古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「薩耶麻達」の捕囚場所について(続き)

2013年10月05日 | 古代史

 「大伴部博麻」と「薩耶麻」達の捕囚となっていた場所についての考察の続きです。

 彼らの捕囚場所と関係していると考えられるのが「斉明紀」に書かれている「斉明」の「軍派遣の詔勅」です。

「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。紓彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」

 ここに書かれた「翦其鯨鯢」とは「鯨」や「サンショウウオ」などになぞらえられた「敵」を切り捨てる(倒す)ということを示しますが、「李白」の「赤壁歌送別」という詩にもあるように「鯨鯢」は「海」や「大河」に住む「大魚」の一種とも考えられていたようです。

「二龍争戦决雌雄,赤壁楼船掃地空。/烈火張天照云海,周瑜于此破曹公。/君去滄江望澄碧,鯨鯢唐突留餘迹。/一一本来報故人,我欲因之壮心魄。」

 このように基本的にはこれらの「動物」(怪物)は「海」に棲息しているとされ、このことから「海」が戦いの場であることが想定されているようです。
 また、同様に文中に登場する「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地であることを想定すると、この時の「倭国軍」は直接「新羅」の本国を攻撃する意図を持っていたことが判ります。つまり、「百済」に向かったのではなく、「新羅」そのもののを攻撃する作戦であったと思われるのです。
 この「詔勅」により戦いが始められたとすると、「書紀」に書かれた「阿曇連」「阿部臣」の両者が将軍となっている派遣軍は実は一旦「新羅」に向かったと言うことが言えそうです。そして、それは「水軍」だけで行われたものであり、「上陸」作戦ではなかったと思料されます。しかし、「書紀」にはこの戦いの情景が活写されていません。あくまでも「戦いの場」は「百済」であったかのように書かれています。これは「百済再興」という目的ならば首肯できるものですが、「百済支援」というのであれば「新羅」本体を攻める方が道理にかなっています。つまり「斉明」によるとされる「発遣の詔勅」の目的は「百済再興」ではなく、「百済支援」であり、そうであれば「唐」と「新羅」の攻撃にさらされていた時点が最もふさわしいと思われます。これが一年後であり、また「扶余豊」を「百済国王」にするためという目的であるなら、違和感はぬぐい得ないものです。
 このため、戦略的「効果」としては薄いものになったと見られ、この後再度今度は「阿曇連」だけを大将軍として同様の戦いが行われます。

「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」

 この記事では「百済」に向かったように読めますが、少なくとも一部については「新羅」へ向かって「背後」を衝く作戦が行われたと見られます。(前回の作戦の意図を生かすため)
 この時は「阿曇連」の水軍が主体で戦うというより、「地上戦闘員」を多数擁していたと見られ、そのかなりの部分が「新羅」へ向かったものと思われ、彼らにより「上陸」作戦が敢行されたと見られますが、その中に「倭国王」も「親征」したものと考えると、彼とその周辺の人物達が一斉に「捕囚」となったとした場合、それは「新羅」の地であったという可能性が高いでしょう。
 そして「百済」が「唐」「新羅」の連合軍に敗れた後、彼ら(連合軍)は「旧百済」の首都であった「熊津」に「都督府」を設置しました。それに伴い、「薩夜馬達」は「重要人物」と言うこともあり、「新羅軍」の手に落ちた後は「旧百済国内」のどこか(「熊津都督府」からそう遠くない場所と思料される)へ移送され、「都督府」の監視下に置かれていたのではないかと推測されます。つまり、「唐軍」ではなく実質的には「新羅軍」の「捕囚」となったというわけであり、そうであれば「唐国内」まで連行されたとは考えにくいこととなるでしょう。

 このように「旧百済」の国内で「捕囚」生活を送っていたと考えられるわけですが、この時「帰国費用」を「博麻」に「貸し付けた」(形としてはそうなる)人は、彼ら「博麻達」の立場や思惑、心情などを「知っていた」(分かっていた)ものと推察され、彼らに「同情的」な人物であったのではないかと考えられます。
 「百済」は元々「倭国」と深い関係にあり、これらのことは「博麻」に対して「融資」に応じ、帰国に要する費用を立替えた人物は「旧百済」関係者と推測され、彼は「百済」の「富貴層」に属する人物で、何らかの形で「倭国」と「関係」の深かった人物であったという可能性を想定させます。(「熊津都督府」の経営はもっぱら「旧百済国人」がこれに当たっていたとされることもこれを裏書きするものです)

 この「百済を救う役」とそれに引き続く「白村江の戦い」では推定で「総計七万四千人」という多数の「倭国人」が派遣されたものと考えられ、そのうちのかなりのものが戦死し、(多くは海戦での死者と考えられます)また、戦後一部のものについては帰国できたものの、かなりの数の人間(数千人以上ではないか)が「捕虜」となったものと思料されます。
 これだけ多数の「捕虜」が発生すると、彼等を一時的に収容する場所も複数必要となると考えられ、その中には「唐」まで連行されたグループもいたのではないかと思料されます。
 その後、倭国との戦争状態が六七〇年代に終結したことを受け、その時点で「熊津都督府」の管理下にあった捕虜は解放されたものと見られますが、半島情勢がその後大きく変化し、「旧百済」の地であった「熊津都督府」も「新羅」に制圧されるところとなるなど、新羅」が「唐」を追い出して半島全体を支配する構図となったため、「唐」に連行されたグループの中には「帰国」が出来なくなったものもいたものでしょう。
 もちろん「衣糧」ないし「旅費」を持っていた「遣唐使」などはその一部のものが「新羅」経由で帰国できたものもいたようですが、全体としては帰国が大幅に遅れたものです。
 しかし、「旧百済」の地に「収容」されていたグループの大多数はその後「帰国」出来たものと考えられ、「百済」からであれば、「倭国」ともそれほど遠距離ではありませんし、人身売買に関する規定についてもこの「百済」まで及んでいなかったとも考えられ、(「唐律」を百済が受容していたとも考えられません)「博麻」のように「身を売って」旅費を稼ぐというようなことも可能であったものと考えられるものです。

(続く)

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