前回からの続きです
「伊勢」と「神風」
「難波副都」の時代(白雉年間)に(特に東国に)「神社」が創建されている例が多く確認されています。たとえば、茨城県、福島県、埼玉県、千葉県、愛知県、東京都、富山県、福井県、長野県等々の神社の由来や縁起を記した文書にこの時代の創建が書かれている例が散見されます。
このように「難波朝」の「白雉」年間の創建と伝える「神社」「仏閣」が多数に上るわけですが、その「神社」の「祭神」とされているものを見ると「保食神」あるいは「宇迦之御魂神」つまり「稲荷大神」としている場合が相当数あります。「保食神」と「宇迦之御魂神」は『古事記』に出てくるか『書紀』に出てくるかの違いであり、ほぼ同一神格と考えられます。
このように「難波朝」の「白雉」年間の創建と伝える「神社」「仏閣」が多数に上るわけですが、その「神社」の「祭神」とされているものを見ると「保食神」あるいは「宇迦之御魂神」つまり「稲荷大神」としている場合が相当数あります。「保食神」と「宇迦之御魂神」は『古事記』に出てくるか『書紀』に出てくるかの違いであり、ほぼ同一神格と考えられます。
「古田史学の会」のホームページ資料による「白雉年号」を記す社伝などを有する神社の中で、①「宇迦之御魂神」(倉稲魂神)(保食神)を祭神としている神社は以下の通り
市原稲荷神社(愛知県刈谷市)、岡田神社(長野県松本市)、鵜坂神社(富山県婦負郡)、椿郷祇園社(山口県萩市)、細田神社(兵庫県美嚢郡)、岡神社(滋賀県坂田郡)、笠間胡桃下稲荷神社(茨城県笠間市)
続いて②「宇迦之御魂の神」の近縁である「素戔嗚尊」ないしは「大国主」あるいは「味鋤高日子」を祭神としている神社は以下の通り
山邊神社(島根県江津市)、老松神社(山ロ県防府市)、生石神社(兵庫県高砂市)、石都々古和気神社(福島県石川郡)
このように「難波」に副都を設けたときに行なわれた「神社改革」の「目玉」(主たる要点)は、「伊勢神宮」の祭神を全国(特に東国)に拡大し、「伊勢神宮」を頂点とする「国家祭祀」体系を形作ることにあったものと考えられます。それを進めたのが「伊勢王」であると思われます。
「伊勢王」はその名の示すとおり、元々「伊勢神宮」のある「伊勢」の地の王であったと考えられます。
「伊勢」という地名が「伊勢神宮」という「宗教的」建物・組織と連結して考えられるようになるのは「中世」以降であり、それ以前は通常の感覚としての地名としての「伊勢」というものが「別」にあり、これに対する「美称」ないしは「畏称」としての「神風」がまず存在していたものです。つまり「伊勢」が「伊勢神宮」となるに及んで、「神風」は「神」の「風」となったのです。この事は、論理的帰結として「伊勢」が「ただの」「伊勢」である時代があり、「神風」は単に「風が強い」という以上の意味がない時代があったことを示します。その後「宗教的意義」が「後年」発生したものと考えられるのです。
ところで現在時点においても全国各地に「伊勢」という地名あるいは「島」「山」「川」などの名称が存在しています。その淵源を詳細に見ていくと特に古い淵源を持つものは殆ど全て「出雲」と深い関係があることが推察できます。
そもそも既に見たように「倭国」における王権の発生は、「弥生」の原初としての中心が「出雲」にあったと考えられ、この王権を「倭王権」と呼びます。それはこれ以外に「倭王権」と言えるものはないからであり、他の諸国は「遅れて」王権が発生するものであり、通常では決して「倭王権」と言いうる「代表的権力」とはなり得ないのです。
しかし「紀元前後」の大地震と大津波という天変地異を経て、権力中心は「出雲から「筑紫」へと交代しました。(させられました)
さらにその後「古墳」の分布と形式の解析からは「古墳」時代が始まってすぐにその発展の中心地は「筑紫」から「肥後」に移るのがわかります。このことは「弥生」時代が終わり「古墳時代」になると「倭」の中心は「肥(後)」に移りそれが継続したと言う事ができるでしょう。
つまり、古代において「日本全体」が統一されていない時点では、「倭」とは「九州」を指し、「倭の五王」の「根源」は「肥(後)」にあったと考えられますから、この「神風」の吹く場所である「伊勢」も「肥(後)」の中で考えるべきこととなります。
つまり元々「出雲」と関係していた「伊勢」という地名はその後「筑紫」に移り、更に「肥後」へと移動したと見るべきことを示します。
いずれにしても「神風」の使用例が確認される最古のものが「記紀歌謡」であり、この「記紀歌謡」というものは「弥生」から続く伝統のあるものと考えられますが、そうであれば「弥生」の中期以降の中心であった「九州」を抜きにしては考えられないこととなります。
たとえば『古事記』の中には「神武」が「近畿」へ侵入する際に歌われる「久米歌」などの中に以下の歌があります。
「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻おり 撃ちてし止まむ 」
(原文の万葉仮名)
「加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜痲牟」
この歌は「弥生」以来の伝統を持った「歌謡」であることは間違いないものと思われますが、その中に「伊勢」が出てくるわけです。上の思惟進行によればこの「伊勢」が「三重県」の「伊勢」でないことは確かです。「久米」は「神武」達に追随して九州からやって来た勢力と理解されますから、彼らの「民謡」とでもいうべきものに詠われている「伊勢」が「九州」に関係していると考えるのは当然ともいえるでしょう。
「現在」の「伊勢」の地は、この時の「神武」の進行ルートとは何の関係もありません。その「周辺」でさえないのです。また「伊勢神宮」とこの歌との間にも何の関連も考えられません。つまり、単純に「神風」と「伊勢」という地名が連結していると言うだけの歌なのです。
彼が当初出発地とした地は「九州」であり、そこが「倭」であり、またその「中心」は「肥」であったと考えれば、「伊勢」も「肥」にあり、そこには「神風」が吹く、と言う「論理進行」とならざるを得ません。
つまり、「伊勢」が元々「肥」の地名であるということとなると、「伊勢の海」とは「肥」の対面する海である「八代海」(ないしは「有明海」)の事を指していると考えざるを得ないこととなるでしょう。つまり「枕詞」的用法(美称ないし畏称)としての「神風」が発生・成立したのは「肥」においてである、と考えられることとなります。
(古田氏によれば「伊勢は筑紫にある」とのことですが、上に見たように「神武」の東進段階では「倭国」の中心は「筑紫」から移動して「肥」の国にあったと考えられ、そのことから考えると更にそれ以前は「筑紫」に「伊勢」が存在していたとみられるわけです)
また、「雄略紀」の中にも同様の「神風」と「伊勢」とが連結された「歌謡」があります。
「神風の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝を 五百経る懸きて 其が尽くるまでに 大君に 堅く 仕へ奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠はや あたら工匠はや」
(原文の万葉仮名を表示します)
「柯武柯噬能。伊制能。伊制能奴能。娑柯曳鳴。伊褒甫流柯枳底。志我都矩屡麻泥爾。飫褒枳濔爾。柯?倶都柯陪。麻都羅武騰。倭我伊能致謀。那我倶母鵝騰。伊比志■倶彌■夜。阿■羅陀倶彌■夜。」
ここに出てくる「伊勢」がどこなのかははっきりしませんが、少なくとも「伊勢神宮」と「神風」という言葉が関連づけられているわけではなく、ここでも明らかに「伊勢」という「単純地名」との連結として表現されていると思われます。
「伊勢王」はその名前からして、倭国の「旧都」である「肥」の地である「伊勢」に自身の「本拠」を構えていたものと考えられ(菊池川上流に存在する「鞠智城」がその痕跡かもしれません)、それは一種の「封国」であったという可能性もあるでしょう。そして、彼が「倭国王」となった時点で「封国名」である「肥」を「倭国」の名称として「日(肥)本」として採用したと言う事も考えられます。
そして外交の前線であり、首都である「筑紫」が危険地帯になったと判断して「難波副都」を設け「遷都」を実行したものではないでしょうか。それに伴い、旧都の地である「肥」から「伊勢神宮」を移設したものと思われます。
「熊本県菊池市」にある「木柑子フタツカサン古墳」出土の「銀象嵌『鍔』」と「三重県伊勢市」の「南山古墳」から出土した同様の「銀象嵌『鍔』」は、「双生児」の如くに酷似していることが確認されています。その形状、象嵌技法と技術などが「瓜二つ」であり、また共に「六世紀後半」という時代推定がされていることなどから、「同一工房」によるという可能性が示唆されています。つまりこの二つの古墳の主には「深い関係」があることが「強く」示唆されるわけですが、それが「伊勢」という地名で連結されているように見えることも重要でしょう。
上に推定したように元々「伊勢」は「肥(後)」に存在した地名であると考えられ、それがその後「伊勢神宮」の「移転」(「遷宮」と言うべきでしょうか)に伴い、現「伊勢」の地に移動したものと推察されるものです。
この「六世紀後半」という時期は、「磐井」の後継王者が「物部」から「筑紫」を奪回した時期でもあり、「倭国王」はそれまで「肥(後)」から「国内」を統率・支配していたものと思料しますが、そのような統治構造の中にこの「南山古墳」の主などのような「存在」もあったものと思料します。(ただし「南山古墳」はいわゆる「装飾古墳」ではないようです。この事は「南山古墳」の被葬者は「倭国王」の「血縁縁者」ではないものと考えられるところであり、彼から「負託」を受けた「倭国将軍」の一人であったものと思料します)」