前述したように『書紀』の「壬申の乱」記事と、『古事記』序文記事とは相違する部分が多く、これを「同一の事象」を記した別の史料とは考えにくいと思われます。この「両記事」の違いは『書紀』と『古事記』の「編集方針」の違いとか「表現方法」の違いというようなレベルではなく、この二つの記事は全くの「別物」であって、「別の時点」の「別の事象」を記したものではないかと考えるべきでしょう。
その考えをさらに補強するのが「八世紀新日本王権」の、「天智」とされる「近江(淡海)大津宮御宇天皇」への傾倒です。以下にいくつか上げてみます。
そもそも、この「序」が上表された相手である「元明」は「天智」の皇女です。それに対し「天武」は自分の夫である「草壁皇子」の父であるとされていますが、また「天智」の後継であった「大友」(元明の「異母兄弟」となる)を打倒して「即位」したものであり、そのような人物を(だけを)激賞するような「上表文」が有り得るのかというと大変疑問ではないでしょうか。
ある意味「元明」にとっては、「天武」という存在は「不本意」なものであったという可能性もあると考えられます。少なくとも「元明」にとって誰よりも「依拠」すべき存在であったのは亡き父である「天智」であったと考えるのは当然でしょう。
それは彼女だけではなく、「元明」の「即位の詔」や「聖武」の「即位の詔」などにも現れている、「八世紀」の王朝全体の意志であったと考えられます。
後にも述べますが、「八世紀」の「日本国王権」はその「皇位継承」の際に(「近江大津宮御宇天皇」(これは通常「天智」とされている))により作られた「不改常典」を継承することを宣言していました。これを知っていたはずの「太安万侶」が「天智」を賞賛するのではなく、「天武」を賞賛する上表文を提出したものとすると余りにも「不可解」であり、「無思慮」と言われるものでしょう。
つまり『続日本紀』によればこの時点の「新日本国王権」は、形の上では「持統」から「文武」への禅譲としながらも、拠るべき「権威」は「天智」に連なっているという、「変則的」な主張をしているのが分かります。つまり「倭国王権」の正統性、大義名分を「持統」から継承したこととなっているにも関わらず、その実「初代王」としては「天智」を戴いてることとなっているのです。
また「天智」が「造籍」させたとされる「庚午年籍」についても、「八世紀」の「文武朝」において「戸籍・計帳」の基準とするように、と言う「詔」が出されています。
「(大寳)三年(七〇三年)秋七月甲午。詔曰。籍帳之設。國家大信。逐時變更。詐僞必起。宜以庚午年籍爲定。更無改易。」
このように「天智」が造籍させたものを「基準」とすると言うこともまた、自らの権威を「天智」に求める姿勢の表れであると考えられるものです。
また、「天智」の手がけたものについて継続の意志が表明されます。それが「観世音寺」の建設です。
『続日本紀』には「元明」の詔として「観世音寺」の工事進捗を宣言していますが、そこでも元々「天智」の「誓願するところ」であり、工事が一度は始められながら停滞していたことが書かれています。
(以下続日本紀に書かれた「元明天皇の詔」)
「七〇九年」「慶雲六年」「二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺 淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月差發人夫專加検校早令營作。」
この「観世音寺」は「天智」がまだ存命中に「創建」されたものですが、工事途中で「天智」が死去し「近江朝廷」が滅亡した時点以降その進捗が停止されていたものです。それをかなり時間が経過した時点である「元明」の朝廷において再開しようというわけですから、「天智」への傾倒がなみなみならないことが窺えるわけです。
さらに『天智紀』の「近江令」の発布についても以下のように『書紀』の「編纂者」により「注」が書かれています。
「天智十年春正月己亥朔(中略)
甲辰。東宮太皇弟奉宣或本云。大友皇子宣命。施行冠位法度之事。大赦天下。『法度冠位之名。具載於新律令。』」
末尾の「法度冠位之名。具載於新律令。」とあるのは「八世紀」の「編纂者」の「注」と思われます。 つまり、この『天智紀』で出されたあるいは「出されるはずであった」「法度」「冠位」については「新律令」に載っているというのです。この「注」は当然この「編纂者」の感覚として「新」といっているわけですから「八世紀時点」のものと思われますが、その時点における「新律令」とは『大宝律令』を指すことは間違いないと考えられ、ここに「天智」の意志が反映されているということとなります。ここには「天智」に権威の根拠を置くという「八世紀」の「新日本国王朝」の意志が明確に示されています。つまり、新しく出された「律令」は今「日の目」を見たが、実はそれは「天智天皇」が元々作られていたものなのだと言う、ある意味「強弁」を弄しているわけですが、そこまでしても「天智」の権威を「絶対化」しようとする意志が見えるようです。
また以下の『続日本紀』の詔にあるように、「天智」の「崩日」は「八世紀」に入ってから「正式」に「国忌」とされています。
「(大寶)二年(七〇二年)十二月甲午。勅曰。九月九日。十二月三日。先帝忌日也。諸司當是日宜爲廢務焉。」
ここでは「天武」の「崩日」(九月九日)についても「忌日」としていますが、「天武」の「崩日」はそれ以前から、既に『書紀』に「国忌」とすると書かれています。
「(朱鳥元年)(六八六年)九月戊戌朔…丙午(九日)。天皇病遂不差。崩于正宮。」
「(持統)元年(六八七年)九月壬戌朔庚午(九日)。設國忌齋於京師諸寺。」
「(持統)二年(六八八年)二月…乙巳。詔曰。自今以後。毎取國忌日要須齋也。」
この記事から理解されるように「天武」の「崩日」は以前から「国忌」とされていたものであり、その日は「詔」にもあるように今後「毎年」「斎」く事が決められていたのです。
つまり、この時点までは「天智」に関しては「国忌」とされていたわけではなく、「八世紀」の「新日本国王朝」になって初めて「国忌」とされたわけであり、この「詔」が出されたのは「十二月甲午」とありますから、「十二月二日」と推定され、これは「詔」の中で規定されている「十二月三日」という「天智」の「崩日」の前日となります。このことは「天智」の「崩日」を「急いで」「国忌」として定めたことが推量され、この後間もなく「持統」が死去する事から考えて彼女の「遺言」であったと思われます。
つまり「八世紀」「持統」から「文武」へと禅譲された後の「新日本国王権」において「天智」は「先帝」とされ「それまでとは違って」特別な存在として扱われ、重大視されることとなったものと見られます。(後にそれはさらに推し進められ「桓武」「嵯峨」両天皇の時代には「天武」の「崩日」が国忌から外され、「天智」と彼に関わる子供達だけが国忌の対象となります。)
以上より「八世紀」に入ってから「王権内部」の共通な「認識」が変化し、新たに「天智天皇」に対する「畏敬」の対象とすることが形成されたことが推定されますが、『古事記序文』がそのような時期のそのような雰囲気の中で書かれたとすると、そのことが『古事記』の記述に現れていないとは考えられず、その「序」に書かれるべき人物は「天智」でなければならなかったはずと思われるわけです。
(この項の作成日 2012/05/12、最終更新 2016/08/21)(旧ホームページ記事の転載)