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筑紫君「薩夜麻」とは(二)

2018年05月12日 | 古代史

 「持統」は詔を出し「大伴部博麻」を顕彰しているわけですが、この記事には「不審」があります。彼は自分の身を売って「薩夜麻」達の帰国費用を捻出した、というわけですが、その「薩夜麻」は「六七一年」に「郭務宋」と同行して帰国しています。彼のこの帰国に当たって「費用」を自前で用意する必要があったとはみられません。
 彼は当時「百済」を占領していた「唐将」「劉仁願」の部下と考えられる「郭務宋」に同行して帰国したわけですが、彼のような「君」と呼ばれる「高位」の人物で「捕囚」になった人物は他には確認されていません。このことは「唐」ないし「新羅」側にしてみても、彼のような人物が(当初はともかく)正体がわかった後で、いつまでも「捕囚」として「拘束」していたかはなはだ疑問ではないでしょうか。彼は「捕囚」と言うより「客人」としての扱いを受けていたのではないかと考えられます。

 「二〇一一年」に「中国」で「百済禰軍」の「墓誌」(「拓本」)というものが発見されました。この「墓誌」の解析によれば、彼は「熊津都督府」から「倭国」に派遣されていますが、この時の「百済禰軍」(及び「郭務悰」「劉徳高」など)の「来倭」の一つの目的は「薩夜麻」の追求であったはずです。
 この「禰軍」という人物は「百済」の「佐平」という位階を持っていたと「墓誌」に書かれていますが、「六六〇年」の「百済王」達が捕虜になった際に一緒に投降したものと考えられ、その後「唐」側の人物として活躍していたものと考えられます。
 彼は「百済」にいた際に「新羅」や「倭国」などの事情に明るかったものと推察され、唐側に立場が変わってからはその点を評価され「情報収集」と「折衝」を行うような職責にあったものとわれます。このような人物が「倭国」との「折衝」のために「派遣」されていたとしても不思議ではありません。
 「熊津都督府」から派遣された彼らは、実際には「唐」・「旧百済」合同勢力とでも言うべきものであり、「新羅」の勢力とは別個に来倭したものです。(「熊津都督府」の構成主体には「新羅」がほとんど含まれていなかったと見られる)そしてその目的は「泰山封禅」に「倭国王」を引率(連行)し、「皇帝」(高宗)に対し直接「謝罪」させることに協力させることであったと考えられます。

 この間「倭国」は「倭国王」不在となっており、また「天智」が「革命政権」を開き「天皇」を自称していたと思われます。
 「熊津都督府」では、これを聞き、急ぎ「旧百済」の勢力を「唐使」の「ガード役」として派遣したものと思われます。その目的は「天智」を説得し、投降させると共に、「唐」の「権威」を認めさせ、「捕囚」となっている「倭国王」を「泰山封禅」に連行するに当たって同行させるために必要な人員を派遣することであり、彼等と共に「唐皇帝」に直接謝罪させることであったと思われます。
 これを受け入れた「天智」が派遣した「守君大石」達と共に「薩夜麻」は「劉仁軌」により「連行」され、「高宗」に面会した時点で、彼は「高宗」に対し「従順」を誓い「臣下の礼」を取ったものと考えられます。これは降伏の儀礼として「一旦称臣」と称するものであり、「捕囚」となりまた「奴隷」となることを意味しますが、「倭国王」にとっては選ぶ余地のない仕儀であったと思われます。
 「唐」としても「倭国」が「絶域」(遠距離)であることを考慮すると、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、彼を真の意味での「「処罰」(流罪など)の事は考えていなかったのではないでしょうか。ただし「唐」と戦火を交えたわけですから不問に付すことはできず、「熊津都督府」に拘留することで「流罪」の形としたものと思われるわけです。しかし今後のことを考えると形ばかりであったかもしれないものの「服従」の意思を示した「薩夜麻」が「倭国王」に復帰するのが「唐」として最も安心であり、また納得のいくものであったでしょう。その意味で通常の戦争捕虜と違い、すぐに「臣下」としての扱いとなったはずであり、何らかの「称号」を付与され「倭国王」として新たに任命されることとなったという経緯がもっとも推定できます。
 このようにして「唐皇帝」の「臣下」としての扱いになったと思える「薩夜麻」については、その「帰国」に要する費用が「自腹」であるはずがないと思われます。
 このような場合、その後の関係を健全なものにするためにも「送還」に当たって「費用」が必要だったり、手荒な扱いであったりすることは決して無く、「要人」として相応の扱いをした上で、「警固」の軍をつけて送り返すのが常のようです。
 つまり、彼の帰国費用などについては元々「博麻」が負担すべきいわれはなかったと考えられるのです。そう考えると「大伴部博麻」の献身は「薩夜麻」を除く他の三名についてのものであったという可能性が高いと思われます。

 また、「氷連老人」は『書紀』に引用された「伊吉博徳」の証言からの解析からは、「七〇四年」にならなければ帰って来れなかったと推定できますし、「弓削連元寶兒」については「伊吉博徳」の証言による「別倭種韓智興・趙元寶」と書かれた「趙元寶」と同一人物という可能性もあり、そう考えた場合実際に帰国にあたって費用が必要だったのは「土師連富杼」だけであった可能性もあるでしょう。ただし「富杼『等』任博麻計得通天朝」というように「等」とありますから「富杼」以外の誰かも一緒に帰国したものとみれば「超元宝」とその「児」と称される人物は別人と見るのが相当かもしれません。

 「土師連富杼」が帰国した年次は不明ではありますが、帰国するのに「旅費」を必要とする、という文章からは「民間」の船(漁船など)に金を払って乗せてもらって帰国したのではないかと考えられます。このような方法で「至急」帰国したと仮定すると、帰国日時が正確に記載されないのも理解できるものです。ただし、帰還した「大伴部博麻」を顕彰した「持統天皇」の詔にある、「薩夜麻」達を帰還させるために「大伴部博麻」の献身が提案された年次である「天命開別天皇三年」というのが何年の事なのかについては、諸説があるものの、『書紀』中の他の「天命開別天皇の何年」という例は全て「称制期間」のことなので、ここでいう「天命開別天皇三年」も同様に「称制期間」と考えられ、「六六四年」のこととなると考えられます。この年次から余り離れていない時期(その年の内か)に「土師連富杼」は帰国したものと推察されるものです。


(この項の作成日 2011/01/20、最終更新 2017/12/07)


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