古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊勢」と「神風」(再度)

2024年02月23日 | 古代史
前回からの続きです

「伊勢」と「神風」

 「難波副都」の時代(白雉年間)に(特に東国に)「神社」が創建されている例が多く確認されています。たとえば、茨城県、福島県、埼玉県、千葉県、愛知県、東京都、富山県、福井県、長野県等々の神社の由来や縁起を記した文書にこの時代の創建が書かれている例が散見されます。
 このように「難波朝」の「白雉」年間の創建と伝える「神社」「仏閣」が多数に上るわけですが、その「神社」の「祭神」とされているものを見ると「保食神」あるいは「宇迦之御魂神」つまり「稲荷大神」としている場合が相当数あります。「保食神」と「宇迦之御魂神」は『古事記』に出てくるか『書紀』に出てくるかの違いであり、ほぼ同一神格と考えられます。

 「古田史学の会」のホームページ資料による「白雉年号」を記す社伝などを有する神社の中で、①「宇迦之御魂神」(倉稲魂神)(保食神)を祭神としている神社は以下の通り
市原稲荷神社(愛知県刈谷市)、岡田神社(長野県松本市)、鵜坂神社(富山県婦負郡)、椿郷祇園社(山口県萩市)、細田神社(兵庫県美嚢郡)、岡神社(滋賀県坂田郡)、笠間胡桃下稲荷神社(茨城県笠間市)

続いて②「宇迦之御魂の神」の近縁である「素戔嗚尊」ないしは「大国主」あるいは「味鋤高日子」を祭神としている神社は以下の通り
山邊神社(島根県江津市)、老松神社(山ロ県防府市)、生石神社(兵庫県高砂市)、石都々古和気神社(福島県石川郡)

 このように「難波」に副都を設けたときに行なわれた「神社改革」の「目玉」(主たる要点)は、「伊勢神宮」の祭神を全国(特に東国)に拡大し、「伊勢神宮」を頂点とする「国家祭祀」体系を形作ることにあったものと考えられます。それを進めたのが「伊勢王」であると思われます。
 「伊勢王」はその名の示すとおり、元々「伊勢神宮」のある「伊勢」の地の王であったと考えられます。
 「伊勢」という地名が「伊勢神宮」という「宗教的」建物・組織と連結して考えられるようになるのは「中世」以降であり、それ以前は通常の感覚としての地名としての「伊勢」というものが「別」にあり、これに対する「美称」ないしは「畏称」としての「神風」がまず存在していたものです。つまり「伊勢」が「伊勢神宮」となるに及んで、「神風」は「神」の「風」となったのです。この事は、論理的帰結として「伊勢」が「ただの」「伊勢」である時代があり、「神風」は単に「風が強い」という以上の意味がない時代があったことを示します。その後「宗教的意義」が「後年」発生したものと考えられるのです。
 ところで現在時点においても全国各地に「伊勢」という地名あるいは「島」「山」「川」などの名称が存在しています。その淵源を詳細に見ていくと特に古い淵源を持つものは殆ど全て「出雲」と深い関係があることが推察できます。
 そもそも既に見たように「倭国」における王権の発生は、「弥生」の原初としての中心が「出雲」にあったと考えられ、この王権を「倭王権」と呼びます。それはこれ以外に「倭王権」と言えるものはないからであり、他の諸国は「遅れて」王権が発生するものであり、通常では決して「倭王権」と言いうる「代表的権力」とはなり得ないのです。
 しかし「紀元前後」の大地震と大津波という天変地異を経て、権力中心は「出雲から「筑紫」へと交代しました。(させられました)
 さらにその後「古墳」の分布と形式の解析からは「古墳」時代が始まってすぐにその発展の中心地は「筑紫」から「肥後」に移るのがわかります。このことは「弥生」時代が終わり「古墳時代」になると「倭」の中心は「肥(後)」に移りそれが継続したと言う事ができるでしょう。
 つまり、古代において「日本全体」が統一されていない時点では、「倭」とは「九州」を指し、「倭の五王」の「根源」は「肥(後)」にあったと考えられますから、この「神風」の吹く場所である「伊勢」も「肥(後)」の中で考えるべきこととなります。
 つまり元々「出雲」と関係していた「伊勢」という地名はその後「筑紫」に移り、更に「肥後」へと移動したと見るべきことを示します。
 いずれにしても「神風」の使用例が確認される最古のものが「記紀歌謡」であり、この「記紀歌謡」というものは「弥生」から続く伝統のあるものと考えられますが、そうであれば「弥生」の中期以降の中心であった「九州」を抜きにしては考えられないこととなります。
 たとえば『古事記』の中には「神武」が「近畿」へ侵入する際に歌われる「久米歌」などの中に以下の歌があります。

「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻おり 撃ちてし止まむ 」

(原文の万葉仮名)
「加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜痲牟」

 この歌は「弥生」以来の伝統を持った「歌謡」であることは間違いないものと思われますが、その中に「伊勢」が出てくるわけです。上の思惟進行によればこの「伊勢」が「三重県」の「伊勢」でないことは確かです。「久米」は「神武」達に追随して九州からやって来た勢力と理解されますから、彼らの「民謡」とでもいうべきものに詠われている「伊勢」が「九州」に関係していると考えるのは当然ともいえるでしょう。
 「現在」の「伊勢」の地は、この時の「神武」の進行ルートとは何の関係もありません。その「周辺」でさえないのです。また「伊勢神宮」とこの歌との間にも何の関連も考えられません。つまり、単純に「神風」と「伊勢」という地名が連結していると言うだけの歌なのです。
 彼が当初出発地とした地は「九州」であり、そこが「倭」であり、またその「中心」は「肥」であったと考えれば、「伊勢」も「肥」にあり、そこには「神風」が吹く、と言う「論理進行」とならざるを得ません。
 つまり、「伊勢」が元々「肥」の地名であるということとなると、「伊勢の海」とは「肥」の対面する海である「八代海」(ないしは「有明海」)の事を指していると考えざるを得ないこととなるでしょう。つまり「枕詞」的用法(美称ないし畏称)としての「神風」が発生・成立したのは「肥」においてである、と考えられることとなります。
(古田氏によれば「伊勢は筑紫にある」とのことですが、上に見たように「神武」の東進段階では「倭国」の中心は「筑紫」から移動して「肥」の国にあったと考えられ、そのことから考えると更にそれ以前は「筑紫」に「伊勢」が存在していたとみられるわけです)
 また、「雄略紀」の中にも同様の「神風」と「伊勢」とが連結された「歌謡」があります。

「神風の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝を 五百経る懸きて 其が尽くるまでに 大君に 堅く 仕へ奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠はや あたら工匠はや」

(原文の万葉仮名を表示します)
「柯武柯噬能。伊制能。伊制能奴能。娑柯曳鳴。伊褒甫流柯枳底。志我都矩屡麻泥爾。飫褒枳濔爾。柯?倶都柯陪。麻都羅武騰。倭我伊能致謀。那我倶母鵝騰。伊比志■倶彌■夜。阿■羅陀倶彌■夜。」

 ここに出てくる「伊勢」がどこなのかははっきりしませんが、少なくとも「伊勢神宮」と「神風」という言葉が関連づけられているわけではなく、ここでも明らかに「伊勢」という「単純地名」との連結として表現されていると思われます。
 「伊勢王」はその名前からして、倭国の「旧都」である「肥」の地である「伊勢」に自身の「本拠」を構えていたものと考えられ(菊池川上流に存在する「鞠智城」がその痕跡かもしれません)、それは一種の「封国」であったという可能性もあるでしょう。そして、彼が「倭国王」となった時点で「封国名」である「肥」を「倭国」の名称として「日(肥)本」として採用したと言う事も考えられます。
 そして外交の前線であり、首都である「筑紫」が危険地帯になったと判断して「難波副都」を設け「遷都」を実行したものではないでしょうか。それに伴い、旧都の地である「肥」から「伊勢神宮」を移設したものと思われます。  
 「熊本県菊池市」にある「木柑子フタツカサン古墳」出土の「銀象嵌『鍔』」と「三重県伊勢市」の「南山古墳」から出土した同様の「銀象嵌『鍔』」は、「双生児」の如くに酷似していることが確認されています。その形状、象嵌技法と技術などが「瓜二つ」であり、また共に「六世紀後半」という時代推定がされていることなどから、「同一工房」によるという可能性が示唆されています。つまりこの二つの古墳の主には「深い関係」があることが「強く」示唆されるわけですが、それが「伊勢」という地名で連結されているように見えることも重要でしょう。
 上に推定したように元々「伊勢」は「肥(後)」に存在した地名であると考えられ、それがその後「伊勢神宮」の「移転」(「遷宮」と言うべきでしょうか)に伴い、現「伊勢」の地に移動したものと推察されるものです。
 この「六世紀後半」という時期は、「磐井」の後継王者が「物部」から「筑紫」を奪回した時期でもあり、「倭国王」はそれまで「肥(後)」から「国内」を統率・支配していたものと思料しますが、そのような統治構造の中にこの「南山古墳」の主などのような「存在」もあったものと思料します。(ただし「南山古墳」はいわゆる「装飾古墳」ではないようです。この事は「南山古墳」の被葬者は「倭国王」の「血縁縁者」ではないものと考えられるところであり、彼から「負託」を受けた「倭国将軍」の一人であったものと思料します)」
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「伊勢王」とは(2)(再度)

2024年02月23日 | 古代史
前の投稿で「伊勢王」に関する考察を行いましたが、改めて考えてみます。
 『孝徳紀』によると「白雉改元」儀式の際に「執輿後頭置於御座之前」、つまり、「白雉」が入った籠が乗った御輿を担いで「天皇」と「皇太子」の前に置く、と言う重要な役どころで「伊勢王」という人物が登場します。

 (以下白雉献上の儀式)
「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」

 輿は担ぐ際には左右対称な人数が担がなければ安定しないわけですから、必ず「偶数」となるはずです。しかし、記事によれば「殿前」までは確かに「四人」で担いできたにも関わらず、「御座の前」まで持ってきたときには「五人」になっています。(前左右が「左右大臣」、後ろが「伊勢王。三國公麻呂。倉臣小屎」の三名です)
 つまり、「輿」の後ろを担ぐべき人間の数が一人多いと考えられます。この後ろを担いでいる三人の内「三國公麻呂」はその前から担ぎ続けているため、この時点で新たに後ろ側の担ぎ手となったのは「伊勢王」と「倉臣小屎」の二人です。このどちらかが「余計」であると考えられるわけであり、それは「伊勢王」ではなかったかと考えられるものです。
 「余計」な人物を書き加えている、ということは、その人物が「重要」で意味のある人物である証拠です。そういう意味では「倉臣小屎」は『書紀』の中にはここ以外には全く出てきませんし、何の事績も書かれていません。このような人物をわざわざ書き加える理由がなく、彼が「余計に」追加させられた人物であるはずがないこととなります。つまり、追加させられた人物は「伊勢王」である可能性が強いこととなります。
 このことは「伊勢王」が輿を担いでいる、と言う事を強調したいがために(別の言い方をすると「輿を担ぐ身分である」と言うことを強調するために)「改変」されたものと考えられます。にも関わらず「死亡記事」(天智紀)では「未詳官位」とされており、これらの情報が欠如している(書かれていない)のは明らかに不審であり、「意図的」なものと考えられます。
 この『孝徳紀』からおよそ三十年離れた『天武紀』にも「伊勢王」に関連する記事が多く書かれています。この『天武紀』は「八世紀」に入ってから「付加」された部分とみられ、その内容は『孝徳紀』からの切り貼りであることが強く推量されます。つまり、「伊勢王」も本来は「白雉改元」の儀式で判るように「孝徳朝」の人物であったと見られるわけです。
 これを裏付けるのが「威奈大村」の「骨蔵器」に書かれた文章です。これは「壬申の乱」に登場する「伊那公高見」という人物の「子」に当たると思われる人物に関わるものと考えられていますが、「七〇七年」に埋葬されたことがその「骨蔵器」に書かれたものであり、ほぼ同時代資料と思われ、信頼性は高いと思われます。

「卿諱大村檜前五百野宮/御宇 天皇之四世後岡/本宮聖朝紫冠威奈鏡公之/第三子也卿温良在性恭/倹為懐簡而廉隅柔而成/立後清原聖朝初授務広/肆藤原聖朝小納言闕於/是高門貴兜各望備員(スペース)/天皇特擢卿除小納言授/勤広肆居無幾進位直廣/肆大寶元年律令初定/更授従五位下乃兼侍従/…以慶雲四歳在丁未/四月廿四日寝疾終於越/城時年?(四十)六■其年冬/十一月乙未朔廿一日乙/卯帰葬於大倭国葛木下/郡山君里狛井山崗天■/…」

 これで見ると「威奈大村」は「七〇七年」で「四十六歳」であったというのですから、生年は「六六一年」となります。(日付から考えると「七〇七年」という年次には間違いがないと思われるため)
 また彼は「三子」とされますから、「父」である「威奈鏡公」はこの「六六一年」当時いわゆる「壮年」であったと思われ、四十歳前後ではなかったかと考えられますが、彼は「白雉改元」の儀式の際に「輿」を担いでいる「猪名公高見」と同一人物という説もあります。それが正しければ、「白雉改元」儀式は「六五二年」とされますから、この当時「威奈鏡公」という人物はその時点で三十歳程度と思われ(もしこれより若かったとしても「二十代前半」より若くはないと思われます)、年齢に関する点はそれほど不自然がありません。
 そもそも「猪名(伊奈とも)公」は『書紀』では「多治比王」と共に「宣化天皇」の「玄孫」とされており、「血筋」は卑しくなく、このような華やかで重要な儀式に参加したとして何ら不思議ではないと考えられるでしょう。
 その「猪名公高見」と共に「輿」を担いでいるのが「伊勢王」なのですから、彼もこの「猪名公高見(威奈鏡公)」と同時代を生きた人物であり、「孝徳朝期」に存在した人物であることは間違いないと考えられます。
 そう考えると、『天武紀』の「伊勢王」関連記事には明らかな「記事移動」があると考えなければなりません。
 また『天武紀』には以下の記事もあります。

「(朱鳥)元年(六八六年)…
九月甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次『淨大肆伊勢王』誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。…」

「(持統)二年(六八八年)八月丁亥朔丙申。甞于殯宮而慟哭焉。於是。大伴宿禰安麻呂誄焉。
丁酉。命淨大肆伊勢王奉宣葬儀。」

 いずれの記事でも「淨大肆」という冠位(官位)が書かれています。この冠位は「六八五年」に定められたという「冠位四十八階」の十一番目のものでしかありません。
 この「冠位制」では「明位二階」が最上位にあり、その後が「浄位四階」となっています。通例では「明位二階」は誰も授与されなかったということになっています。しかし、そんなはずはないと思われます。「冠位(官位)制」は天子の元の最高側近ないし最高重要人物が「最高位」を授与されてしかるべきであると思われるからです。「最高位」の冠位を授与されるべき人物が誰もいないのにも関わらずそのような「冠位」を設定されたということを想定することは不思議に思われます。
 明らかに「諸王」は「最高側近」ではありませんから、「浄位四階」を授かって当然と考えられ、たとえば「親王」以上が「明位二階」を授かったと考えるのが自然です。つまり、『書紀』でだれも「明位二階」を授与されていないのはそこに書かれた人物達が「倭国王権」から見ると「諸王」であって、「親王」などではないためであると理解せざるを得ません。
 しかし既に述べたように「伊勢王」と「弟王」については『天智紀』と「斉明紀」と二回ある「死亡記事」のいずれにも「薨」という語が使用されており、これは『書紀』『続日本紀』では「三位以上」の高位者のみに使用されるものですから、「諸王五位」あるいは「淨大肆」という「五位」程度の位階しかなかったように書かれている事には疑いが生ずることとなります。これは彼らが「明位階」にあったことを示すものと思われ、「諸王」と云うより「親王」であったとも考えられるわけです。
 以上から「時期の矛盾」と「位階の矛盾」を共に解消できる説明は「年次移動」しかないと思われます。
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「伊勢王」とは(再度)

2024年02月23日 | 古代史
 続いて「伊勢」に関する検討です。

「伊勢王」とは

 『書紀』には「伊勢王」という人物が出てきます。彼についてはその出自が明らかではなく、さらに『書紀』の記述に明白な矛盾があるのが判ります。
 以下「伊勢王」に関する記事を『書紀』の出現順に並べてみます。

「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」

「(斉明)七年(六六一年)…六月。伊勢王薨。」

「(天智)七年(六六八年)…六月。伊勢王與其弟王接日而薨。未詳官位。」

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅条」「遣諸王五位『伊勢王』。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」

「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔辛巳条」「遣伊勢王等定諸國堺。…。」

「(天武)十四年(六八五年)冬十月癸酉朔己丑条」「伊勢王等亦向于東國。因以賜衣袴。…」

「(六八六年)朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯。御大極殿而賜宴於諸王卿。是日。詔曰。朕問王卿以無端事。仍對言得實必有賜。於是。高市皇子被問以實對。賜蓁指御衣三具。錦袴二具。并■廿疋。絲五十斤。緜■百斤。布一百端。『伊勢王』亦得實。即賜皀御衣三具。紫袴二具。■七疋。絲廿斤。緜册斤。布四十端。是日。攝津國人百濟新與獻白馬瑙。」

「(六八六年)朱鳥元年…六月己巳朔…甲申。遣『伊勢王』。及官人等於飛鳥寺。勅衆僧曰。近者朕身不和。願頼三寶之咸。以以身體欲得安和。是以僧正。僧都。及衆僧應誓願。則奉珍寶於三寶。是日。三綱。律師。及四寺和上。知事。并現有師位僧等。施御衣。御被各一具。」

「九月戊戌朔…甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次『淨大肆』伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。」

「(六八八年)二年春正月庚申朔。皇太子率公卿百寮人等。適殯宮而慟哭焉。
辛酉。梵衆發哀於殯宮。
丁卯。設無遮大會於藥師寺。
壬午。以天皇崩奉宣新羅金霜林等。金霜林等乃三發哭。
二月庚寅朔辛卯。大宰獻新羅調賦。金銀。絹布。皮銅鐵之類十餘物。并別所獻佛像。種々彩絹。鳥馬之類十餘種。及霜林所獻金銀。彩色。種々珍異之物。并八十餘物。
饗霜林等於筑紫舘。賜物各有差。
乙巳。詔曰。自今以後。毎取國忌日要須齋也。
戊午。霜林等罷歸。
三月己未朔己卯。以華縵進于殯宮。藤原朝臣大嶋誄焉。
夏五月戊午朔乙丑。以百濟敬須徳那利移甲斐國。
六月戊子朔戊戌。詔令天下繋囚極刑。減本罪一等。輕繋皆赦除之。其令天下。皆半入今年調賦。
秋七月丁巳朔丁卯。大■。旱也。
丙子。命百濟沙門道藏請雨。不崇朝遍雨天下。
八月丁亥朔丙申。甞于殯宮而慟哭焉。於是。大伴宿禰安麻呂誄焉。
丁酉。命『淨大肆』伊勢王奉宣葬儀。」

 以上の出現例を見て判るように『孝徳紀』で「白雉」が入っている「輿」を担ぐなどの後、死亡記事があり、更にその後『天武紀』に入ると再度登場するという不思議があります。『書紀』の中でこのような例は皆無であり、これは『天武紀』記事と死去記事との間の排列に齟齬があるのは明らかです。当然『天武紀』の記事が「死去記事」以前に遡上すべきであると考えられるわけです。
 ただしこの両方の「伊勢王」を別人と見る立場もあるようですが、それは不審です。確かに『書紀』『続日本紀』には同一の名を持つ「王」が散見されますが、伊勢王の場合『孝徳紀』では「白雉」の御輿を担ぐという(それも「殿」つまり「大極殿」の前まで運ばれた「御輿」を「天皇の至近」まで運ぶ)という大役を担っており(但しこれは潤色とは思われるものの)、さらに『天武紀』『持統紀』では「天武の死去」の際の葬儀などで強力なリーダーシップシップをとっているなどこちらも重要な役所を演じています。もしこれを別人とするならその権威が共通している理由を説明する必要があるでしょう。(「同姓同名」つまり「子供」に代を譲り同じ「王名」を名乗ったと言う事も可能性としては考えられるものの、『書紀』『続日本紀』内にそのような例が見あたらず、通常親子であっても「王名」は異なるものであり、そのことから考えても『書紀』に出てくる「伊勢王」は全て同一人物であると考えるべきでしょう。)
 ただし、時代が異なった場合同名の王は『書紀』『続日本紀』には(「伊勢王」を別とすると)重複して出現する例が散見されます。これを確認してみます。
 たとえば「石川王」「竹田王」「春日王」「難波王」は『書紀』及び『続日本紀』の双方に(時代を超えて)現れます。
 ①「石川王」の場合
「(六七九年)八年…三月辛巳朔…己丑。吉備大宰「石川王」病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」

「(神龜)三年(七二六年)春正月
庚子。天皇臨軒。授從四位下鈴鹿王從四位上。无位『石川王』從四位下。…」

②「竹田王」「難波王」の場合
「(五七五年)四年春正月丙辰朔甲子。立息長眞手王女廣姫爲皇后。是生一男。二女。其一曰押坂彦人大兄皇子。更名麻呂古皇子。其二曰逆登皇女。其三曰菟道磯津貝皇女。
是月。立一夫人。春日臣仲君女曰老女子夫人。更名藥君娘也。生三男。一女。其一曰『難波皇子。』其二曰春日皇子。其三曰桑田皇女。其四曰大派皇子。…」

「(五七六年)五年春三月己卯朔戊子。有司請立皇后。詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后。是生二男。五女。其一曰菟道貝鮹皇女。更名菟道磯津貝皇女也。是嫁於東宮聖徳。其二曰『竹田皇子。』…」

「(崇峻)二年(五八七年)…秋七月。蘇我馬子宿禰大臣勸諸皇子與群臣。謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子。『竹田皇子。』廐戸皇子。『難波皇子。』春日皇子。蘇我馬子宿禰大臣。紀男麻呂宿禰。巨勢臣比良夫。膳臣賀施夫。葛城臣烏那羅。倶率軍旅進討大連。」

「(六八一年)十年…三月庚午朔…丙戌。天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。廣瀬王。『竹田王。』桑田王。三野王。大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首令記定帝妃及上古諸事。大嶋。子首親執筆以録焉。」

「(六八五年)十四年…九月甲辰朔…甲寅)遣宮處王。廣瀬王。難波王。『竹田王。』彌努王於京及畿内。各令校人夫之兵。」

「(同月)辛酉。天皇御大安殿喚王卿等於殿前。以令博戯。是日。宮處王。難波王。『竹田王。』三國眞人友足。縣犬養宿禰大侶。大伴宿禰御行。境部宿禰石積。多朝臣品治。釆女朝臣竹羅。藤原朝臣大嶋。凡十人賜御衣袴。」

「(六八九年)三年…二月甲申朔…己酉。以『淨廣肆竹田王。』直廣肆土師宿禰根麿。大宅朝臣麿。藤原朝臣史。務大肆當麻眞人櫻井。穂積朝臣山守。中臣朝臣臣麿。巨勢朝臣多益須大三輪朝臣安麿。爲判事。」

(七〇八年)和銅元年…三月…丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿。從四位下多治比眞人池守爲民部卿。從四位下息長眞人老爲兵部卿。『從四位上竹田王爲刑部卿。』…」

「靈龜元年(七一五年)…三月…丙申。散位『從四位上竹田王』卒。」

 『推古紀』に出てくる「竹田皇子」は「推古」が亡くなった際に「竹田皇子」の墓に葬って欲しいと遺言していますから、彼女の死去以前にすでに死去していたこととなります。それに対し「天武紀」に出てくる「竹田王」は「三野王」とほぼ同年齢と思われ『書紀』には書かれていませんが、天武の皇子を除けば「難波王」の次に出てくる人物であり、その順位から考えて「壬申の乱」の時に大海人側に加勢して戦ったのではないでしょうか。ところでそこに出てくる「難波王」ですが、これも『推古紀』に出てくる人物であり、「竹田皇子」とほぼ同年齢の人物です。
 これらの例からもある程度時代が離れると(50-100年程度)同名の人物の存在もありうるようですが、「伊勢王」の場合その死去記事と「天武紀」の葬儀の記事とは「二十数年程度」しか離れておらず、葬儀全般を仕切っているその記事内容から考えてもかなりの年齢であることを考えると、この両者が同一の時代に生きていたことは疑えず、別人とは言えなくなると思われます。
 これらの事からこの双方の『紀』に出現する「伊勢王」は同一人物と見るべきであり、そうであるなら『斉明紀』『天智紀』に死亡記事があることを軽視すべきではないでしょう。
 「死去」の記事、つまり「何歳なのか」あるいはそもそも「存命かどうか」というような情報は国家にとって見れば非常に重要度の高いものであり、それが「王」という高位の人物であればなお「行政」や「軍事」などについても深く関係してくる情報でもありますから、それが「数年」の誤差をはるかに超えるなどということは、はなはだ考えにくいものです。
 そのように記事が重複している場合「原則」は「最初」の記事が「真実」のものであり、「後」の記事は何らかの誤解ないしは混乱によるものと思われます。つまり彼の死去記事としては『斉明紀』付近で正しいものと思われるわけですから、実働時期としては『孝徳紀』つまり「難波副都」時代でみるのは当然のことです。 
 また彼とその弟王についてはその死去したという記事に(『天智紀』『斉明紀』の双方で)「薨」という語が使用されており、これは『書紀』『続日本紀』では「三位以上」の高位者のみに使用されるものですから、(唯一の例外は「四位栗隈王」ですが、彼についても「四位」という位階には疑問があるのは既に述べたとおりです。『続日本紀』には「贈従二位という表記がありますが、いつ加増されたかが記録にないことは不審です)「伊勢王」については他の記事において「諸王五位」あるいは「淨大肆」という「五位」程度の位階しかなかったように書かれている事には疑いが生ずることとなります。さらに「弟王」についてはその名前も全く明らかではないにもかかわらず「三位以上」という高位にあったこととなり、その様な事もまた不審といえるでしょう。しかもそれにも関わらず「未詳官位」という記載がされているのも更に不審を増加させるものです。これは明らかに「隠蔽」する意図があったものと見られます。
 また「天武」の葬儀で「勅」を「奉宣」するなど重要な位置にいたにも関わらず「死去」記事がありません。さらに『公卿補任』などを見ても彼のについて全く記述がありません。「天武紀」の「伊勢王」が「孝徳紀」の「伊勢王」の(襲名した)子供ならば『続日本紀』や『公卿補任』に何も書かれていないことは大きな不審といえるでしょう。
 彼についての「死亡時期」が上に見たように「斉明」の時代で正しいとすると、活躍時期は少なくともそこから二十年程度遡上するとした場合「六五〇年」付近(あるいはそれ以前)が推定されることとなりますが、それは『孝徳紀』に彼の名が出てくることと整合するものです。
 以上から「伊勢王」の活動時期としては「六五〇年付近」つまり「孝徳朝」が正しいと考えられる訳ですが、その場合『天武紀』の「伊勢王記事」は揃って「三十年以上」遡上しなければならないこととなります。その場合正木氏の云うように「三十四年遡上」なのかどうかがここでは問題となるわけですが、それが正しいかどうかは「白雉献上」の儀式に「輿」を担いでいるのが真実かどうかと云うこととなります。なぜなら「三十四年遡上」とした場合、その「白雉献上」の前年の暮れに「東国」に派遣されているからであり、この「儀式」に参加可能であったか考える必要があります。

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅条」「遣諸王五位『伊勢王』。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」
 
 この派遣日付は元々の日付干支が保存されていたものと仮定すると、白雉改元儀式直前の「十二月十三日」となります。それに対し「白雉」献上の儀式の日付は明けた翌年の「三月記事」となり(二月」記事の「白雉」が捕獲されたという記事の後単に「甲寅」という日付が書かれており、これは「二月」ではなく翌「三月」の「十五日」となります)、東国への派遣から約三ヶ月後のこととなりますが、この場合日程的に参加可能かは微妙ではあるものの、「六八五年」の時には「東国」に行くのに際して「袴」が支給されていますからこの時も同様に「袴」が支給されたとするとこれは「馬」に乗るという前提のものであったと思われますので、移動には馬が使用されたとみられるわけであり、その場合往還にはそれほど時間がかからなかったという可能性もあります。そう考えれば「白雉」の儀式に参加できたともいえるでしょう。
 正木氏によればこの「移動」の手口は「九州年号」の紀年に合せたものであるとされ、そのことはかなり高い証明能力を有するものであるのは確かと思われます。しかし、中にはそれが適用できないもの、あるいは「干支一巡」の遡上を想定する方が整合するものなど年次移動の手口も一様ではないようであり、記事内容に即して考えるのが正しいといえるでしょう。
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「弥勒仏」と太子像(再度)

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

「弥勒仏」と太子像

 「野中寺」の「弥勒菩薩像」について考えると、この台座銘には確かに「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」とあり、この「知識」達がこの「像」を「弥勒」であると認識していたと思われるわけですが、これに関しては、初期「弥勒仏」が、本来は「太子像」であり「釈迦」の出家前の姿を写したものとされていることが関係しているのではないかと推察されます。つまり「弥勒」といえば「半伽思惟像」というわけですが、この「半伽思惟像」というものは本来「太子」時代の「釈迦」の姿を写したものであり、人々を救済する方法について思索を巡らせ悩んでいる姿を現す姿勢であったとされます。
 「弥勒」信仰は北朝で早くに興ったものであり、弥勒像(半伽思惟像)が多く造られるようになったものです。但し本来は「太子像」(まだ仏道修行中の仏陀の肖像)であったと思われます。しかし「弥勒信仰」が盛んになるとこの「太子像」が「弥勒像」であると認識されるようになり、「弥勒」といえば「半伽思惟像」という定式ができあがります。その意味で言うとこの「野中寺」の像も「太子像」ではないかと見る事もできそうです。(同様の論もあるようです。(※1))
 後に「北周」の「武帝」により「廃仏」が進められると、「弥勒信仰」も排斥されるようになります。そして「隋」が政権の座につくと「高祖」(文帝)により仏教が保護・奨励されるようになり、その時点で「弥勒」も復活していたものです。(※2)
 この「弥勒」信仰は北朝と密接な関係にあった「高句麗」に伝わり、そこから「新羅」へと伝わったものです。特に新羅で「弥勒」信仰は盛んになり、「半伽思惟」という「弥勒像」が多く造られていました。そして「新羅」と交流があった「倭国」にも伝来したものと考えられますが、その時点では「倭国王権」の交流主体は「百済」であり、「新羅」は(倭国に対し)従属的関係でした。当然その「新羅」から文物を取り入れるということは主たるものにはなり得ず、部分的で局限的であったと思われます。つまり「弥勒信仰」と「半伽思惟像」が「新羅」などから「倭国」へ伝来し、それが「王権」で信仰するところとなったかは疑問であると思われることとなるでしょう。
 それに対し「百済」からは「百済王」から「倭国王」へと「法華経」が伝来したものであり、これに対し「倭国王権」は深く傾倒し、「倭国王」や「倭国王家」においては私的な信仰が始められたものと思われます。その時期に『法華義疏』など書かれたものであり、その中で「光宅寺法雲」などの教えを「本義」としていることや「弥勒」が批判されていると言う事からもこれが「南朝」系の「法華経」に由来するものであることがわかります。そして「遣隋使」が送られ、使者の発言によって「訓令」を受ける際に「提婆達多品」などが補綴された「法華経」(「添品妙法蓮華経」の原型)が伝来したものであり、そのためそれを国政の中心に据える政策をとることとなったものです。このようにして「法華経」と「阿弥陀信仰」が「国家的事業」として推進されていくこととなったものであり、この時点では「弥勒信仰」は脇役であり、全く影に隠れていたものと推量します。
 「隋」における「弥勒信仰」は「煬帝」の時に「宮殿」の中に「狂信的」な弥勒信仰集団が乱入するという事件があり、それ以来「隋王権」から弾圧と排斥が行われていたものです。その後「隋」が滅び「唐」が成立すると再び「弥勒」信仰が受け入れられるようになったものであり、「遣唐使」が送られるようになると彼等によって「弥勒」信仰が再び我が国にもたらされることとなったものです。それでもすぐに「弥勒信仰」が深く「王権」に受容されるということはなかったものと思われます。なぜならそのためには「経義」を深く理解する必要があり、それは「遣唐僧」などの帰国以降かなり時間の経過が必要であったと考えられるからです。つまりそれ以前に倭国に「半伽思惟像」が伝来していたとしても、それは「弥勒」ではなく「太子像」として受け入れられていたのではないかということが疑われるわけです。それはまた「聖徳太子」に対する信仰という点からもそういえると思われます。
 一般に「聖徳太子信仰」はかなり後代に発生したものであり、その「聖徳太子」に関わる伝承に「弥勒仏」が出てくるということは、「弥勒信仰」が隆盛となった時期にそのような伝承が形成されたことを想定させますが、「弥勒信仰」が確実に「倭国内」に浸透したのは「七世紀後半」から「八世紀」に入ってからであり、「弥勒」を信仰していたとされる「聖武」の時代であったという可能性が高いと考えられます。
 「弥勒」に関する説話の成立がおおよそ「八世紀」以降のものであることもそれを傍証するものと言えます。このことは「左手無名指切断」という過激なことを行なったのも「聖武」であったという可能性さえ含んでいると見られます。
 彼は「大仏」建造でも判るように「過度」に仏教に帰依していましたから、(自らを「三宝の奴」と称していた)かなりエキセントリックな行動もあったようであり、彼が行なった事跡と言うことも考えられます。その彼の行状が「天智」に結びつけられているのは後代になると「天智」「聖武」の区別がつかなくなっていたという可能性があることからもいえます。たとえば「各種の資料に「あめのみかど」という名称の人物が出てきますが、これが「天智」なのか「聖武」なのかで論争があったりします。
 この「あめのみかど」とは『万葉』や『古今』などに歌が収められている人物ですが、『古今集』以降の解釈書などでは「天智」と解釈されていたものであり、それを「山田孝雄博士」により「聖武」のことであると証明されたというものです。
 山田氏によれば『漢字で書く時に天帝若くは天皇といふ文字を宛ててよい樣だから、その意味でいへば、いづれの天皇をもさし奉りうることになる。さうすれば實はいづれの天皇をさし奉るのであるか、わからぬことになつてしまふ。そこで、これは、ある特別の天皇をさし奉つたのだといふことが證明せられねばならぬことである。』とされています。
 この事は「先帝」という「語」においても同様と思われ、その「帝」を特定するなにかが別になければ「誰」のことだか不明とならざるを得ません。上の例で言えば「崇福寺」の創建が確かに「天智」によるということがどこかに書かれている必要があることとなりますが、それはどこにも書かれていない訳ですから、この「先帝」を「天智」と即断する訳にはいかないこととなるでしょう。
 このことから「聖武」の事跡の内「天智」の事跡と混乱されているものが他にもある可能性が考えられます。この「崇福寺」創建に関わる伝承もそれに該当するのではないでしょうか。

(※1)宮地昭『弥勒菩薩と観音菩薩 ―図像の成立と発展―』龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー二〇一三年。
(※2)「七代寺重建記」の文に明らか。
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「弥勒信仰」について

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

「弥勒信仰」について

 「天智」の「無名指切断」のエピソードについては、その多くが「弥勒」との関連で語られていることは注意を要します。
 「弥勒信仰」は明らかに「後代的」であり、「六世紀末」から「七世紀初め」という時期には「倭国内」にはほとんど浸透していなかったと考えられ、それは「遣唐使」として派遣された「僧」が「経義」を学んで帰国した後に隆盛したものと考えられます。特に「法相宗」では「弥勒」が主尊であり、三蔵法師「玄奘」が信仰していたものが「弥勒」であったとされ、彼に師事した「道昭」「智通」「智達」等の帰国後「弥勒信仰」が起きたものと考えられます。その「道昭」の帰国年次としては「六六一年」という説が有力です。このことから、一見この説話の時代もそのような「弥勒信仰」の高揚した時期と考えられがちです。例えば「藤氏家伝」にも「…。故賜純金香爐、持此香爐、如汝誓願、従観音菩薩之後、到兜率陀天之上。日々夜々、聴弥勒之妙説。朝々暮々、転真如之法輪。…」というような文言が書かれ、そこでは「死後」「弥勒」から「妙説」を聴く、というようなことが言われています。
 また、「野中寺」の弥勒菩薩像の台座銘には以下のようにあります。

「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」

 この「丙寅年」は通常「六六六年」と考えられており、これは「弥勒菩薩像」と「天智」が関連している証左であるとされています。つまり「中宮天皇」とは「天智」を指すというわけです。これらのことから、「弥勒」信仰と「天智」には強い結びつきがあるように考えられています。
 しかし「三経義疏」の一つである「維摩経義疏」の中では「弥勒」に対して以下のような「批判的」言辞が確認でき、これが「六世紀終わり」の時期に「百済」から「法華経」が伝来して以降成立したものと考えられ、これを「聖徳太子」の書とする説もあり、その意味で当時の「倭国王権」のなかでは「弥勒」は信仰されていなかったという可能性が高いと考えられます。
 「維摩経義疏」には(菩薩品第四)「弥勒」について以下にように書かれています。

「今禰勒に凡そ四の執あり,一に己に勝行ありと存し,二に受記を存し,三に菩提の果を存し,四に滅度の涅槃を存す.前の二は是れ因の執,後の二は是れ果の執なり,今諸天の機,応に無相の空行を聞かんとす.而るに今此の四の存を以て為に説くが故に,則ち説と機と差(タガ)へり…
一には云はく,菩提は即ち是れ佛の無上智なり.言ふこゝろは,真諦の中には禰勒の空と衆生の空と一相無二にして得と不得となきが故に『若禰勒得菩提一切衆生亦得』と云ふ.二には云はく,今菩提と言ふは即ち是れ真諦なり.禰勒と衆生と,皆即ち真諦なり.故に『一切衆生亦得』と云ふなり」

 この「維摩経義疏」の文言は「弥勒」に対する「距離感」を示し、「傾倒している」とは言えないことを示すものです。
 さらに(私見では)「遣隋使」によって(あるいは同行した隋使により)「法華経」(「提婆達多品」が補綴されたもの)が伝えられたと見ており、これは「訓令」の一部であったと考えているわけですが、それを示すように「法隆寺」には「弥勒菩薩像」がありません。「中宮寺」や「広隆寺」には「弥勒菩薩像」があっても、「肝腎」の「法隆寺」にはないのです。
 「法隆寺」は既に考察したように元は「元興寺」であったものであり、また「倭国」で初めての「勅願寺」であったと考えられますから、この「寺院」に「弥勒菩薩像」がないと言うことは、当時の「倭国王権」の信仰には「弥勒」がいなかった事を示すものと推量します。
 この「元興寺」の「本尊」は元々は「釈迦像」と「阿弥陀繍仏」であり、そのため「四月八日」をもって「堂内」に「丈六仏像」を入れようとしたというエピソードが語られています。つまり、「聖徳太子」にその存在が投影されている「阿毎多利思北孤」やその太子「利歌彌多仏利」達は「弥勒信仰」の中にはいなかった事を示すと思われることとなります。
 また、上に見たように「藤氏家伝」では「鎌足」が「弥勒信仰」をしていたように伝えられていますが、以下の資料ではその「弥勒」と「弥勒信仰」に批判的である「維摩経」を「元興寺呉僧」「福亮」から「講説」を受け、そのために私財を投じたとされています。

『扶桑略記』「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。

同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」

『日本帝皇年代記』「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」

『元享釈書』「齊明皇帝の段」
「四年七月、通達二師、奉敕乘新羅■入唐、受相宗於玄奘三藏。是歳、呉僧元興寺福亮、赴鎌子請、於陶原家講維摩經。爾來、鎌子延海内碩徳、相次講演凡十二年。」

 このように「維摩経」の講説をわざわざ「私財」を投じて受けているということ、しかもそれはただ一回だけではなく、「十二年」もの長きに亘ったとされており、「道昭」が帰国して「弥勒信仰」が新たに起こったとされる時期をその中に含んでいます。それを考えると、その中で批判的な書かれ方をしている「弥勒」を「鎌子」が信仰すると言うことははなはだ考えにくいこととなるでしょう。この事から一見「道昭」によって「鎌足」の「弥勒信仰」が始められたという見方もできると思われがちですが、その「道昭」は帰国後「周遊」に出たとされ、各地に伝道して回ったらしく、王権の元に還った事情については『文武紀』に「和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。」(文武四年(七〇〇年)三月己未条)とされ、「飛鳥寺」への帰還は「六七五年前後」が推定されますが、この時点では「鎌足」も「天智」もすでに「死去」しています。つまり「道昭」から「弥勒信仰」が「天智」など「王権」に伝来し浸透したとは考えにくいこととなるでしょう。ただし、「鎌子」の長子である「定恵(定慧)」からの「伝来」というのは考えられなくはありません。
 彼の帰国は「六六五年」(劉徳高等の来倭に便乗したもの)とされますが、彼は「玄奘」の元で「仏典」の漢訳作業を行なっていた「神泰法師」に師事したとされ、「間接的に」彼から「弥勒信仰」が伝えられたという可能性もあり、彼が「天智」に「弥勒信仰」を伝授したという事も想定することは可能ではあります。
 彼は帰国後「暗殺された」という説もあるものの『日本帝皇年代記』には「甲寅七 多武峯開山定慧法師入滅、大織冠鎌足之長子也」という記事もあり、この「甲寅七」というのが「七一四年」を意味すると考えられますから、かなり長期間健在であったとも考えられます。(「元亨釈書」にも同様の記事があります)しかし、そうであれば父である「鎌子」が「維摩経」の講説を受け続けたという記録とは矛盾すると考えられます。
 つまり、帰国した「定恵(定慧)」と一番接近した日々を送ったはずの「鎌子」が「終生」「維摩経」を信仰し続けたと考えられるわけであり、そうであれば彼の信仰に息子の「定慧」が全く関与していないということとなりますから、「定慧」から「鎌子」や「天智」に「弥勒信仰」が伝授されたとはいえないこととなります。
 これらのことは「鎌足」やその盟友とも考えられる「天智」の「弥勒信仰」というものが本当にあったのか疑わしいこととならざるを得ないものです。
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