』 (No. 1509 龍樹造 ) in Vol. 25 などでは「…即時薩陀波崙右手執利刀刺左臂出血。割右髀肉復欲破骨出髓。…」とあり、右手に刃物を持つのが通常とされているようです。)
 このようにその事情に複数の説があるようですが、いずれも「指を切り落とした」という一点は共通であり、その行動の特異性が際だっています。
 これは明らかに一種の「生け贄」を捧げる儀式であると考えられるとともに、それが複数の史料では「左手」の「無名指」とされているのはなぜかと言う事が疑問とせざるを得ません。
 「第四指」は現在日本では「薬指」と称されていますが、これは以前「薬師指」であったことの名残であるとされています。またその「薬師指」の由来は、「薬」を解く(かき混ぜる)指がこの指であるとされていたからのようですが、なぜ「第四指」がその役目を負っていたのでしょうか。それはこの指に「魔法」の力があるとされていたという説が有力です。
 第四指は古代には洋の「東西」を問わず「無名指」などと表現されていた事が明らかになっています。例えば「サンスクリット語」や「ラテン語」「ペルシャ語」「ロシア語」「ガリア語」等々で「無名指」と同等の表現がされています。それはこの指に「魔法の力がある」とされていたからであるという研究があります。(※1)
 それによれば、その「魔法の力」がある「指」が「無名」であるのは、「名前」を知られると効果がないと考えられたからであるとされ、それは古来「戒名」や「古代の天皇の「諱」(いみな)なども「本名」であり、生前はそれを「魔物」に知られないように「伏せて」あったものであって、死んで始めて明らかになるという考え方に通じます。
 また「中国」などでは「名前」については通常「字」で呼称されまた表記されていたとされます。死後略歴などを記す場合には「本名」を書き、その後に「字」を書いていたものですが、例えば「百済根軍墓誌」の場合を見ると「公諱軍、字温」と書かれています。「諱」である「軍」が本名であり、「字」とされる「温」は通称です。生前は「諱」が明らかになったり使用される事はなく、「字」が使用されますが、死後は「諱」が使用されるようになります。それは「本当の名前」が「鬼神」に知られると「災い」が起きるとされていたからであり、「名前」にはそのものの「本質」が現れていると考えられていたようです。このことから、「名前」を知られることを極力避けていたと考えられます。
 この「第四指」についても、備わっている「魔法」の力が、その名前が知られることにより「減ずる」こととなってしまうと考えられ、そのため「無名指」(つまり名前のない指)となったのだと考えられます。
 「薬師如来」像も「左手」に薬壺を持ち、右手の「薬指」だけを上げて前方に伸ばしている形で造形されています。このことからこれらを造物する際にすでに「第四指」に意味を持たせているのは明らかであり、このことから「第四指」が「薬師指」と称される原因となったものと考えられます。
 この「第四指」に「魔法の力」あるいは「霊力」を認める考え方は上に見るように全世界の各地に見られるものであり、特に「左手の薬指」は、「心臓」が「左」にあるように見える事から特に重視されたものと思われます。そして、その指に装着する装飾具も同様に「霊力」を保持していると考えられたものであり、「指輪」がこの「第四指」に装着するものとされていた事もそれが理由であったと思われます。中でも「結婚指輪」が典型的な例であり、この指につけられることにより、その指輪をつけてくれた相手だけを好きになる「魔法」がかけられることとなるというわけです。
 この「左手無名指」に関する世界的な共通性について考えてみると、「チェス」と似ていると感じられます。
 「チェス」の起源は「インド」にあり「チャトランガ」と呼ばれる(サンスクリット語)「四人制」の「博戯」(当初はさいころを使用していた)であったとされます。それが「西方」に伝わり「チェス」となり、「東方」に伝わったものが「将棋」(日本の場合)「象棋」(中国の場合)となったとされます。(日本将棋の場合途中に「タイ」の「マックルック」を経由するようですが)
 このように「インド起源」のものが東西に拡散していった例があるわけであり、「無名指」の場合も「サンスクリット語」に於いても「無名指」と呼ぶと言うことを考えると、「第四指」を「無名指」と呼び、「霊的力があると考える」ことの起源が「インド」にあり、「チェス」や「将棋」と同様、「東西」に広がったものという推測が出来ると思われます。
 その起源は紀元前後であったと思われますが、それが周囲に伝搬するにはやや時間がかかり、「チャトランガ」が「チェス」や「将棋」として伝搬したのと同様の時期として推定すると、日本には六-七世紀には到着していたと見られます。(※2)それはこの「各資料」に出てくる「倭国王」が『隋書俀国伝』の時期の人物であるという推定が不自然ではないことを示すものです。
 ちなみに「第四指」が「霊的力」があるとされたのは、家族や村で共同作業などの際に「非力」である、「要領が悪い」というようないわば「役立たず」の人間のできる事は「祈ること」だけであったと言うことが関係しているのではないかと推察されます。(「卑弥呼」が支持された点もこの付近にありそうです)というより当時にあって一番大事なことは「神」に祈りを捧げることであり、その役割は「実作業」において重要性を持たないタイプの人間が受け持っていたのではないかと思われ、それを「指」に置き換えて考えると「第四指」がそれに相当していたと言うことではなかったかと思われます。他の指より「可動範囲」も狭く、「他と独立して動けない」(腱がつながっているため)などハンディを背負っている指であり、そのことが「集団」における「祈祷」などを行うのが役割の人間と見立てられる理由となっていたのではないでしょうか。
 (このようなタイプの典型的なものが『倭人伝』に言う「持衰」ではなかったかと考えられます。彼は「航海術」にも長けておらず、「船」には「不要」「無用」の人間であったと思われますが、そのような人間だからこそ「一心不乱」に祈って始めて航海の安全が確保されるという当時の「常識」があったのではないかと考えられるものです)

※1ラースロー・マジャール氏「Laszlo A. Magyar『DIGITUS MEDICINALIS - THE ETYMOLOGY OF THE NAME」Actes du Congr. Intern. d'Hist. de Med. XXXII., Antwerpen, 1990. 175-179. 」
※2発表当時「将棋博物館館長」であった「木村義徳八段」の説

(以上の記事内容は2016/02/14が最終更新として投稿したものです)
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