以下も以前投稿したものですがあちらこちら見てもほぼ触れられることのないポイントのようですから、改めて問題として提起することします。
従来あまり重要視されていないと思われることに、派遣された倭国からの使者が国内における政治体制を紹介したところ、「高祖」から「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件(『隋書俀国伝』における「開皇二十年記事」)があります。
「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」
ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。
「劉曠,不知何許人也。性謹厚,?以誠恕應物。開皇初,為平?令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾,各自引咎而去。…」(「隋書/列傳第三十八/循吏/劉曠」)
「元善,河南洛陽人也。…開皇初,拜?史侍郎,上?望之曰:「人倫儀表也。」凡有敷奏,詞氣抑揚,觀者屬目。陳使袁雅來聘,上令善就館受書,雅出門不拜。善論舊事有拜之儀,雅不能對,遂拜,成禮而去。後遷國子祭酒。上嘗親臨釋奠,命善講孝經。於是敷陳『義理』,兼之以諷諫。上大悅曰:「聞江陽之?,更起朕心。」賚絹百匹,衣一襲」(「隋書/列傳第四十/儒林/元善)
「華陽王楷妃者,河南元氏之女也。父巖,性明敏,有氣幹。仁壽中,為?門侍郎,封龍涸縣公。煬帝嗣位,坐與柳述連事,除名為民,徙南海。後會赦,還長安。有人譖巖逃歸,收而殺之。妃有姿色,性婉順,初以選為妃。未幾而楷被幽廢,妃事楷踰謹,?見楷有憂懼之色,輒陳『義理』以慰諭之,楷甚敬焉。…」(「隋書/列傳第四十五/列女/華陽王楷妃」)
いずれも「道理」を示しそれにより「説得」あるいは「教諭」しているものと見られます。これらの例から考えて「高祖」は「倭国王」の統治の体制として「道理」がないつまり「筋道」として間違っていると見たものと思われますが、それは「天」と「日」の関係を兄弟とし、その「天」を自分自身に見立てている点にあったでしょう。
中国的観点としては「天」とは「天帝」であり、「皇帝」に対応するものでした。ですから「倭国王」が「天」に自分自身を見立てているとすると「皇帝」と同格となってしまうわけです。もちろん「倭国」側にはその様な「対等」を表現する意図は(この段階では)なく「古代」から続く「天」(これは「夜」を意味するか)と「日」に対する意識を「統治」の実際に置き換えて表現しただけであったと思われ、それに何か問題があるとは考えていなかったものでしょう。これについては「高祖」は国交開始時点の段階であり、また絶域の夷蛮のこととして「訓令」により改めさせることに留めたものと推量されます。では、ここで行われた「訓令」とはいったいどのような内容を持っていたものでしょう。
そもそも「訓令」とは「漢和辞典」(角川『新字源』)によれば「上級官庁が下級官庁に対して出す、法令の解釈や事務の方針などを示す命令」とあります。ここでは「隋帝」から「倭国王」に対して出された「倭国」の統治制度や方法についての改善命令を意味するものと思われます。
「中国」の史書にはそれほど「訓令」の出現例が多くはありませんが、例えば『後漢書』を見るとそこに以下の例があります。
「建初七年,…明年,遷廬江太守。先是百姓不知牛耕,致地力有餘而食常不足。郡界有楚相孫叔敖所起芍陂稻田。景乃驅率吏民,修起蕪廢,教用犂耕,由是墾闢倍多,境?豐給。遂銘石刻誓,令民知常禁。又『訓令蠶織』,為作法制,皆著于?亭,廬江傳其文辭。卒於官。」 (「後漢書/列傳 凡八十卷/卷七十六 循吏列傳第六十六/王景)
ここでは「廬江太守」となった「王景」という人物が「廬江」の民に対して「養蚕をして絹織物を造るよう」「訓令」したというのですから、彼らに生活の糧を与えたものであり、これは厳しい態度で接する意義ではなく、何も知らない者に対して易しく教える呈の内容と察せられます。
また『旧唐書』の例も同様の意義が認められます。
「二月戊辰朔…丙子,上觀雜伎樂於麟德殿,歡甚,顧謂給事中丁公著曰:「此聞外間公卿士庶時為歡宴,蓋時和民安,甚慰予心。」公著對曰:「誠有此事。然臣之愚見,風俗如此,亦不足嘉。百司庶務,漸恐勞煩聖慮。」上曰:「何至於是?」對曰:「夫賓宴之禮,務達誠敬,不繼以淫。故詩人美『樂且有儀』,譏其?舞。前代名士,良辰宴聚,或清談賦詩,投壺雅歌,以杯酌獻酬,不至於亂。國家自天寶已後,風俗奢靡,宴席以諠譁?湎為樂。而居重位、秉大權者,優雜倨肆於公吏之間,曾無愧恥。公私相效,漸以成俗,由是物務多廢。獨聖心求理,安得不勞宸慮乎!陛下宜頒『訓令』,禁其過差,則天下幸甚。」時上荒于酒樂,公著因對諷之,頗深嘉納。」(「舊唐書/本紀 凡二十卷/卷十六 本紀第十六/穆宗 李恆/長慶元年)
ここでは「天寶」年間(玄宗皇帝の治世期間)以降「風俗」が「奢靡」(過度な贅沢)になり「宴席」において「ただ騒がしく」したりまた「音楽」に没頭するなどの様子が目に余るとし、そのような状況を「皇帝」が「訓令」してその行き過ぎを停めることができれば「天下」にとって幸いであると「諫言」したというわけです。
また以下の例では「隋」の高祖の言葉として、「弘風訓俗,導德齊禮」することで「四海」つまり「夷蛮の地」を「五戎」つまり「武器」に拠らず「修めた」としています。
「閏月…己丑,詔曰:「禮之為用,時義大矣。?琮蒼璧,降天地之神,粢盛牲食,展宗廟之敬,正父子君臣之序,明婚姻喪紀之節。故道德仁義,非禮不成,安上治人,莫善於禮。自區宇亂離,緜?年代,王道衰而變風作,微言?而大義乖,與代推移,其弊日甚。至於四時郊祀之節文,五服麻葛之隆殺,是非異?,?駁殊塗,致使聖教凋訛,輕重無準。朕祗承天命,撫臨生人,當洗滌之時,屬干戈之代。克定禍亂,先運武功,刪正彝典,日不暇給。『今四海乂安,五戎勿用,理宜弘風訓俗,導德齊禮,綴往聖之舊章,興先王之茂則。』…」(「隋書/帝紀 凡五卷/卷二 帝紀第二/高祖 楊堅 下/仁壽二年)
この例では「俗」を「訓」したとするわけであり、そこでは一般論として「綴往聖之舊章,興先王之茂則。」というようなことが行われたとされますが、当然各国ごとに個別の事情があったわけであり、対応もまた個々の国で異なったものとなったでしょう。「倭国」の場合は「兄弟統治」と思しきものが「遣隋使」から語られたことで、「統治」の方法と体制という重要な部分について「前近代的」と判断されたものと思われ、そのため派遣された「隋使」の役割として「国交」を始めた段階における通常の儀礼行為を行うことに加え、「統治」に関して「旧」を改め「新」を伝授するという具体的な方策を示すことであったと思われます。
ここでは「倭国王」は「天」に自らを擬していたわけですが、それはそれ以前の倭国体制と信仰や思想に関係があると思われ、「非仏教的」雰囲気が「倭国内」にあったことの反映でありまた結果であると思われます。確かに「倭国王」は「跏趺座」していたとされこれは「瞑想」に入るために「修行僧」などのとるべき姿勢であったと思われますから、「倭国王」自身は「仏教的」な雰囲気の中にいたことは確かですが、「統治」の体制として「天」と「日」の関係など「倭国」の独自性があらわれていたものです。それは「高祖」の「常識」としての「統治体制」とはかけ離れたものであったものであり、そのためこれを「訓令」によって「改めさせる」こととなったものと思われるわけですが、それは「統治」における「倭国」独自の宗教的部分を消し去る点に主眼があったものと推量します。
そもそも「改めさせる」というものと「止めさせる」というものとは異なる意味を持つものですから、単に「倭国王」の旧来の「統治形態」を止めさせただけではなく「新しい方法」を指示・伝授したと考えるのは相当です。
「高祖」は自分自身がそうであったように「政治の根本に仏教を据える」こと(仏教治国策)が必要と考えたものと思われ、そのために「最新の仏教知識」を東夷の国である「倭国」に伝えようとしたものではなかったでしょうか。そのため派遣された「隋使」(これは「裴世清」等と思われる)は「倭国王」に対して「訓令書」を読み上げることとなったものと思われますが、その内容は「倭国」の伝統に依拠したような体制は速やかに停止・廃棄し新体制に移行すべしという「隋」の「高祖」の方針が伝えられたものと思われ、その新体制というのが仏教を「国教」とするというものであったと思われるわけです。
「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」
ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。
「劉曠,不知何許人也。性謹厚,?以誠恕應物。開皇初,為平?令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾,各自引咎而去。…」(「隋書/列傳第三十八/循吏/劉曠」)
「元善,河南洛陽人也。…開皇初,拜?史侍郎,上?望之曰:「人倫儀表也。」凡有敷奏,詞氣抑揚,觀者屬目。陳使袁雅來聘,上令善就館受書,雅出門不拜。善論舊事有拜之儀,雅不能對,遂拜,成禮而去。後遷國子祭酒。上嘗親臨釋奠,命善講孝經。於是敷陳『義理』,兼之以諷諫。上大悅曰:「聞江陽之?,更起朕心。」賚絹百匹,衣一襲」(「隋書/列傳第四十/儒林/元善)
「華陽王楷妃者,河南元氏之女也。父巖,性明敏,有氣幹。仁壽中,為?門侍郎,封龍涸縣公。煬帝嗣位,坐與柳述連事,除名為民,徙南海。後會赦,還長安。有人譖巖逃歸,收而殺之。妃有姿色,性婉順,初以選為妃。未幾而楷被幽廢,妃事楷踰謹,?見楷有憂懼之色,輒陳『義理』以慰諭之,楷甚敬焉。…」(「隋書/列傳第四十五/列女/華陽王楷妃」)
いずれも「道理」を示しそれにより「説得」あるいは「教諭」しているものと見られます。これらの例から考えて「高祖」は「倭国王」の統治の体制として「道理」がないつまり「筋道」として間違っていると見たものと思われますが、それは「天」と「日」の関係を兄弟とし、その「天」を自分自身に見立てている点にあったでしょう。
中国的観点としては「天」とは「天帝」であり、「皇帝」に対応するものでした。ですから「倭国王」が「天」に自分自身を見立てているとすると「皇帝」と同格となってしまうわけです。もちろん「倭国」側にはその様な「対等」を表現する意図は(この段階では)なく「古代」から続く「天」(これは「夜」を意味するか)と「日」に対する意識を「統治」の実際に置き換えて表現しただけであったと思われ、それに何か問題があるとは考えていなかったものでしょう。これについては「高祖」は国交開始時点の段階であり、また絶域の夷蛮のこととして「訓令」により改めさせることに留めたものと推量されます。では、ここで行われた「訓令」とはいったいどのような内容を持っていたものでしょう。
そもそも「訓令」とは「漢和辞典」(角川『新字源』)によれば「上級官庁が下級官庁に対して出す、法令の解釈や事務の方針などを示す命令」とあります。ここでは「隋帝」から「倭国王」に対して出された「倭国」の統治制度や方法についての改善命令を意味するものと思われます。
「中国」の史書にはそれほど「訓令」の出現例が多くはありませんが、例えば『後漢書』を見るとそこに以下の例があります。
「建初七年,…明年,遷廬江太守。先是百姓不知牛耕,致地力有餘而食常不足。郡界有楚相孫叔敖所起芍陂稻田。景乃驅率吏民,修起蕪廢,教用犂耕,由是墾闢倍多,境?豐給。遂銘石刻誓,令民知常禁。又『訓令蠶織』,為作法制,皆著于?亭,廬江傳其文辭。卒於官。」 (「後漢書/列傳 凡八十卷/卷七十六 循吏列傳第六十六/王景)
ここでは「廬江太守」となった「王景」という人物が「廬江」の民に対して「養蚕をして絹織物を造るよう」「訓令」したというのですから、彼らに生活の糧を与えたものであり、これは厳しい態度で接する意義ではなく、何も知らない者に対して易しく教える呈の内容と察せられます。
また『旧唐書』の例も同様の意義が認められます。
「二月戊辰朔…丙子,上觀雜伎樂於麟德殿,歡甚,顧謂給事中丁公著曰:「此聞外間公卿士庶時為歡宴,蓋時和民安,甚慰予心。」公著對曰:「誠有此事。然臣之愚見,風俗如此,亦不足嘉。百司庶務,漸恐勞煩聖慮。」上曰:「何至於是?」對曰:「夫賓宴之禮,務達誠敬,不繼以淫。故詩人美『樂且有儀』,譏其?舞。前代名士,良辰宴聚,或清談賦詩,投壺雅歌,以杯酌獻酬,不至於亂。國家自天寶已後,風俗奢靡,宴席以諠譁?湎為樂。而居重位、秉大權者,優雜倨肆於公吏之間,曾無愧恥。公私相效,漸以成俗,由是物務多廢。獨聖心求理,安得不勞宸慮乎!陛下宜頒『訓令』,禁其過差,則天下幸甚。」時上荒于酒樂,公著因對諷之,頗深嘉納。」(「舊唐書/本紀 凡二十卷/卷十六 本紀第十六/穆宗 李恆/長慶元年)
ここでは「天寶」年間(玄宗皇帝の治世期間)以降「風俗」が「奢靡」(過度な贅沢)になり「宴席」において「ただ騒がしく」したりまた「音楽」に没頭するなどの様子が目に余るとし、そのような状況を「皇帝」が「訓令」してその行き過ぎを停めることができれば「天下」にとって幸いであると「諫言」したというわけです。
また以下の例では「隋」の高祖の言葉として、「弘風訓俗,導德齊禮」することで「四海」つまり「夷蛮の地」を「五戎」つまり「武器」に拠らず「修めた」としています。
「閏月…己丑,詔曰:「禮之為用,時義大矣。?琮蒼璧,降天地之神,粢盛牲食,展宗廟之敬,正父子君臣之序,明婚姻喪紀之節。故道德仁義,非禮不成,安上治人,莫善於禮。自區宇亂離,緜?年代,王道衰而變風作,微言?而大義乖,與代推移,其弊日甚。至於四時郊祀之節文,五服麻葛之隆殺,是非異?,?駁殊塗,致使聖教凋訛,輕重無準。朕祗承天命,撫臨生人,當洗滌之時,屬干戈之代。克定禍亂,先運武功,刪正彝典,日不暇給。『今四海乂安,五戎勿用,理宜弘風訓俗,導德齊禮,綴往聖之舊章,興先王之茂則。』…」(「隋書/帝紀 凡五卷/卷二 帝紀第二/高祖 楊堅 下/仁壽二年)
この例では「俗」を「訓」したとするわけであり、そこでは一般論として「綴往聖之舊章,興先王之茂則。」というようなことが行われたとされますが、当然各国ごとに個別の事情があったわけであり、対応もまた個々の国で異なったものとなったでしょう。「倭国」の場合は「兄弟統治」と思しきものが「遣隋使」から語られたことで、「統治」の方法と体制という重要な部分について「前近代的」と判断されたものと思われ、そのため派遣された「隋使」の役割として「国交」を始めた段階における通常の儀礼行為を行うことに加え、「統治」に関して「旧」を改め「新」を伝授するという具体的な方策を示すことであったと思われます。
ここでは「倭国王」は「天」に自らを擬していたわけですが、それはそれ以前の倭国体制と信仰や思想に関係があると思われ、「非仏教的」雰囲気が「倭国内」にあったことの反映でありまた結果であると思われます。確かに「倭国王」は「跏趺座」していたとされこれは「瞑想」に入るために「修行僧」などのとるべき姿勢であったと思われますから、「倭国王」自身は「仏教的」な雰囲気の中にいたことは確かですが、「統治」の体制として「天」と「日」の関係など「倭国」の独自性があらわれていたものです。それは「高祖」の「常識」としての「統治体制」とはかけ離れたものであったものであり、そのためこれを「訓令」によって「改めさせる」こととなったものと思われるわけですが、それは「統治」における「倭国」独自の宗教的部分を消し去る点に主眼があったものと推量します。
そもそも「改めさせる」というものと「止めさせる」というものとは異なる意味を持つものですから、単に「倭国王」の旧来の「統治形態」を止めさせただけではなく「新しい方法」を指示・伝授したと考えるのは相当です。
「高祖」は自分自身がそうであったように「政治の根本に仏教を据える」こと(仏教治国策)が必要と考えたものと思われ、そのために「最新の仏教知識」を東夷の国である「倭国」に伝えようとしたものではなかったでしょうか。そのため派遣された「隋使」(これは「裴世清」等と思われる)は「倭国王」に対して「訓令書」を読み上げることとなったものと思われますが、その内容は「倭国」の伝統に依拠したような体制は速やかに停止・廃棄し新体制に移行すべしという「隋」の「高祖」の方針が伝えられたものと思われ、その新体制というのが仏教を「国教」とするというものであったと思われるわけです。