すでに述べたように「筑紫」地域が最初に「縄文」から「弥生」という時代へ移行したものと見られることから、常に「筑紫」が文化的先進地域であり、また「稲作」を中心とした「国力」も群を抜いていたと思われますが、この「弥生中期」(BC5世紀頃)には「瀬戸内」から「近畿」にかけての地域においても「稲作」が開始され、国力が豊かになり始めていたものと思われ、先行していた「筑紫」の力が相対的に低下していたということが考えられます。
しかし、「瀬戸内」を中心とした地域に天変地異が襲ったとすると、国内の力関係は(再び)「筑紫」に偏る結果となったのではないでしょうか。
今回の熊本を中心とした地震においても「筑紫」地域では地震被害はそれほどではなかったものですが、この弥生中期の「中央構造線」を震源とした地震による被害においても同様ではなかったかと思料され、そのため「倭」領域は全体として「筑紫王権」の影響下に(再び)深く入り込むこととなった可能性が高いと思われます。
その頃の「筑紫王権」(それは「北部九州」に中心があったものと思われ、「奴国」の前身としての国がその中心にいたと思われますが)は「周」あるいは「秦」などの中国との関係を深めていたものであり、その結果「強力」な王権が発生していたものです。その彼らの墓制が「方形周溝墓」であったと思われるわけです。
「筑紫」の勢力はこのとき「中国」から当時最新の武器であった「青銅器」(この場合銅剣)を入手したことにより、それを前面に押し立てて国内への圧力と発言権を高めたものであり、「瀬戸内」を含めた領域に「銅剣」の分布が見られるのはそのことを示すものと思われます。その結果おおよそ「関東」まで含めて全て「筑紫王権」の影響下に入ったものとみられるのです。
ただしその影響は実際の政治までには及ばず、各国共通あるいは統一した政策のようなものはなかったと思われますが、墓制を共通化することにより「葬送祭祀」という古代において重要な儀式の際に「筑紫王権」の介在(直接あるいは間接)を可能としていたものです。
中国における「周」の古制も同様であり、「周」は「力」で制圧しているわけではなく「徳」を慕って諸国はその統治下に入っていたものです。
「周」が敷いていた「封建体制」は諸国の王を「候王」とし、その頂点に「天子」としての「王」がいるというものであり、「文王」や「武王」に示される「王」は「天子」の意義を持つものであったのです。
当時の「倭」が「周制」を模倣していたというのは『後漢書』に書かれた「派遣された倭人が自ら大夫と称した」という記事から明らかですが、そのように「倭人」が「周制」を模倣したとすると、国内に「封建体制」の構築を企図したと思われます。それはまたその時点で「筑紫」に始めて「王権」と呼べるものが発生したことを意味していると思われ、その「建国」がこの時点であったとも言えるものです。つまり、これは「神武神話」の実態が成立した時期に相当するものではないかと推察されることとなるでしょう。(このような「王権」の発生等政治力学的変化というものは往々にして「外力」つまり域外からの勢力の侵攻などや天変地異という一種突然変異的要因がその背景にあることが推測され、この場合も同様ではなかったかと考えられるわけです。)
そして、『書紀』による「神武紀」を見てもこの時点での「倭人」達の盟主は筑紫にいたことは明らかであり、またそれは「弥生」の始め以来変わらなかったと思われるものです。
つまり、「神武東侵」そのものの実年代は二千年前の巨大津波来襲以前のことであったと考えられ、紀元前四~五世紀付近のことではなかったかと考えられますし、「近畿」以東に「方形周溝墓」が伝搬するのもこの時期以降のことではなかったかと考えられます。