古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

大宰府政庁遺跡の規模の変遷と官僚制度

2020年01月05日 | 古代史
 「大宰府政庁」については現在地上に見える礎石の下に同じような配置の礎石が確認され、さらにその下層に「掘立柱建物」の柱穴があり、計「三期」に及ぶ遺構であることが明らかになっています。しかも「第Ⅱ期遺構」は「条坊」と「ずれている」事が判明しています。
 例えば「朱雀大路」は最終的に「政庁第Ⅲ期」段階で「条坊」の区画ときれいに整合する事となりますが、それ以前の「朱雀大路」は「条坊」と明らかに食い違っているのです。(「政庁中軸線」の延長が「条坊」の区画の「内部」を通過しています)これは「条坊」区画が既に存在しているところに「政庁中軸線」を「別途」設けたために、既存条坊とずれてしまったとみられています。(この事は当然当初の「朱雀大路」は別にあったと言う事になります。)
 つまり「大宰府政庁第Ⅰ期」は条坊と整合しているというわけですが、それは少なくとも「掘立柱建築」という初期段階で条坊があったことを意味します。さらにそれ以前に「プレⅠ期」とでもいうべき時期があり、その時点では「都城」の中央部付近に「宮域」が設けられたという可能性が指摘されています。(それは「藤原宮」との類似からの推論のようですが)
 上にいういわゆる「大宰府政庁(第Ⅰ期)」(筑紫都城)は「七世紀」の始めに整備されたと考えられていますが、その時点以前にも「宮域」が存在していたものと思われ、それは「都城」の「北端」にはなく、中央部付近にあったものと考えられています。
 その後「倭国」においても「隋」から新しい「宮域」のあり方についての知識を得たものと思われ、それによって「宮域」を「条坊」の北端へ移動することとなったとみられるわけですが、その際「隋制」により「度量衡」と「歩-里」という体系についても見直しが行われた可能性があります。これらを反映したものにより再設計が行われたものと見られ、その結果それ以前の条坊と「食い違い」が出たものと思料されるわけです。
 「六世紀終わり」という時期に「隋」との交渉により「七弦琴」を含む「楽制」や「納音」が導入されたと見たわけですが、さらに「寺院」に不可欠の「鐘」(梵鐘)が「隋」から導入されたとみられ、この「音階」が「度量衡」と密接な関係があったということは重要です。つまり「倭国」の「度量衡」の体系が「音階」の改定と共に変更となったとしても不思議ではないこととなります。
 その後「難波」に宮殿が建てられますが(「前期難波宮」)、その「難波宮殿」は「掘立柱」に「板葺き」という旧来の形式を採用しています。但し「難波都城」の「北辺」に位置していると考えられ、これは「北朝形式」ですから、「大宰府政庁」(筑紫都城)と同じ形式として建設したものと思料されます。つまり、この「難波宮殿」の整備に先行して「筑紫」において「都城整備」が始まり、その中で「中心域」に存在していた「宮殿」を都城の「北辺」に移動する事業を断行したものと推察されます。
 この「整備」は「隋制」に倣うとともに都城域の拡大を目指したものであり、当初の広さの「四倍」程度に拡大したものと考えられます。このように規模を拡大するにはそれなりの理由があったものと推定され、もっとも考えられるのは「官僚組織」の充実でしょう。つまり官衙が充実するとその近辺に官僚の住居が必要ですが、それを確保するためにより広大な都城域が必要となったものではないでしょうか。

 「古田史学の会」の服部氏の論(※2)によっても官僚組織の規模と都城域の広さには関係があると指摘されていますから、それを考慮するとこの時期の都城域拡張は「官僚制」が充実したことを示しますが、「官僚制」が「律令制」と深い関係があることは明白ですから、この時点付近で「律令制」が施行されたことを背景としているとみるのが相当です。
 「六世紀末」付近で倭国王の統治領域が広がったとすると当然それに必要な人員がこの時点で増員されなければなりません。中央官庁の充実が図られるということは、それに必要な人員に割り当てる住居も増加したことにならざるを得ず、結果として都城域を拡充することになったものと思われます。
 『書紀』で「冠位」の変遷をみるとそれまで「冠位」が行われていなかったとみられる時点以降「十二階」となりその後「十三階」の上下二段階の計二十六階となります。また『隋書たい国伝』によれば「内官」つまり「京域」の官人の組織として「十二等」あるとされており、また複数の人間がそれに充てられていたとされています。この「内官」の制度は「冠位」とは別の次元の話であり、「隋使」が訪れる以前からこの制度が「京域」(都城)中の官人に対して制定されていたものと思われ、それが「九坊四方」という中に配置されていたと思われるわけです。
 ただし「冠位」は「官僚」の実数を直接は意味しませんが、官僚の数が増加すると必然的に「冠位」の種類を増やす必要があったはずであり(指揮命令系統を明確化するためにも)、そのことは実際の職掌に携わる人間の数も相当な数になったものと思われ、この段階から急激に官僚組織が充実されていくことが窺われます。この時点で「官僚」に対し住居(土地)を割り当てる制度があったかは不明ですが、『隋書俀国伝』にいう「日が昇れば弟に譲る」とする「統治形態」であったという証言から考えると「日が昇る前」に出勤する必要があるわけですから、近くに住居がなければ間に合わないこととなるでしょう。(「難波京」でも同様に日の出とともに出勤することが求められていました)
 結局「京域」の内部に住居があったとみるよりなく、彼らに必要な数量の住居に供する土地を割り当てる必要が出てきたものと思われます。(当初の都城がモデルとしていたと思われる『周礼考工記』では「九坊四方」となっていますが、このサイズが実際の官僚組織の規模と合致していたかは別のことでしょうけれど)

(※1)井上信正「太宰府条坊区画の成立」考古学ジャーナルNo.588 平成21(2009年)年7月号
(※2)服部静尚「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」古田史学会報№150 2019年2月12日号

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