さらに前回からの続きです
近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-
「桓武」「嵯峨」両帝の時代に「崇福寺」に関する「勅」が出され、そこでは「先帝」が(「崇福寺」を)創建したと言うことが語られています。
「日本後紀卷十一逸文(『類聚國史』一八〇諸寺・『日本紀略』)」「延暦二十二年(八〇三)十月丙午【廿九】丙午。制。崇福寺者、『先帝』之所建也。宜令梵釋寺別當大法師常騰、兼加検校。」
「日本後紀卷廿七逸文(『日本紀略』)」「弘仁十年(八一九)九月乙酉【十】》乙酉。勅。崇福寺者、『先帝』所建、禪侶之窟也。今聞。頃年之間、濫吹者多。云々。宜加沙汰、勿汚禪庭、所住之僧、不過廿人。但有死闕、言官乃捕之。」
本来「先帝」とはその字義通り「先代」の「帝」を指す言葉であったものです。例えば『聖武紀』には「文武」を「先帝」と称する例があり、「孝謙」の時代には「聖武」を「先帝」と記した例しか見あたらないなど、多数の「前代」の天皇を指す例が確認できます。ただし、「元明」の時代に「天智」「天武」を「先帝」と称した例も存在していますが、それらは全て「前後関係」から「特定」可能な例ばかりです。
しかし、上の例では、最初の勅は「桓武天皇」が出されたものであり、後のものは「嵯峨天皇」から出されたものですから、当然双方の「先帝」は「先代」の「帝」という用法ではないこととなりますが、問題は「天皇」を特定する形容がされていないことです。
たとえば、『懐風藻』を見るとそこには「淡海先帝」とあります。これが「天智」ないし「利歌彌多仏利」を指すとすると、「淡海三船」の時代から一〇〇年以上前のこととなり、かなり遡上した例であることが判ります。
上の「桓武と「嵯峨」両帝の例における「先帝」がもし同様に「天智」を指すとすると、この「先帝」もかなり遡上すると考えなければなりませんが、問題は「淡海(近江)」というような「天皇の代」を特定するべき形容が前置されていないことです。ここでは単に「先帝」とあります。しかし「崇福寺」を建てたのが「天智」であるならば、「淡海先帝」などとあって然るべきではないでしょうか。(単に「先帝」では誰のことか不明だからです)
現に「天智」を指すと思われる例があり、そこでは「近江」という名称が前置されています。
「日本後紀』巻卅八逸文(『類聚国史』一七七最勝会)天長七年(八三〇)九月癸酉二」「令薬師寺毎年設最勝王経之会。中納言従三位兼行中務卿直世王奏稱。此寺、清御原天皇、為皇后而所建立也。皇后、『近江帝』之女、柔範光暢、毘賛天倫。皇帝嘉寵、建斯仁祠。而創基未竟、宮車晏駕。皇后含悲帰仏、終成宝刹。如今、所入封物田地、充用有剰、学衆稍多、説法猶少。夫大雄慈悲、不進而希応。至理澹泊、不銓而難知。請、毎年開設斎筵、屈宿徳、演説尊経、決択奥義。便以在播磨国賀茂郡水田七十町、充其供料、庶扇覚風而慰先霊、飛慈雲而増聖寿。三光縦沈、慧炬無滅、五岳如砺、梵声不止。庶講読就此試定。立為恒例。許之。」
ここでは「近江帝」と表記されており、「先帝」ではありません。
上に見るように実際に「崇福寺」の初出は『聖武紀』であり、「天智」の時代ではありません。この『日本後紀』及び先行する『続日本紀』あるいは『書紀』の中で「崇福寺」(志我山寺も同様)が「天智」の創建によるものということは一切書かれていません。つまりここに「先帝」とあるだけでは誰のことなのか不明なのです。
少なくとも「先帝」といえば「天智」というような等式はこれら「史書」の中では成立していませんから、「史書」を見ているだけでは誰のことかが判らないということとなります。このことは少なくとも「無条件」に「天智」とは言い得ないことを示すものであり、他の状況から判断することとならざるを得ないものです。
先に挙げた仏教関係の資料等はその成立がこの『日本後紀』を下るものばかりですから、遡って理解するというのは方法として正しくはないと思われます。また、それらによっても、「崇福寺」は「淡海」の都の守護として建てられたとされていますが、「淡海」に都があったのは上に見るように「天智」だけではなく、「聖武」の「紫香楽宮」も該当すると思われますから、「崇福寺」が本来「紫香楽宮」周辺の寺院を指すということも充分考える必要があることとなります。
後述するように「あめのみかど」(天帝)という称号が「聖武」に使用されるに及んで、「天智」の呼称として使用されていた「あめのみこと」(天命)と混同され、その結果「聖武」と「天智」の事跡のいくつかについて、「混乱と同一化」が進行した結果「大津宮」至近の「志我山寺」が「崇福寺」と呼称(あるいは誤認か)されるようになったのではないかと推察します。
「聖武」が「崇福寺」を建てたのなら、「桓武」「嵯峨」両帝が「聖武」のことを「先帝」と呼称していることとなり、それは「無形容」であることと関連があるとも言えるでしょう。「淡海先帝」とするとそれこそ「天智」のこととなってしまいますから、そうは受け取られないように「無形容」なのだと思われます。「聖武」は「持統」の孫であり「天智」の曾孫に当たりますから、「天智」に傾倒する彼らにとって特別な存在であったとしても不思議ではありません。
仮に、この「崇福寺」という寺院が「天智」の創建であり、(つまり「先帝」も「天智」であるとして)「志我山寺」が「崇福寺」と同じであったとしても、その「志我山寺」が「天智」の創建であるという記事は『書紀』にも『続日本紀』にも現れないことを別に説明する必要があるでしょう。更に「嵯峨」以前に「崇福寺」へ「行幸」した「天皇」がいないという不審も説明しなければなりません。(前述したように「志我山寺」への行幸は存在し、それは「聖武」が行ったものです)
既に述べたように「元明紀」には「志我山寺」「筑紫尼寺」と並んで「観世音寺」の寺封の打ち切りについての記事があります。そこでは「志我山寺」について「三十年経過している」旨のことが書かれていました。それに対し「観世音寺」は「五年」とされています。また同様に「元明紀」には「観世音寺」について、「天智の誓願」になる寺院であって、進捗がはかばかしくないという意味のことが書かれています。
「和銅二年(七〇九年)二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」
これらを見ると「観世音寺」と「志我山寺」は全く扱いが異なり、「志我山寺」については「天智」との関連が語られていないことに気づきます。そのことは「志我山寺」について、「天智の誓願」にかかる寺院ではなく(観世音寺と異なり)また順調に建設が進んだことらしいことが推察できます。つまり、「崇福寺」が「志我山寺」と同一であったとしても、それが「天智」と関連しているとは言えない事を示すものです。
また「紫香楽宮」の遺跡からは「なにはづ」と「あさかやま」が書かれた「歌木簡」が出ています。この「歌木簡」は「儀式」(「即位」あるいは「遷都」等重要なもの)の際に読み上げられたものと推測され、それはこの「紫香楽宮」が「都」とされ、「大盾」を建てたという記事ともつながり、この地が「聖武」にとって重要な場所であったことが推測できるとともに、そういう「風習」ないし「伝統」が当時の王権にあったことが推測できます。それはまた、この「なにはづ」と「あさかやま」が往時の「倭国王権」にとって重要なものであったことを推測させるものであり、「勝満」という自称を「聖武」がしていたことを考えると、この「なにはづ」の歌を詠み上げることとその「なにはづ」の歌そのものが「七世紀初め」の「倭国王権」への傾倒を示すものと見ることもできると思われ、その起源として「阿毎多利思北孤」の時代が措定されるべきと考えられるものです。
「日本後紀卷十一逸文(『類聚國史』一八〇諸寺・『日本紀略』)」「延暦二十二年(八〇三)十月丙午【廿九】丙午。制。崇福寺者、『先帝』之所建也。宜令梵釋寺別當大法師常騰、兼加検校。」
「日本後紀卷廿七逸文(『日本紀略』)」「弘仁十年(八一九)九月乙酉【十】》乙酉。勅。崇福寺者、『先帝』所建、禪侶之窟也。今聞。頃年之間、濫吹者多。云々。宜加沙汰、勿汚禪庭、所住之僧、不過廿人。但有死闕、言官乃捕之。」
本来「先帝」とはその字義通り「先代」の「帝」を指す言葉であったものです。例えば『聖武紀』には「文武」を「先帝」と称する例があり、「孝謙」の時代には「聖武」を「先帝」と記した例しか見あたらないなど、多数の「前代」の天皇を指す例が確認できます。ただし、「元明」の時代に「天智」「天武」を「先帝」と称した例も存在していますが、それらは全て「前後関係」から「特定」可能な例ばかりです。
しかし、上の例では、最初の勅は「桓武天皇」が出されたものであり、後のものは「嵯峨天皇」から出されたものですから、当然双方の「先帝」は「先代」の「帝」という用法ではないこととなりますが、問題は「天皇」を特定する形容がされていないことです。
たとえば、『懐風藻』を見るとそこには「淡海先帝」とあります。これが「天智」ないし「利歌彌多仏利」を指すとすると、「淡海三船」の時代から一〇〇年以上前のこととなり、かなり遡上した例であることが判ります。
上の「桓武と「嵯峨」両帝の例における「先帝」がもし同様に「天智」を指すとすると、この「先帝」もかなり遡上すると考えなければなりませんが、問題は「淡海(近江)」というような「天皇の代」を特定するべき形容が前置されていないことです。ここでは単に「先帝」とあります。しかし「崇福寺」を建てたのが「天智」であるならば、「淡海先帝」などとあって然るべきではないでしょうか。(単に「先帝」では誰のことか不明だからです)
現に「天智」を指すと思われる例があり、そこでは「近江」という名称が前置されています。
「日本後紀』巻卅八逸文(『類聚国史』一七七最勝会)天長七年(八三〇)九月癸酉二」「令薬師寺毎年設最勝王経之会。中納言従三位兼行中務卿直世王奏稱。此寺、清御原天皇、為皇后而所建立也。皇后、『近江帝』之女、柔範光暢、毘賛天倫。皇帝嘉寵、建斯仁祠。而創基未竟、宮車晏駕。皇后含悲帰仏、終成宝刹。如今、所入封物田地、充用有剰、学衆稍多、説法猶少。夫大雄慈悲、不進而希応。至理澹泊、不銓而難知。請、毎年開設斎筵、屈宿徳、演説尊経、決択奥義。便以在播磨国賀茂郡水田七十町、充其供料、庶扇覚風而慰先霊、飛慈雲而増聖寿。三光縦沈、慧炬無滅、五岳如砺、梵声不止。庶講読就此試定。立為恒例。許之。」
ここでは「近江帝」と表記されており、「先帝」ではありません。
上に見るように実際に「崇福寺」の初出は『聖武紀』であり、「天智」の時代ではありません。この『日本後紀』及び先行する『続日本紀』あるいは『書紀』の中で「崇福寺」(志我山寺も同様)が「天智」の創建によるものということは一切書かれていません。つまりここに「先帝」とあるだけでは誰のことなのか不明なのです。
少なくとも「先帝」といえば「天智」というような等式はこれら「史書」の中では成立していませんから、「史書」を見ているだけでは誰のことかが判らないということとなります。このことは少なくとも「無条件」に「天智」とは言い得ないことを示すものであり、他の状況から判断することとならざるを得ないものです。
先に挙げた仏教関係の資料等はその成立がこの『日本後紀』を下るものばかりですから、遡って理解するというのは方法として正しくはないと思われます。また、それらによっても、「崇福寺」は「淡海」の都の守護として建てられたとされていますが、「淡海」に都があったのは上に見るように「天智」だけではなく、「聖武」の「紫香楽宮」も該当すると思われますから、「崇福寺」が本来「紫香楽宮」周辺の寺院を指すということも充分考える必要があることとなります。
後述するように「あめのみかど」(天帝)という称号が「聖武」に使用されるに及んで、「天智」の呼称として使用されていた「あめのみこと」(天命)と混同され、その結果「聖武」と「天智」の事跡のいくつかについて、「混乱と同一化」が進行した結果「大津宮」至近の「志我山寺」が「崇福寺」と呼称(あるいは誤認か)されるようになったのではないかと推察します。
「聖武」が「崇福寺」を建てたのなら、「桓武」「嵯峨」両帝が「聖武」のことを「先帝」と呼称していることとなり、それは「無形容」であることと関連があるとも言えるでしょう。「淡海先帝」とするとそれこそ「天智」のこととなってしまいますから、そうは受け取られないように「無形容」なのだと思われます。「聖武」は「持統」の孫であり「天智」の曾孫に当たりますから、「天智」に傾倒する彼らにとって特別な存在であったとしても不思議ではありません。
仮に、この「崇福寺」という寺院が「天智」の創建であり、(つまり「先帝」も「天智」であるとして)「志我山寺」が「崇福寺」と同じであったとしても、その「志我山寺」が「天智」の創建であるという記事は『書紀』にも『続日本紀』にも現れないことを別に説明する必要があるでしょう。更に「嵯峨」以前に「崇福寺」へ「行幸」した「天皇」がいないという不審も説明しなければなりません。(前述したように「志我山寺」への行幸は存在し、それは「聖武」が行ったものです)
既に述べたように「元明紀」には「志我山寺」「筑紫尼寺」と並んで「観世音寺」の寺封の打ち切りについての記事があります。そこでは「志我山寺」について「三十年経過している」旨のことが書かれていました。それに対し「観世音寺」は「五年」とされています。また同様に「元明紀」には「観世音寺」について、「天智の誓願」になる寺院であって、進捗がはかばかしくないという意味のことが書かれています。
「和銅二年(七〇九年)二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」
これらを見ると「観世音寺」と「志我山寺」は全く扱いが異なり、「志我山寺」については「天智」との関連が語られていないことに気づきます。そのことは「志我山寺」について、「天智の誓願」にかかる寺院ではなく(観世音寺と異なり)また順調に建設が進んだことらしいことが推察できます。つまり、「崇福寺」が「志我山寺」と同一であったとしても、それが「天智」と関連しているとは言えない事を示すものです。
また「紫香楽宮」の遺跡からは「なにはづ」と「あさかやま」が書かれた「歌木簡」が出ています。この「歌木簡」は「儀式」(「即位」あるいは「遷都」等重要なもの)の際に読み上げられたものと推測され、それはこの「紫香楽宮」が「都」とされ、「大盾」を建てたという記事ともつながり、この地が「聖武」にとって重要な場所であったことが推測できるとともに、そういう「風習」ないし「伝統」が当時の王権にあったことが推測できます。それはまた、この「なにはづ」と「あさかやま」が往時の「倭国王権」にとって重要なものであったことを推測させるものであり、「勝満」という自称を「聖武」がしていたことを考えると、この「なにはづ」の歌を詠み上げることとその「なにはづ」の歌そのものが「七世紀初め」の「倭国王権」への傾倒を示すものと見ることもできると思われ、その起源として「阿毎多利思北孤」の時代が措定されるべきと考えられるものです。