ここでは『倭人伝』に出てくる「戸」と「家」について分析します。
「戸」と「家」(1)
「古田氏」は『…「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位」とされています。そして「…つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。』(※)
と理解されているようです。
また「魏志」の中では「戸」と「家」とが両方見えており、「戸」と「家」の意味が異なるとすると「なぜ」倭人伝の中には「同居」しているのか、その意味の違いが問題になります。
『倭人伝』の中では「對馬國」では「戸」と書かれ、次の「一大国」では「家」と書かれています。「末盧國」「伊都國」「奴國」と「戸」表記が続きますが、「不彌國」は上陸後唯一の「家」表記となっています。
これについては「古田氏」は以下のように述べられます。
『一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく不弥国は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。』(※)
ここでは、「家」表記の理由は多様な民衆構成であったからとされていますが、例えば「不彌国」にいろいろな人達がいるというのはある意味「危険」ではないかと思われます。
「狗奴国」との争いが続いてる状態があったとすると、何時「刺客」が入り込んでくるか判りません。そのようなことに神経質にならなかったとすると不思議です。「狗奴国」のように外国と争いが起きている際に「邪馬壹国」の玄関とも言うべき場所に「戸籍」で管理されない人達がいたとすると、外部からの侵入者はそのような状態に紛れる可能性が高く、これを捕捉することが非常に難しくなるのではないでしょうか。そう考えると「家」の表記には別の意味があるのではないかと考えざるを得ません。
『倭人伝』だけではなく「夫餘伝」などにも「戸」と「家」が同居している例があります。
(以下魏志東夷伝から)
と理解されているようです。
また「魏志」の中では「戸」と「家」とが両方見えており、「戸」と「家」の意味が異なるとすると「なぜ」倭人伝の中には「同居」しているのか、その意味の違いが問題になります。
『倭人伝』の中では「對馬國」では「戸」と書かれ、次の「一大国」では「家」と書かれています。「末盧國」「伊都國」「奴國」と「戸」表記が続きますが、「不彌國」は上陸後唯一の「家」表記となっています。
これについては「古田氏」は以下のように述べられます。
『一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく不弥国は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。』(※)
ここでは、「家」表記の理由は多様な民衆構成であったからとされていますが、例えば「不彌国」にいろいろな人達がいるというのはある意味「危険」ではないかと思われます。
「狗奴国」との争いが続いてる状態があったとすると、何時「刺客」が入り込んでくるか判りません。そのようなことに神経質にならなかったとすると不思議です。「狗奴国」のように外国と争いが起きている際に「邪馬壹国」の玄関とも言うべき場所に「戸籍」で管理されない人達がいたとすると、外部からの侵入者はそのような状態に紛れる可能性が高く、これを捕捉することが非常に難しくなるのではないでしょうか。そう考えると「家」の表記には別の意味があるのではないかと考えざるを得ません。
『倭人伝』だけではなく「夫餘伝」などにも「戸」と「家」が同居している例があります。
(以下魏志東夷伝から)
「夫餘伝」
夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句驪、東與〓婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。戸八萬。其民土著、有宮室、倉庫、牢獄。多山陵、廣澤、於東夷之域最平敞。土地宜五穀、不生五果。其人〓大、性彊勇謹厚、不寇鈔。國有君王、皆以六畜名官。有馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。邑落有豪民、名下戸皆爲奴僕。諸加別主四出道、大者主數千家、小者數百家。食飲皆俎豆、會同、拜爵、洗爵、揖讓升降。 」
これを見ると、「夫餘」全体については「戸」で表記されているのに対して、「諸加」の「大者」「小者」についての表記では「家」が使用されています。
ところで、「魏志」では(『倭人伝』や「扶余伝」など)、「下戸」という存在が書かれています。この「下戸」を一部には「個人」とみなす考え方があるようであり、そこから「戸」と「口」ないし「人」は等しいという議論もあるようです。しかし、文脈上そうは受け取れないと思われます。
たとえば「扶余」では「下戸」は「奴僕」となるとされ、それは「豪民」に対するものとして書かれています。
「邑落有豪民、名下戸皆爲奴僕。」
また「諸加」に対応する存在としても書かれています。
「有敵、諸加自戰、下戸倶擔糧飲食之。」
つまり「諸加」は敵が来た場合自ら戦い、「下戸」達と飲食を共にするという意味ですが、この場合の「諸加」という表現は「諸加」に属する、あるいは部類する人達、つまり「階層」を指すものであり、「個人」を指すという訳ではないと考えられます。そもそも「敵」そのものも「個人」に対するものではありません。明らかに「国」あるいは「地域全体」に対する外敵を指すものであり、それに対応する「諸加」や「下戸」が「個人」であるはずがないといえるでしょう。どちらも「層」ないしは「階級」の名称であり、「個人」を指す表現とは考えられないこととなります。さらにこれを「個人」と考えると、彼(ら)の子供はどうなるのかと言うこととなります。彼が「下戸」なら必ず彼の子供も「下戸」でしょう。「夫婦」の場合も同様です。これは要するに「下戸」に限らず、「戸」が「個人」を示す単位としての概念ではないことを示すものです。
ただし、以下の例では「戸」は「入口(ドア)」の意で使用されていると思われます。
「高句麗伝」
「其俗作婚姻、言語已定、女家作小屋於大屋後。名壻屋。壻暮至女家『戸』外、自名跪拜、乞得就女宿。如是者再三、女父母乃聽使就小屋中宿。」
「東沃沮伝」
「其葬作大木槨、長十餘丈、開一頭作『戸』。新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。舉家皆共一槨、刻木如生形、隨死者爲數。又有瓦〓、置米其中、編縣之於槨『戸』邊。」
「高句麗伝」の記述は「女の家の入口の外」という意味であり、「東沃沮伝」の例では「槨」の「頭」の部分に「入口」(扉状のものか)を作るとされていますし、「槨」の「入口」の所に「米」を入れた「袋状のもの」を置くとされています。
これらの例は「戸」を現代的な「入口」(「ドア」という意味の「と」という場合に近いか)という意味と判断できます。それは「家」の「戸」の外という表現からも明らかであり、この場合は「口」と意味が通じることとなると思われます。このように「戸」と「口」の意は近い場合もあることが分かります。
このように「口」が「人」の数ないしは「人」そのものを意味するのは、「捕虜」ないし「奴僕」を意味すると思われる「生口」という表現でも明らかです。
また、「高句麗伝」でも「口」が「人」の意(人の数の意)で使われているのがわかります。
「…建安中、公孫康出軍撃之、破其國、焚燒邑落。拔奇怨爲兄而不得立、與涓奴加各將下戸三萬餘口…」
「…其國中大家不佃作、坐食者萬餘口。」(以上「高句麗伝」)
このように「口」と「人」と「戸」が共通の意味を持って使用されている場合も考えられる訳ですが、「人」の数を表す場合は「口」という表記が多用されるようであり、「戸」で「人」そのものを表す事はないようです。
ところで、『魏志倭人伝』の「刑罰」の中に「妻子、門戸、宗族」と呼称されるものが出てきます。
「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。」
このように「妻子」とは別に「門戸」と「宗族」というものがあるとされ、各々その意義を考えると、「門戸」とはその字義から考えても、「妻子」の他、同じ「門」や「戸」(「と」つまり「ドア」)を共有する一つ屋根の下に住む「親兄弟」程度の範囲までを言うと考えられます。さらに「宗族」とは「血縁」を同じくする「親族」達(この場合は同居であるかどうかを問わない)を指すと考えられますが、いずれにしても個人がどの「門戸」に属するか、その「門戸」はどの「宗族」に属するかというような情報も「戸籍」として把握されていたと考えられます。
『旧唐書』の例では「高麗」と戦った際の「唐」の「太宗」の「詔」によれば「家」とは「主人」と「妻子」がいるところという認識であるようです。
「遂受降、獲士女一萬、勝兵二千四百、以其城置巌州、授孫伐音爲巌州刺史。我軍之渡遼也、莫離支遣加尸城七百人戌蓋牟城、李勣盡虜之、其人並請隋軍自効、太宗謂曰 誰不欲爾之力、爾家悉在加尸、爾爲吾戰、彼將爲戮矣、破一家之妻子、求一人之力用、吾不忍也。 悉令放還。」
つまりここでは「家」とは共に暮らす「夫婦」「親子」を意味するものとして使用されているものです。
後の「貧窮問答歌」を見ても「父母は 枕の方(かた)に 妻子どもは 足(あと)の方に 囲(かく)み居て」とされ、「夫婦」「親子」が同じ家に暮らしていると見られ、これが一般の「家」の実体ではなかったかと考えられます。
「戸」は制度としての「戸籍」の存在が前提の語であるわけですが、「戸」の把握の実態は上のように一室屋根の下にいるひとまとまりの人達を一つの「戸」として捉えるのが自然であり、また当然であったはずです。そう考えれば「家」と「戸」とはほぼその内実として異ならないことが予想されるものです。
※『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房)