古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「狗邪韓国」について(及び「到」と「至」について)

2019年04月24日 | 古代史

 『倭人伝』を見ると「狗邪韓国」までは「官」の有無を始め詳細情報が記されませんが、「對馬国」以降はそれが書かれるようになります。そのことから「倭王権」の統治範囲は「對馬国」までであったと見られ、ここに「境界線」が存在していたと見たわけですが、それを裏付ける(と私見では見られる)ものが『魏志韓伝』から伺えます。

 『魏志韓伝』には以下のような記述があります。

「…辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。 有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。 今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。 有巳柢國 不斯國 弁辰彌離彌凍國 弁辰接塗國 勤耆國 難彌離弥凍國 弁辰古資彌弥凍國 弁辰古淳是國 冉奚國 弁辰半路國 弁楽奴國 軍彌國 弁軍彌國 弁辰彌烏邪馬國 如湛國 弁辰甘路國 戸路國 州鮮國 馬延國 『弁辰狗邪國』 弁辰走漕馬國 弁辰安邪國 馬延國 『弁辰瀆盧國』 斯盧國 優由國 弁辰韓合二十四國 大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸 其十二國属辰王 辰王常用馬韓人作之世世相繼 辰王不得自立為王。土地肥美冝種五穀及稲 暁蠶桑作縑布 乗駕牛馬。嫁娶禮俗,男女有別。以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚。國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟,其形似筑,彈之亦有音曲。兒生,便以石厭其頭,欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭,亦文身。便?戰,兵仗與馬韓同。其俗,行者相逢,皆住讓路。 弁辰與辰韓雑居 亦有城郭 衣服居處與辰韓同 言語法俗相似 祠祭鬼神有異 施竈皆在戸西。『其瀆盧国與倭接界』 十二國亦有王 其人形皆大 衣服絜清長髪 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻。…」

 これを見ると「弁辰」十二国の中に「(弁辰)狗邪国」があります。「弁辰」と「辰韓」は雑居しているとされ、更に「辰韓在馬韓之東」つまり「辰韓」は「馬韓の東」にあるとされていますが、これは現在の「慶尚南道」(洛東江流域)付近と比定されています。この位置は通常『倭人伝』で「郡より倭に至る」際の半島を経過し「其の北岸」に到着したという「狗邪韓国」の位置を含んでいると思われます。つまり「(弁辰)狗邪国」が「狗邪韓国」であろうと考えて別段不自然ではないこととなります。ただしこう考えた場合「狗邪韓国」は「弁辰」の一国であることとなりますから「倭」の統治領域の外にあることは明確です。

 ここでは「辰韓」と「弁辰」を区別する意味で「狗邪国」の前に「弁辰」という語が前置されているわけですが、これは「狗邪国」の後ろに「韓国」という一語が加えられている『倭人伝』の状況に極めてよく似ているといえます。 『韓伝』の中では「弁辰」という「韓地」における小領域の表記を付加することで区別する方法を選んでいるのに対して、『倭人伝』の中ではそこが「倭」の領域ではなく「韓」の領域の中の国であるという意味で「韓国」が語尾に付加されているとするとその記述に一貫性があるといえます。
 また「弁辰瀆盧國」は「倭」と境を接しているとされます。これは『韓伝』の冒頭に書かれた「韓は南を倭と接している」という表現と同一です。

「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接…」

 この記事から「弁辰瀆盧國」が「狗邪韓国」と同様半島の南端にある国であることが推定できます。(ただし、既に「接する」という表現が「陸続き」であることを直接は意味しないことは述べていますのでここでは言及しません)
 また『倭人伝』では「狗邪韓国」に着いたという記事の後「一海を渡る」という表現になっているところを見ると、「狗邪韓国」つまり「弁辰狗邪國」自体も同様に「倭」と境を接しており、「朝鮮海峡」に面した国であることには間違いないものと思われます。ただし「弁辰瀆盧國」についてのみ「界を接する」という表現がされていることからみて、ここに「韓」における「一大率」的な施設(組織)があったと見るのが相当でしょう。そして、それは「倭」との通交の窓口となっていたということの表現と見るべきです。逆に言うと「伊都国」同様「魏使」はここを経由しないで「倭」に渡ることはできないことを示すものであり、その意味でも「郡治」から直接「投馬国」に行くというルートが当時あったとは思われないこととなるでしょう。彼ら「弁辰」の「国境警備隊」の検察の元「狗邪国」から「倭」つまり「対馬」に向けて「魏使」は海を渡っていったものと考えます。

 また『魏志倭人伝』を見ると「到」と「至」が混在しているように見えます。論者の中にはこの「到」と「至」は『魏志倭人伝』において「峻別」されており、「魏使」は「到」で表される国には確かに行っているが、「至」で表される国には実際には行っていないという論を成すものがありました。
 また同様に「峻別」する議論として「到」は最終目的地であり、「至」は「論理上」の点であり、また「途中経過」的な用法であるとするものもあります。これについて『三國志』の中で使用例を渉猟すると、「到」が到着を表す(つまり目的地に到着した意を表す)というのは確かにその通りと思われますが、逆に「至」が「到着」を表すのに「使用されていない」ということはないこともまた理解できます。例を挙げると以下のようなものが散見されます。

「…太和二年…明帝於是拜淵大司馬、封樂浪公、持節、領郡如故。使者『至』、淵設甲兵爲郡陳、出見使者。又數對國中賓客出惡言。 景初…二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍『至』遼東。淵遣將軍卑衍、楊祚等歩騎數萬屯遼隧、圍塹二十餘里。宣王軍『至』、令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等撃破之。宣王令軍穿圍、引兵東南向、而急東北、即趨襄平。衍等恐襄平無守、夜走。諸軍進『至』首山。淵復遣衍等迎軍殊死戰。」(公孫淵伝)

「秋九月,太祖還?城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽。於是紹使人?太祖,欲連和。太祖新失?州,軍食盡,將許之。程昱止太祖,太祖從之。冬十月,太祖『至』東阿。

建安元年…秋七月,楊奉、韓暹以天子還洛陽,奉別屯梁。太祖遂『至』洛陽,衞京都,暹遁走。」

 これらの例は「至」が「到」と全く同義で使用されていることを示すと理解できます。これらはいずれも「目的地」を示す場所に「到着」した時点で使用されています。最初の例では「遼東」は派遣された遠征軍の目的地であり「公孫淵」の本拠とでもいうべき場所です。この場所に「到着」したという時点で「至」が使用されています。 同様にその次の例は「太祖」つまり「曹操」が「天子」(これは「後漢」の霊帝)が「洛陽」に軟禁されていることを知って、軍を率いて「洛陽」にやって来たことを示す意義であり、ここでも「洛陽」は明らかに「目的地」です。
 『倭人伝』の中でも「南『至』邪馬壹国」とされていたり、「從郡『至』倭」あるいは「自郡『至』女王國」とされている例が確認できますが、当然「倭」及び「邪馬壹国」「女王国」は「郡使」の最終到着予定地であるはずであるにも関わらず「至」が使用されているという状況があります。 つまり「陳寿」あるいは彼と同時代の「報告書」等を記した人達は「到」と「至」を峻別していないといえるものです。

 ちなみに古田武彦氏は『「邪馬台国」はなかった』の中で、この「両者」の差異についてすでに検討されており、私見と同義の結果を得ています。最も古田氏がそう言ったとかということが絶対ではないことは確かであり、例えば氏の論の中では「使訳通じる所の三十国」には「狗邪韓国」が入るという結論となっており、それは私見とは異なりますが、この考えは「瀚海」に対する誤解といわば「セット」であり、「狗邪韓国」が「韓地」であって「倭王権」の埒外であるという認識があればまた結論も変わったであろうと思われます。いずれにしても冷静で論理的、合理的な思惟進行が必要であるといえるでしょう。

 この「到」と「至」という両者の混用は先に論じた「瀚海」と「翰海」の例とは自ずと異なるものであり、この両者が意味上全く異なるのに対して(当然混用されているはずがない)、「到」と「至」はその元々の意味が非常に近接しており、より一般的、広範な意味で使用される「至」に対し、意味上限定的といえる特殊型が「到」ではないかと思われます。つまり「到」は「至」に含まれる概念であり、「到」の意味で「至」が使用される事は充分あり得るといえるでしょう。


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