古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

40万ページビューを超えて

2020年02月01日 | 古代史
ふと気がつけばアクセス数(ページビュー数)が40万を超えていました。大変ありがたく思います。
熱心に見てくださる方々がいらっしゃるようで感謝します。
今後ともよろしくお願いいたします。

別の話になりますが、現在中国で新たな感染症の発生と蔓延が起きているようです。それに伴い発生源の地域から各地へ避難する人々が多数発生している模様です。この状況を見ていて以前「卑弥呼」の王への即位の理由について書いたことを思い出しました。
以前書いた中では「祭祀」を専らとするような人物の即位は通常の統治では解決できない「社会不安」があったからであり、最も考えられるのは「疫病」の蔓延であろうとしました。
当時の宗教は「現世利益」を謳っていたものであり、そこで行われる「祭祀」の主宰者(司祭)の存在意義として、「病気治療」もあったものです。ただ「卑弥呼」の場合はそのような「ローカル」なことだけではなく「社会全体」に影響力を持っていた存在であったようであり、『倭人伝』には「王」となってからは一般からは見られなくなったらしいことが記されていますから、以前から著名な人物であったことが窺え、そのことが「王」に選ばれるに当たり重要な要素であったことが知られます。
「疫病」に対してもちろん「祈祷」が主体の「呪術」を行ったであろうと思いますが、他方「実務」を担っていた「男弟」はもっと効果的で現実的な方法を選択したものと思われ、そのミックスとして「境界祭祀」つまり他の地域へ移動する際に「祓え」を行う義務を課すなどの施策を行ったのではないかと推測します。これが後々『書紀』の中で「幸徳」が発した詔として「やめるべき」とされた「因習」の元となったと推測しました。
また、当時そのような「疫病」の発生源(地域)として「後漢」を想定したものであり「黄巾の乱」「五斗米道」などの新宗教とそれを掲げた反乱の原因として「疫病」(後漢書や三国志では「疫癘」と書かれ、その内容が致死率が高いものであったことが窺えます)があったことを推定しました。そしてその際に「半島」や日本列島へと移動(避難)した人々がいたであろうと思われるわけですが、中には「キャリア」つまり無症状の方々もいたことが推測でき、結局移動した先でも「疫病」が発生することとなったものではなかったでしょうか。もし感染した人が全員発病するとした場合、当時長距離移動に時間がかかることを考えると、潜伏期間(長短はあるものの)内に列島まで来るとは考えられず、無症状のキャリアがその感染源として想定できるでしょう。
流行性や伝染性の病気は基本的に外から持ち込まれて初めて発生するものと考えられますから、「疫病」が蔓延したとすれば列島以外から流入した可能性が強いと思われますから、この当時も列島の人々には「免疫」などもまったくなかったと思われ、爆発的に病気が広がったと推定でき、当時の医療技術から考えてその拡大を抑えるのは困難であっただろうと思われるわけであり、そこで「卑弥呼」の出番となったものではなかったでしょうか。
以上については以前記事として書いていますのでご参照ください。

https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/0e7afbab37331e1da5670d5dbf8935f9
https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/b00575eaa5dd303dfae2ad5d9a079fa7
https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/40464c961169c1378203e40cdc03b2ea
https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/cc2416229588e5659cfaddbdcb43c70a


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