古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-(再度)

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-

 「桓武」「嵯峨」両帝の時代に「崇福寺」に関する「勅」が出され、そこでは「先帝」が(「崇福寺」を)創建したと言うことが語られています。

「日本後紀卷十一逸文(『類聚國史』一八〇諸寺・『日本紀略』)」「延暦二十二年(八〇三)十月丙午【廿九】丙午。制。崇福寺者、『先帝』之所建也。宜令梵釋寺別當大法師常騰、兼加検校。」

「日本後紀卷廿七逸文(『日本紀略』)」「弘仁十年(八一九)九月乙酉【十】》乙酉。勅。崇福寺者、『先帝』所建、禪侶之窟也。今聞。頃年之間、濫吹者多。云々。宜加沙汰、勿汚禪庭、所住之僧、不過廿人。但有死闕、言官乃捕之。」

 本来「先帝」とはその字義通り「先代」の「帝」を指す言葉であったものです。例えば『聖武紀』には「文武」を「先帝」と称する例があり、「孝謙」の時代には「聖武」を「先帝」と記した例しか見あたらないなど、多数の「前代」の天皇を指す例が確認できます。ただし、「元明」の時代に「天智」「天武」を「先帝」と称した例も存在していますが、それらは全て「前後関係」から「特定」可能な例ばかりです。
 しかし、上の例では、最初の勅は「桓武天皇」が出されたものであり、後のものは「嵯峨天皇」から出されたものですから、当然双方の「先帝」は「先代」の「帝」という用法ではないこととなりますが、問題は「天皇」を特定する形容がされていないことです。
 たとえば、『懐風藻』を見るとそこには「淡海先帝」とあります。これが「天智」ないし「利歌彌多仏利」を指すとすると、「淡海三船」の時代から一〇〇年以上前のこととなり、かなり遡上した例であることが判ります。
 上の「桓武と「嵯峨」両帝の例における「先帝」がもし同様に「天智」を指すとすると、この「先帝」もかなり遡上すると考えなければなりませんが、問題は「淡海(近江)」というような「天皇の代」を特定するべき形容が前置されていないことです。ここでは単に「先帝」とあります。しかし「崇福寺」を建てたのが「天智」であるならば、「淡海先帝」などとあって然るべきではないでしょうか。(単に「先帝」では誰のことか不明だからです)
 現に「天智」を指すと思われる例があり、そこでは「近江」という名称が前置されています。

「日本後紀』巻卅八逸文(『類聚国史』一七七最勝会)天長七年(八三〇)九月癸酉二」「令薬師寺毎年設最勝王経之会。中納言従三位兼行中務卿直世王奏稱。此寺、清御原天皇、為皇后而所建立也。皇后、『近江帝』之女、柔範光暢、毘賛天倫。皇帝嘉寵、建斯仁祠。而創基未竟、宮車晏駕。皇后含悲帰仏、終成宝刹。如今、所入封物田地、充用有剰、学衆稍多、説法猶少。夫大雄慈悲、不進而希応。至理澹泊、不銓而難知。請、毎年開設斎筵、屈宿徳、演説尊経、決択奥義。便以在播磨国賀茂郡水田七十町、充其供料、庶扇覚風而慰先霊、飛慈雲而増聖寿。三光縦沈、慧炬無滅、五岳如砺、梵声不止。庶講読就此試定。立為恒例。許之。」

 ここでは「近江帝」と表記されており、「先帝」ではありません。
 上に見るように実際に「崇福寺」の初出は『聖武紀』であり、「天智」の時代ではありません。この『日本後紀』及び先行する『続日本紀』あるいは『書紀』の中で「崇福寺」(志我山寺も同様)が「天智」の創建によるものということは一切書かれていません。つまりここに「先帝」とあるだけでは誰のことなのか不明なのです。
 少なくとも「先帝」といえば「天智」というような等式はこれら「史書」の中では成立していませんから、「史書」を見ているだけでは誰のことかが判らないということとなります。このことは少なくとも「無条件」に「天智」とは言い得ないことを示すものであり、他の状況から判断することとならざるを得ないものです。
 先に挙げた仏教関係の資料等はその成立がこの『日本後紀』を下るものばかりですから、遡って理解するというのは方法として正しくはないと思われます。また、それらによっても、「崇福寺」は「淡海」の都の守護として建てられたとされていますが、「淡海」に都があったのは上に見るように「天智」だけではなく、「聖武」の「紫香楽宮」も該当すると思われますから、「崇福寺」が本来「紫香楽宮」周辺の寺院を指すということも充分考える必要があることとなります。
 後述するように「あめのみかど」(天帝)という称号が「聖武」に使用されるに及んで、「天智」の呼称として使用されていた「あめのみこと」(天命)と混同され、その結果「聖武」と「天智」の事跡のいくつかについて、「混乱と同一化」が進行した結果「大津宮」至近の「志我山寺」が「崇福寺」と呼称(あるいは誤認か)されるようになったのではないかと推察します。
 「聖武」が「崇福寺」を建てたのなら、「桓武」「嵯峨」両帝が「聖武」のことを「先帝」と呼称していることとなり、それは「無形容」であることと関連があるとも言えるでしょう。「淡海先帝」とするとそれこそ「天智」のこととなってしまいますから、そうは受け取られないように「無形容」なのだと思われます。「聖武」は「持統」の孫であり「天智」の曾孫に当たりますから、「天智」に傾倒する彼らにとって特別な存在であったとしても不思議ではありません。
 仮に、この「崇福寺」という寺院が「天智」の創建であり、(つまり「先帝」も「天智」であるとして)「志我山寺」が「崇福寺」と同じであったとしても、その「志我山寺」が「天智」の創建であるという記事は『書紀』にも『続日本紀』にも現れないことを別に説明する必要があるでしょう。更に「嵯峨」以前に「崇福寺」へ「行幸」した「天皇」がいないという不審も説明しなければなりません。(前述したように「志我山寺」への行幸は存在し、それは「聖武」が行ったものです)
 既に述べたように「元明紀」には「志我山寺」「筑紫尼寺」と並んで「観世音寺」の寺封の打ち切りについての記事があります。そこでは「志我山寺」について「三十年経過している」旨のことが書かれていました。それに対し「観世音寺」は「五年」とされています。また同様に「元明紀」には「観世音寺」について、「天智の誓願」になる寺院であって、進捗がはかばかしくないという意味のことが書かれています。

「和銅二年(七〇九年)二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」

 これらを見ると「観世音寺」と「志我山寺」は全く扱いが異なり、「志我山寺」については「天智」との関連が語られていないことに気づきます。そのことは「志我山寺」について、「天智の誓願」にかかる寺院ではなく(観世音寺と異なり)また順調に建設が進んだことらしいことが推察できます。つまり、「崇福寺」が「志我山寺」と同一であったとしても、それが「天智」と関連しているとは言えない事を示すものです。
 また「紫香楽宮」の遺跡からは「なにはづ」と「あさかやま」が書かれた「歌木簡」が出ています。この「歌木簡」は「儀式」(「即位」あるいは「遷都」等重要なもの)の際に読み上げられたものと推測され、それはこの「紫香楽宮」が「都」とされ、「大盾」を建てたという記事ともつながり、この地が「聖武」にとって重要な場所であったことが推測できるとともに、そういう「風習」ないし「伝統」が当時の王権にあったことが推測できます。それはまた、この「なにはづ」と「あさかやま」が往時の「倭国王権」にとって重要なものであったことを推測させるものであり、「勝満」という自称を「聖武」がしていたことを考えると、この「なにはづ」の歌を詠み上げることとその「なにはづ」の歌そのものが「七世紀初め」の「倭国王権」への傾倒を示すものと見ることもできると思われ、その起源として「阿毎多利思北孤」の時代が措定されるべきと考えられるものです。
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「近江崇福寺について」(4)-菩提遷那について-(再度)

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

近江崇福寺について(4)-菩提遷那について-

 このように「行基」が「崇福寺」の創建に関わっているとみるのは「菩提遷那」(「婆羅門僧正」)という人物との関連からも推定できます。
 この人物は「遣唐使」であった「多治比広成」「学問僧理鏡」「中臣名代」らの要請により「天平六年」(七三六年)に「唐」より来日した「インド人僧」であり、彼が来日した際には「行基」が出迎えをするなど歓迎を受けています。そして彼は「東大寺」の大仏開眼の際には「導師」として「大仏の目に墨を入れる」という大任を果たしており、「聖武天皇」以下王権内部から強力な支持を受けていた事が解ります。その理由としてはやや不明な点はありますが、「大仏」つまり「毘盧舍那佛」そのものが「華厳経」に関連しているものであり、「菩提遷那」はその「華厳経」を常に読経していたとされますから、「毘盧舍那佛像」を造るという中に「菩提遷那」がかなり指導的役割をしていたものではないかと考えられます。
 またそれは後日「東大寺」を建立するために、「行基」(及び「橘諸兄」)が「伊勢神宮」に遣わされ、「舎利」を献上することで「伊勢神宮」の領地(飯高郡)から寄進を受けることとなったという経緯があったという「伝承」とも関連しているとされます。なぜならその「舎利」は「菩提遷那」が「天竺」から持ち来たったものとされているからです。そして、その「舎利」について「伊勢神宮」ではこれを「(如意)寶珠」であるとして歓迎したとされます。(『行基菩薩秘文』による)
 それによれば「日輪」(これは天照大神)すなわち「大日如来」の本地は「廬舎那仏」であるとして、「大仏」を作りそれを収容する寺院を造ることを「善いこと」であるとしています。

「「天平十四年十一月二日、右大臣正二位橘朝臣諸兄、為勅使参入伊勢太神宮、天皇御願寺可建立之由所被祈也。爰件勅使帰参之後、同十一月十五日夜示現給。帝皇御前、玉女坐而放金光(天)宜(久)当朝ハ神国、尤可奉欽仰神明給也。而日輪者大日如来也。本地者蘆舎那仏也。衆生者悟解此理、当帰依仏法也園囿。御夢覚給之後、弥堅固御道心給、始企件御願寺給也。謂東大寺是也。…
実相真如之日輪、明生死長夜之闇/本有常住之月輪、掃無明煩悩之雲/我遇難遇之大願、於闇夜如得之燈/亦受難受之宝珠、於渡海如請之《請之》船/造聖武大仏殿故、慶豊受大神宮事/善哉善哉■■■、神妙神妙自珍者/《五》先垂跡地神霊、富相応所安一志/飯高施福衆生故、…」

 これについては一般には「平家」によって「東大寺」が焼亡した際に再建のため「伊勢神宮」に「重源上人」が「後白河法皇」から遣わされた時点で作られた話と解釈されています。しかし、そもそもこの「伊勢」参詣が「天平の創建時に伊勢に祈願したという先例」に基づくものであったとされており、そのような事実がないにも関わらず「先例」に基づくとしても説得力がないのは確かですから、話の内容から考えて実話であったという可能性が高いと思われます。そう考えて矛盾がないという点が重要です。飯高郡の豪族らしい人物が以下のように「位」を授けられているのはその現れと思われます。

「天平十年(七三八年)九月丙申朔甲寅。伊勢國飯高郡人无位伊勢直族大江授外從五位下。」
「天平十四年(七四二年)夏四月甲申。伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族縣造等。皆賜飯高君姓。…」

 また「伊勢神宮」への参詣については多くの史料が「行基」と共に「橘諸兄」についても記していますが、『続日本紀』には確かに「伊勢神宮」へ使者として「橘諸兄等」が派遣された記事があります。

「天平十年(七三八年)五月辛夘。使右大臣正三位橘宿祢諸兄。神祇伯從四位下中臣朝臣名代。右少弁從五位下紀朝臣宇美。陰陽頭外從五位下高麥太。齎神寳奉于伊勢大神宮。」
 
 この派遣の後に飯高郡の「无位伊勢直族大江」に対して「外從五位下」を授けるという褒賞が行われており、これは「飯高郡」からの調庸の施入に対するものではなかったかと考えられるものです。(特に銀あるいは水銀という特殊な金属材料が産出していた記録があり、これが目的であったとも考えられるでしょう)
 この時と前後して(時期は史料により異なる)「行基」も派遣されたとする伝承があります。たとえば『日本帝皇年代記』によれば「行基」は「天平十三年」に「伊勢神宮」に「仏舎利」を献上するため派遣されています。

「辛巳(天平)十三 勅行基法師、授仏舎利一粒、献伊勢太神宮、有種々神託…」

 この時の「仏舎利」が「菩提遷那」の提供したものであると言われているわけであり、そのことは「廬舎那佛」の造仏に際して「菩提遷那」の深く関わっていることと、それにさらに「伊勢神宮」とが関連していることを示すものです。
 その「菩提遷那」が「唐」に滞在していた時点で所在していた寺院が長安(西京)の「崇福寺」なのです。
 後に「鑑真」が来日した際に「菩提遷那」が慰問に訪れ、「長安」の「崇福寺」であなたに「律」を教えられたことがあるか覚えているかという問いに「鑑真」が覚えていると返事したとされます。

(「東大寺要録」「大和尚伝」より)「…後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」
 
 つまり「菩提遷那」と「崇福寺」とは特別な関係であり、「インド」から唐に渡ってきた「菩提遷那」が(期間は不明ですが)学問僧として「崇福寺」に滞在していたものであり、その時点で「鑑真」を初めとした高僧から教義を授けられた意義深い場所であったものです。この「崇福寺」と今「紫香楽」の地にその創建を措定している寺院名が同じ「崇福寺」であるのは偶然ではなく、「行基」や「聖武天皇」は「菩提遷那」のために「長安」の「崇福寺」を再現しようとして同じ寺名の寺院を我が国にも作ろうとしていたのではないかと推察されるわけです。
 上に見るように『日本帝皇年代記』に拠れば(紫香楽の)「廬舎那仏」は「長一十六丈」とされ(これは「釈迦」の身長とされる「一丈六尺」の十倍となります)、大きさが指定されていることから実際には造られたものと考えられます。ただしこれがうまく行ったのかどうかは不明であり、大きすぎると型の内部で気泡などができやすく鋳造はかなり困難を極めたという可能性が高いと思われます。
 また「正倉院文書」の中の「筑後国正税帳」をみると、『造同( 銅) 竈工人』が献上された」旨の記事があります。これが「天平十年(七三八年)」のこととされていますから、上に見る伊勢神宮への参詣などと一環の事象であったことが推定され、彼らが「菩提遷那」と「廬舎那佛」の造仏に深く関わっているのは明白と思われます。彼らは「聖武」が「紫香楽」に建造する予定であった(実際に建造したか)寺院(これが「崇福寺」と考えられる)に「廬舎那仏」を安置するための要員であったという可能性があると思われ、このような「巨大金銅仏」の建造に関わる技術や知識も旧王権である「筑後」によらなければならなかった事情が垣間見えるものです。(実際に「筑後」の「国衙遺跡」からは「鉄滓」・「銅滓」、ふいごの「羽口」・坩堝などが出土するなど「鉄」や「銅」を精錬していた痕跡が確認されています。)
 「金銅仏」などを製作する技術も「筑後」が先行していたものであり、「王都」には「金銅仏」を要する寺院が多数あったことが推測されますが、それは「遣隋使」派遣時点以降本格的な仏教導入とその拡大が行われたことが明らかとなっており、それは当然「金銅仏」などの製造も必要となったと考えられる事につながるものだからです。
 「唐」の都「長安」にあった「崇福寺」ならば「菩提遷那」との関連で「聖武」や「行基」にとって特別の意義があったとみられ、それにちなんで命名したとして不思議はありません。しかも以下の史料からみて「長安」の「崇福寺」は「武則天」時代の「垂供末年」(六八八年)以降でなければ「崇福寺」という寺名ではなかったことが明らかです。
 彼が来日する以前に所在していたとされる長安の「崇福寺」は当初「西太源寺」という寺院であったとされます。

「周西京廣福寺日照傳/地婆訶羅。華言日照。中印度人也。洞明八藏博曉五明。戒行高奇學業勤悴。而呪術尤工。以天皇時來遊此國。儀鳳四年五月表請翻度所齎經夾。仍準玄奘例。於一大寺別院安置。并大德三五人同譯。至天后垂拱末。於兩京東西太原寺《西太原寺後改西崇福寺。東太原寺後改大福先寺》及西京廣福寺。…」
(「宋高僧傳卷二/譯經篇第一之二正傳十五人 附見八人/周西京廣福寺日照傳」より)

 これをみると「崇福寺」は「天后垂拱末」つまり「六八八年」という段階ではまだ「西太原寺」という寺院名であり、「崇福寺」という寺院名に変えられるのはそれより後のことであったことがわかります。その意味からも『天智紀』の創建ではなかった可能性が高いと言えるでしょう。
 それに対しこの「崇福寺」が「七世紀半ば」の創建であるというのがもし正しいとすると、その「寺名」は別の由緒を考えなければなりませんが、その場合、「南朝」の首都建康に「晋(東晋)」の時代にあった「崇福院」に由来すると言う考えもあり得ます。「崇福寺志」によればその創建は「北宋」の「擁熙年間」という説もあれば「東晋」にあった「崇福院」がそれであるという説もあるなどとされ、定まっておらず、いわゆる天智朝の時代に存続し続けていたものかは疑わしいともいえるでしょう。(それが倭国に認知されていたかも同様に疑わしいといえます)
 またこの「紫香楽宮」の至近には後年「甲賀寺」があったとされます。そこに「盧舎那仏像」を建てる予定があったという伝承が伝えられています。推測するとこの「甲賀寺」が本来の「崇福寺」ではなかったでしょうか。
 またここに「甲賀寺」が建てられたとすると、『敏達紀』に登場する「弥勒像」を伝えたという「鹿深臣」との関連が考えられます。

「敏達十三年(五八四年)秋九月条」「從百濟來鹿深臣闕名字。有彌勒石像一躯。佐伯連闕名字。有佛像一躯。」
 
 この「鹿深」は「甲賀」と同一の地であり、ここがその「鹿深臣」の勢力の範囲であって、そこには「弥勒」に関する信仰拠点のようなものがあったとしても不思議ではありません。
 そう考えれば、当初「崇福寺」して建てられたもののその後「甲賀寺」として残ったということが推定されます。
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「近江崇福寺について」(2)(再度)

2024年02月23日 | 古代史
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「近江崇福寺について」(2)

 「天智」が左手無名指を切り落としたという伝承についてすでに述べましたが、それらを記した各種史料には「天智」が創建したとされる「崇福寺」について、その創建が「天智七年」あるいは「戊辰」の年と記され、これは通常「六六八年」の事と理解されています。しかし、それは以下の記事等から疑問と考えられます。

(『日本帝皇年代記(上)』より)「戊辰(白鳳)八」「行基並誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、(改行)志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(二行書きになっています)

 この『日本帝皇年代記』の特徴として、「寺院」の建立創建記事がある場合は、必ずその「主体」が書かれています。これに従えば上の「(崇)福寺」と「百済寺」の主体は「行基」と判断せざるを得ません。そうであれば、この年次は「行基」の誕生を記したものですから、この年に「行基」により建てられたはずがないこととなります。
 一見この記事の全ては冒頭の「戊申(白鳳)八」という年次にかかるものと理解されそうですが、実際にはこの年次の記事は全て「行基」に関わるものであり、「改行」以降は彼の生前の業績を記した文章であると考えられます。もしこの記事の順序が逆で「行基」の誕生記事が後に書かれてあれば「(崇)福寺」と「百済寺」の創建の主体は「天皇」(倭国王)と言うこととなると思われますが、この場合は「行基」の業績として「崇福寺」と「百済寺」が挙げられていると考えるべきです。
 また、この中に書かれた「百済寺」は現在も「志賀県東近江市」に存在する寺院と考えられ、「志賀」という郡名は「(崇)福寺」と「百済寺」の双方にかかると思われます。結局この「福寺」というのが「崇福寺」を指すとすると、その創建年はずっと後の事となり、「行基」による開基であるとすると、「八世紀」に入ってからの事と考えざるを得なくなるでしょう。
 ここに書かれたものの「原資料」となったものについては他の「崇福寺」と「天智」をつなげる「史料群」と「原資料」が共通であったものと見られ、それらにおいてはこの記事を「行基」と切り離して、「六六八年」という年次に「福寺」と「百済寺」創建が成されたと「誤解」したという可能性があると思われます。つまり、他の「史料」(前項で例としてあげた『扶桑略記』『元享釈書』等)などでは、原史料を見誤り、この年次(六六八年)の「創建」として誤伝したという可能性があると推定され、実際にはもっと遅い時期のことであったと見られる訳です。それを示すものが『続日本紀』における「崇福寺」の初出時期です。
 「崇福寺」は「聖武」の時代に始めてその寺名が現れます。またそれは「紫香楽宮」を設営後に始めて現れるという事も確認できます。つまり、「紫香楽村」に「離宮」を作ったというのが「七四二年」のこととされますが、「崇福寺」という寺名の初出はその「七年後」です。

『続日本紀』「天平十四年(七四二年)八月癸未条」「詔曰。朕將行幸近江國甲賀郡紫香樂村。即以造宮卿正四位下智努王。輔外從五位下高岡連河内等四人。爲造離宮司。」

『同』「天平廿一年(七四九年)閏五月甲午朔癸丑条」「…『崇福。』香山藥師。建興。法花四寺。各?二百疋。布四百端。綿一千屯。稻一十万束。墾田地一百町。…」

 しかし、ここでもこの「崇福寺」が「天智」の創建である旨の注記等は一切ありません。もしここに以前から「崇福寺」があり、それが「天智」の勅願であったならそれに言及しないというのは考えられません。
 さらにこの「紫香楽宮」の至近には「寺地」が開削され、そこに「盧舎那仏像」を建てる予定であったとされます。

『続日本紀』「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳条」「詔曰。…粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。…」
『同』「同月壬午条」「東海東山北陸三道廿五國今年調庸等物皆令貢於紫香樂宮。」
『同』「同月乙酉条」「皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 ここにみられる「詔」は「聖武」の「廬舎那佛」を造る意気込みを物語るものとして著名なものですが、これは「紫香楽宮」で出されたものであり、ここでは「盧舍那佛像」の為の「寺院」を「開く」とされ、また「削大山以構堂」とされていますから、山勝ちの場所を切り開き「寺地」を確保しようとしていることが判ります。
 「聖武」は当初ここに「大仏殿」を建てるつもりでいたものであり、骨組みの中心となる部分までは建てられていました。

「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。」

「同月乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 この詔でも「削大山講堂」とされ(これは一部実行されたもののようですが)、このことからも「寺院」と山が近接した地形であることが知られます。文脈からみてこれが「紫香楽宮」の至近に開く予定のものであったことは間違いないものですが、さらに「行基法師」が弟子達を引き連れ、多くの人々を「勧誘」したとされています。ここにおいてこの「寺地」と「行基」の間に関係があることが推測できます。この「寺地」こそが本来の「崇福寺」に相当するものではなかったと考えられるものであり、この事が『日本帝皇年代記』に書かれた「行基」の業績としての「崇福寺」の開基であったと考えられないでしょうか。
 この「紫香楽宮」は各種資料からここに「正式」に遷都され「都」として機能していたことが明らかとなっています。そうであれば「都」を「鎮護」する「寺院」がなかったはずはないこととなるでしょう。そう考えれば上に見た寺院は確かにこの時点で創建されたものであり、「盧舎那仏像」を造る計画が正式に進行していたこととなります。
 これについては『日本帝皇年代記』にも「紫香楽」に「廬舎那仏」を造ったという記事があり裏付けられます。

「癸未十五(七四三年)十月十五日帝近江信楽京鋳初廬遮那佛銅像/長一十六丈、依良弁勧化也」

 ただしここではなぜか寺院名が書かれていませんし、また「行基」ではなく、彼の弟子である「良弁」の勧化(勧進)であるように書かれています。しかし、この時「行基」と「良弁」はほぼ一体となって行動していましたから、この「良弁」の行動も「行基」の意思を体したものと考えて問題ないものと思われます。
 『日本後紀』には「崇福寺」と「梵釈寺」の両方について「禅侶の聖なる地」であることを述べる下りがあります。

『日本後紀』巻廿四弘仁六年(八一五)正月丁亥十五」「…又崇福梵釋二寺者。禪居之淨域。伽藍之勝地也。今聞。道俗相集。還穢佛地。繋馬牽牛。犯汗良繁。宜令近江国嚴加禁斷。若有不從制者。五位已上録名。六位已下留身。並言上。」

 ここでは、あたかもこの二寺院だけがいわば「特別扱い」されているように見えます。しかし数ある「寺院」の中でこの両寺院だけが「道俗相集、還穢佛地」であったとは思われません。多くの寺院においても同様であったのではないかと考えられます。しかし、「嵯峨天皇」はこの両寺院に限って「淨域」とし、また「佛地」であるとされ、その神聖性を保つようにと言う「勅」を出しているわけです。このことから、「嵯峨」にとって、「崇福寺」と「梵釈寺」は重要な意味を持つものと位置づけられていたようです。
 ところで、「梵釈寺」はその創建が「桓武天皇」の時代とされています。この両寺院が並び称されているように見える事から、「崇福寺」についてもそれほどその創建が遡らないのではないかという推定が出来ると思われます。
 また「崇福寺」の位置を推定可能な資料が存在しています。
 上の『日本後紀(逸文)』では「崇福寺」と「梵釈寺」が並べて記され、「梵釈寺」の別当が「崇福寺」についても兼務し、「検校」を加えるようにと「勅」が出されています。
 この「梵釈寺」はその場所が現「東近江市蒲生」付近にあったものと推定されており、これは「大津」の「崇福寺」とされる寺院のある場所からはかなり遠いものの、「紫香楽宮」からはほど近く、「崇福寺」が「紫香楽宮」至近にあったとすると納得のいく記述であると思われます。
 さらに同様のことは『日本後紀(逸文)』の「嵯峨天皇」の行幸記事からも言えそうです。
 そこでは「滋賀」の「韓埼」へ行幸するとして、まず「崇福寺」を過ぎた後「梵釈寺」へと行き、そこから「湖」(琵琶湖)へ出ています。
  
「弘仁六年(八一五年)四月癸亥【廿二】」「幸近江國滋賀韓埼。便過崇福寺。大僧都永忠。護命法師等。率衆僧奉迎於門外。皇帝降輿。升堂禮佛。更過梵釋寺。停輿賦詩。皇太弟及群臣奉和者衆。大僧都永忠手自煎茶奉御。施御被。即御船泛湖。國司奏風俗歌舞。五位已上并掾以下賜衣被。史生以下郡司以上賜綿有差。」

 この行幸ルートから考えた場合、これを旧「大津京」を経由したとすると、「梵釈寺」へ行く道順が「迂回」ルートとなってしまい、遠回りになってしまいます。そう考えると、これは旧「紫香楽宮」を経由して「梵釈寺」に行きそのまま「湖」(琵琶湖)へ出たものと考えるとわかりやすいと思えます。その場合「崇福寺」を「紫香楽京」付近に措定することが可能であり、また妥当であると考えられることとなります。(「梵釈寺」については創建時の場所は違うという説もありますが、詳細は不明であり、また再建される際に全く別の場所が選ばれる理由も併せて不明ですから、当初からここに存在したという可能性も高いと思料します)
 「嵯峨」の「詔」には「禅侶之窟」という表現がされています。この「窟」は「比喩」ではなく実際に「洞窟」状の地形をしていることを表していると見るべきであり、「崇福寺」がその背後に「崖」のようなものがあり、そこに「窟」があったことを推察させます。しかし「大津京」の至近にある「崇福寺」とされる「寺院跡」は、確かに山中にはあるものの「洞窟状」のものは発見されておらず、合致しないものと推定されます。
 それに対し「紫香楽宮」の「甲賀寺」の後背地には「崖」が存在しそこに「石仏」を刻む予定であったことが推定されています。(「聖武」は当初ここに「大仏殿」を建てるつもりでいたものであり、骨組みの中心となる部分までは建てられていたようです。

「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。」

「同月乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 このことから「紫香楽宮」至近に「崇福寺」の所在を想定することは可能と思われる訳です。
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「近江崇福寺について」(1)(再度)

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

「近江崇福寺について」(1)

 『二中歴』によれば「白鳳年間」(六六一年から六八四年)に「観世音寺」は創建されたことになっています。また『日本帝皇年代記』によれば「庚午年」(六七〇年)の創建とされています。しかし『続日本紀』によれば「七〇九年」になって「元明天皇」の「詔」が出ており、それによれば「『観世音寺』は『天智天皇』の誓願により『斉明天皇』の菩提を弔うために建てられることとなったが進捗しておらずまだできていない」とされています。つまり「七〇九年」の時点で「未完成」というわけです。
(以下『続日本紀』に書かれた「元明天皇の詔」)

「七〇九年」「慶雲六年」「二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺 淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月差發人夫專加検校早令營作。」

 これに対し「大宰府」遺跡から発掘された「観世音寺」の「創建時のもの」とされる「瓦」(老司Ⅰ式)については、その形式から「七世紀中葉」のものとされ、「大宰府政庁Ⅱ期」(老司Ⅱ式及び鴻廬館式瓦の使用)に先立つこと「五-十年程度」と推定されています。また「老司一式」瓦には更に「大きく」二種類あるとされており、それは時代の差であると考えられているようです。このことは「上」に見た「創建」の年次と「進捗」を促す詔の年次付近とふたつの時期があったことと重なる事実です。つまり、発掘から判定された「瓦」の年代測定と『二中歴』の記事は矛盾しないと考えられるとともに、「元明天皇」の「詔」とも合致することとなるわけです。このことは「創建時期」としては「六六一年」以降の時期(「白鳳年間」)と考えて問題ないことを示します。しかしそれは以下の「太政官処分」記事と矛盾します。

「大宝元年(七〇一年)八月…甲辰。太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」

 この「太政官処分」に関しては「矛盾」に充ちており、整合的解決が困難の様に思われますが、少なくとも上で見た「元明」から出された「詔」とは大きく矛盾しています。
 この「太政官処分」記事については、そこに書かれた「庚子年」という年次が「一部」の「写本」にある「庚午」であったとして考えても、「観世音寺」の工事進捗状況とは全く一致しません。もし「庚午年」からであったとして「志我山寺」について「三十年」経過しているというように解釈しても、「処分」時点は「七〇〇年」となり、そこから五年逆算すると「観世音寺」が建てられたのが「六九五年」になってしまいますが(※)、これは上に見た「創建記事」や「元明」の「詔」とも整合していないと言う「矛盾」は以前として残ります。
 この「太政官処分」の重要な点は「三十年」と「五年」です。「五年」という年限は、『大宝令』の以下の規定によっていると思われます。

「禄令 寺不在食封之例条」「凡寺。不在食封之例若以別勅権封者。不拘此令(権。謂。五年以下。)」

 つまり、「寺は食封の例に入れない、ただし「勅」として封戸を施入するときは五年を限る」というわけです。また「三十年」という年数については、「天武」の時代に出された「勅」(以下のもの)に準拠しているものと考えられます。

(六八〇年)九年夏四月是月条」「勅。凡諸寺者。自今以後。除爲國大寺二三以外。官司莫治。唯其有食封者。先後限卅年。若數年滿卅則除之。且以爲。飛鳥寺不可關于司治。然元爲大寺而官司恒治。復嘗有功。是以猶入官治之例。」

 そこでは今後「寺封」は三十年を限度とするというわけであり、この「太政官処分」がこれらの規定を踏まえた上で出されているというのは確実ですから、「五年」と「三十年」という「年数」は「動かせない」わけです。つまり、「七〇一年」を表すと思われる「大寶元年」を動かすか「庚子年」を動かすかあるいは両方を変えるか、いずれかでなければ整合的解決は見いだせません。
 ただ、いずれにせよ「観世音寺」及び「筑紫尼寺」と「志我山寺」について扱いが大きく異なる事というに気がつきます。「志我山寺」については建てられてから「三十年」経過していると言うことであり「観世音寺」及び「筑紫尼寺」はまだ五年しか経過していないというのですから、全く置かれた状況が異なっている事が解ります。一般には「観世音寺」も「志我山寺」も同じ「天智」の「発願」によるとされていますが、「志我山寺」だけが建設が中断することなく進捗したかのように見られることとなると同時に、「寺封」も受け続けていたことにもなります。しかし、その様な事があり得るでしょうか。 
 そもそも「壬申の乱」後「大友皇子」の「近江朝廷」(「近江大津宮」)は「廃墟」となったと考えられ、その「近江京」の片隅に存在していた「寺院」が「無事」で済んだはずもないと考えられるものであり、それが「八世紀」まで存続していたとか、寺封をそのまま受け続けていたというようなことははなはだ考えにくいものです。
 また、重要なことは「近江大津京」跡の「崇福寺跡」とされる遺跡の発掘の結果、その塔心礎から「無文銀銭」が発見されているということです。
 発掘された「塔心礎」からは「金銅」「銀」「金」「瑠璃」の四壺に納められた「地鎮具」が発掘され、その中に「無文銀銭」が存在していました。このような「入れ子式」の「舎利容器」は「南朝」から「百済」へとつながる系譜を持つものであり、この「志我山寺」についても同様に「百済」を通じて「南朝」とつながることを示唆するものです。(百済の「泗比城」の定林寺が同様に地下式心礎です)
 またここで「無文銀銭」が「地鎮具」として「埋納」されていると言う事からは、この「無文銀銭」が「重要視」「神聖視」され、「呪術」的威力を持っていると考えられたいたことが推察できます。
 また「私見」によれば「無文銀銭」は「隋代」(後期)に「新羅」より流入し、「唐」との間に交易を行なう用途が主であったと考えられますが、その事は即座に「無文銀銭」とこの「志我山寺」の間に「直線的関係」、つまり「無文銀銭」の使用開始の年次と「志我山寺」の創建年次とが「接近」しているという想定をさせるものでもあります。つまりこの「志我山寺」の創建年次はもっと遡上するという可能性があるといえます。
 また、この寺の建築様式は「東面金堂」のいわゆる「観世音式」或いは「川原寺式」というものであり、(そのこともあって「天智」と関連づけられているともいえますが)「元々」の「法隆寺」における「レイアウト」においても「同様」に東面金堂であったと考えられ、それは「観世音寺」などの「源流」となったものと推量されるものですが、「志我山寺」においても同様の配置であることも、「法隆寺」の「創建」(六〇七年)とそれほど違わないという可能性があることを示唆します。 
 この「志我山寺」(「崇福寺」)の創建に関しては、『扶桑略記』他によれば建設する際に地面を掘ったところ、「(多)宝塔」が出土したという伝承があるとされます。それらの伝承の中ではこの「多宝塔」については「古代インド」の「阿育(アショカ)王」が埋めたという説話中のものと解釈されているわけですが、同様に「阿育王」の「多宝塔」に関するものとして「唐代」の記録「法苑珠林」に記事があります。
 そこでは「倭国」から派遣された「官人」として「会丞」という人物がいるとされ、彼に「倭国」の「仏法」のことを問いただすと以下のように答えたとされます。

「彼の国、文字(にて)説かず。承拠する所無し。然れども、其の霊迩を験すれば、則ち帰する所有り。故に彼の土人、土地を開発し、往々にして古塔の霊盤を得。仏の諸の儀相数え、神光を放つ。種々の奇瑞、此の嘉応を詳(つまびらか)にす。故に先有を知るなり」

 ここで「土地を開発」つまり、田畑を耕したり道路、池などを作ろうとして地面を掘ると「古塔の霊盤」というのが出土するとされ、それは「阿育王」が全世界に建てた「多宝塔」であろうという事となっているのです。
 これは「阿育王」の所産であると言うことも共通しており、「今昔物語集」に言う「多宝塔」と同じものではないかと思料されます。 
 「会丞」という人物は「大業の始め」に来たとされていますがこの「法苑珠林」記事は独自資料なのか『隋書』にその年次等が依存しているのかが不明であり、もし後者であれば実際の派遣年次はもっと遡上するという可能性があります。ただしここに書かれたことは彼の見聞したこととされているわけですから、まだ「遣隋使」として送られる以前のことであることとなり、「六世紀」の「倭国」の実情を示すとも考えられます。
 (ここに書かれた彼の言葉によれば、この段階で「文字」がないように受け取られます。『隋書俀国伝』によれば「百済から仏法」を得た後は「文字」があったとされ、それによって「日本語」を表記するようになったのはかなり早い段階であったと思われ、この「七世紀初め」という段階で「文字」によって「仏法」が説かれていないというのはやや不審ですが、民衆に文字が一般化していたというわけではないということは充分に想定できます。)
 このようなものが「出土」していることが「七世紀」の初めのこととして語られていることは、この「崇福寺」の創建と「無名指」を切断したという伝承の成立も実際にはもう少し早い時期を想定するべきではないかと思われますが、それは、そのような行為により「父母」に感謝する祭祀が行なわれたとすると、それは「六七〇年代」としては「伝統的すぎる」と考えられる事と整合するといえます。
 ただし、こう考えた場合、「志我山寺」は「天智」がその「母」である「斉明」の菩提を弔うための誓願として建てられたものという考えは否定されることとなります。つまり、「志我山寺」はすでに「天智以前」から建てられていたものであり、その建築主体は「天智」ではなく『隋書』に言う「利歌彌多仏利」にあたる人物と考えられます。
 このような推定は、「心礎」から発見された「無文銀銭」が「銀小片」が付着していたことから、「開通元宝」に重量基準を合致させたバージョンであると推測でき、このことからこれは「隋代」までは遡上せずせいぜい「初唐」まで遡りうるものであると考えられる事と整合すると言えるでしょう。(「無文銀銭」に関する当ブログ記事を参照してください)推測によれば「六三二年」の「高表仁来倭」時点付近が「小片」付加のタイミングと考えられます)
 「志我山寺」が「利歌彌多仏利」の建てた寺であるとすると、その「心柱」の基礎に「無文銀銭」を納めていたことは不自然ではないでしょう。これらのことは『扶桑略記』などに書かれた「六六八年」という年次のかなり「以前」から「近江」の「山中」に建てられていたという可能性が高いと考えられるものです。(そこでは「戊辰」という「干支」により年次か表記されており、そこだけを見ると「干支一巡」前の「六二八年」という可能性もないわけではないと思われます)
 この「近江」ないし「志賀」という地に「官衙」のようなものあるいは「寺院」があったと考えられるのは、後の「近江国府」の遺跡から出土した木簡や土器などによっても明らかであり、それは種々の理由から時代として「七世紀半ば」が推定されるとされていることからも窺えます。(※)
 この場所が後に「国府」とされたのは偶然ではなく、それ以前からこの場所及びその周辺には「官庁」ような建物ないし施設があり、それが実際に「活動」していたということが布石としてあったからではないかと見られていましたが、それが「須恵器」「木簡」などから明確となったのです。ただし、これを地方豪族(和邇氏など)と関係づけようとする試みあるようですが、それは「先入観」というものではないでしょうか。
 「官衙的」建物があり、またそれを示唆する「木簡」等が出土したとすると、そこには明らかに「王権」と深い関係がある施設があったものであり、それが「七世紀半ば」までは確実に遡上するという事の意味は重大であると思われます。
 つまり「近江京」というものが「天智」によって営まれるより以前に「志賀」の地に「王権」が関与した施設があったこととなり、それは「志我山寺」そのものの創建時期とも関連してくると考えられるものでもあります。
 更に「近江大津京」跡と推察される遺跡の下層からは「七世紀半ば」に編年される土器も出土しており、そのことは「崇福寺」だけではなく「大津京」そのものの創建も一般に考えられているよりかなり遡上するという可能性を含んでいるものです。
 「志我山寺」や「筑紫尼寺」という命名法は「地域名」(というより国名)+「寺」(その特徴を示すものを付する)という形で定型化されていることに気がつきます。これは上に述べたその創建の時期などから考えて「隋」の「文帝」が諸国に「舎利塔」を建てさせたという事実に関連しているという可能性が強く、「倭国」においても「国ごと」に「寺」あるいは「塔」を建てるという事業を行った事実の反映ではないとか考えられるわけです。これが「国分寺」の倭国における始源であると思われますが、この時何を「分けた」のかというと、最も考えられるのは『法華経』(ただし『堤婆達多品』が補綴されたもの)を写経したものではなかったでしょうか。そしてそれは「隋帝」(私見では「高祖」)から「下賜」されたものと考えると、(時代的にも)整合すると思えます。
 ところで、国分寺として検出される遺跡のほとんどが「寺院」としての遺跡の「外」に「塔」が存在しており(つまり「回廊」がある場合など典型的ですが、その閉じた空間の外部に塔が存在しているわけです)、またその「寺院全体」の方位と「塔」の方位が異なっている例が多く、「塔」が先行して建てられていた形跡が窺えますが、それは「隋」の「文帝」の「舎利塔」を建てるようにという詔そのものをそのまま継承ないしは模したものと見られ、「寺」がまだない場合は「塔」だけでもよい、適地を探してそこに建てなさいという「文帝」の指示についてもそのまま国内に指示したものと見られるわけです。
(以下「隋」の「高祖」の「詔」)

「隋文帝立佛舍利塔 二十八州起塔五十三州感瑞
雍州仙遊寺 岐州鳳泉寺 華州思覺寺 同州大興國寺 涇州大興國寺 蒲州栖巖寺 泰州岱岳寺 并州無量壽寺 定州常岳寺 嵩州嵩岳寺 相州大慈寺 廓州連雲岳寺 衡州衡岳寺 襄州大興國寺 牟州巨神山寺 ?州會稽山寺 蘇州虎丘山寺
右此十七州寺起塔出打?物及正庫物造
秦州 瓜州 楊州 益州 亳州 桂州 交州 汝州 番州 ?州 鄭州
右此十一州隨逐山水州縣寺等清淨之處起塔出物同前
門下仰惟。正覺大慈大悲救護群生津梁庶品。朕歸依三寶重興聖教。思與四海之內一切人民。俱發菩提。共修福業。使當今見在爰及來世。永作善因。同登妙果。宜請沙門三十人諳解法相兼堪宣導者。各將侍者二人。并散官各給一人。熏陸香一百二十斤馬五匹。分道送舍利。『往前件諸州起塔。如川陸寺就有山水寺所起塔依前。山舊無寺者。於當州內清靜寺處建立其塔。』所司造樣送往當州。僧多者三百六十人。其次二百四十人。其次一百二十人。若僧少者盡見僧。為朕皇后太子廣諸王子孫等及內外官人一切民庶幽顯生靈。各七日行道并懺悔。起行道日打剎。莫問同州異州。任人布施。錢限至十文已下。不得過十文。所施之錢以供營塔。若少不充役丁。及用庫物。率土諸州僧尼並為舍利設齋。限十月十五日午時。同下入石函。總管刺史以下縣尉以上。自非軍機停常務七日。專檢校行道及打剎等事。務盡誠敬副朕意焉。主者施行
仁壽元年六月十三日。內史令豫章王臣暕宣」
(「大正新脩大藏經/法苑珠林百卷/舍利篇第三十七/隋文帝立佛舍利塔」より)

 上に見るように「山舊無寺者。於當州內清靜寺處建立其塔」とあり、「寺」が重要なのではなく「塔」を建てることに意味があるとするわけであり、「倭国」においても「塔」だけが建てられたという事例があったとみられるわけです。
 このように「国分寺」(というより「国分塔」とでもいうべきか)として「七世紀初め」という時期に創建されたものについて、「大宝年間」という時点において「寺封」を停止するというわけですから、「倭国」から「日本国」への転換がこの時点付近で行われたと見られることと深く関係しているといえるでしょう。

(※)大津市教育委員会によると、2011年8月に近江国府中枢部の国庁跡から北東約400m(菅池遺跡)の古墳時代から平安時代に亘る溝の「最下層」から出土した木片が、飛鳥時代から白鳳時代(7世紀中頃)の木簡の可能性が高いことが発表されています。
 年代測定の基準としては共伴した「土師器」や「高坏」などの編年から「近江遷都」とされる「天智六年(六六七年)以前」と判断したとされます。
 つまり、この付近にそれ以前から、「公的」な施設もしくは豪族の拠点があったという可能性が考えられる事となりました。
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「第四指」と「魔法」(再度)

2024年02月23日 | 古代史
前回からの続きです

「第四指」と「魔法」

 すでに述べたように説話の中では「天智」は「崇福寺」建立に際して、「寶鐸」や「白石」が掘り出されたこと、またそれが「夜光る」ということを「奇瑞」であるとして、喜んでおり、ためらわずその「左手無名指」を「燃やし」また「切り落として」、供えています。これはやはり、この「第四指」に「供える」にふさわしい「霊力」があるとその当時考えられていたこと、少なくとも「天智」自身がそう考えていたことを示していると思われます。
 確かに『法華経』の「薬王菩薩本事品」には「手指」を燃やして「供養佛塔」することを勧めていますが、その「指」の中でも「左手無名指」を選んでいるというところに「仏教」以前の世界の雰囲気が感じられます。つまりこの行為は仏教の教義に則ったものというより、「仏教以前」に行われていた「神道」的要素が強いと考えられます。
 このような「血」の儀式様のものは仏教の教えとはかなり遠いものと思われ、このような「生け贄」的考え方は「神道」など当時の日本における「俗」としての古典的要素が強いと考えられます。
 しかし、以下の中国の例においても、「出家」しようという人物が、指を切断している例があり、中国ではそのような思考法がそれほど珍しくなかったともいえます。

「祖堂集卷第十八」「仰山和尚」の段
「仰山和尚嗣?山,在懷化。師諱慧寂,俗姓葉,韶州懷化人也。
年十五,求出家,父母不許。年至十七,又再求去,父母猶?。其夜有白光二道,從曹溪發來,直貫其舍。父母則知是子出家之志,感而許之。師乃斷左手無名指及小指,置父母前,答謝養育之恩。…」

 この中では「父母」に「恩」を示すため「指を切断して」供えたとされています。「父母」への「恩」を示すために、自分の「指」を切断するというのは一見わかりにくい論理ですが、「恩」に「答謝する」為には「拝礼祭祀」を行なう必要があり、そのためには「神」に供えるものが必要であったと言うことではないでしょうか。
 この段階では彼は「出家」する前ですから、「中国」の民間に流布していた宗教の中で暮らしてきていたものであり、そのような状況下でこの行為を行なったと考えられますが、そのような中では「神」に供え物をする、特に「血」を「供える」ということが重要視されていたと言うことが考えられます。
 そもそも仏教では「不殺生」というのが「戒律」の重要な要素であったものであり、「五戒」の第一に数えられるものです。しかし、「中国」では仏教発祥の地である「インド」とは違って、以前より「犠牲」を伴う「儀礼」を行う文化がありました。それは仏教伝来後もかなり後代まで遺存したものであり、例えば「南朝」「梁」の「武帝」は、深く仏教に帰依した結果、宗廟へのお供え物についても「疏菜果実」つまり「肉類」は取り止めとしたとされています。つまり、この時点までは「宗廟」で犠牲を用いた儀式を行なっていたものであり、それは代々の皇帝の「義務」でもあったわけです。しかし、彼の代になって「儀式」には「犠牲」を用いないということとなったものです。
 「生類」全てに「人間」と同等の「命」の重さを見て、殺生を禁じ、解放するという考え方や行動は、「生贄」という「傷を付け」「血を流す」儀式を行なう思想とはかけ離れています。このような「生贄」やそれを伴う儀式は「殷」や「周」など「古代中国」に淵源するものといえますが、仏教以前の古代的感覚であると思われます。
 「唐」時代以降についても状況は余り変わらなかったものと見られ、「唐皇帝」は「道教」の開祖である「老子」について、「唐皇帝」の祖先であるとして「道教」を重視しましたが、これは「天師道」と呼ばれ、後漢時代の「五斗米道」の流れをくむものとされています。その基本は「天地」の神への感謝と豊作と幸運を祈念した「禮際」を行なうものであり、それには「供え物」(生贄)が必須であったと考えられます。
 この「仰山和尚」の「出家」に関するエピソードでもやはり「天地」の神と祖先神への感謝が基本であったと思われ、「指」を切り落として供え物とすると言うのは当時それほど珍しいものではなかったのかも知れません。
 「天智」の例でも、『扶桑略記』の文章では「奉為二恩」とされ、「奇瑞」とされる「寶鐸」等が掘り出されたことを「父母」に感謝し、そのために「薬王菩薩本事品」にある「指灯」の行を行なったあと、今度は「神祇」に対して「祭礼」を行ない、その際に「お供え」(生け贄)として燃やした自己の「第四指」(無名指)を差しだしたと言うことが考えられ、共に同じような「祭式儀礼」であったと思われます。
 ちなみに、この『祖堂集』の「仰山和尚」のエピソードはそのほかの点でも「天智」のそれと酷似しています。
 「元亨釈書」等では「白石」が掘り出され、それが「夜有光」とされており、これを「奇瑞」としているわけですが、『祖堂集』では「其夜有白光二道」とあって、やはり「夜光る」ものであり、それを「奇瑞」であるとするのも共通です。
 そして、その結果「天智」と「仰山」は共に「左手無名指(仰山は小指も)」を切り落として、それを「父母」に感謝の意を表するとして、「天地の神に」「供えて」祭礼を行なったということとなります。
 この「逸話」が記された『祖堂集』(そどうしゅう)は、五代十国の「南唐」時代(十世紀)に成立した中国禅宗の記録です。しかし、『祖堂集』は中国国内で編集されたものの、いわばそのまま「お蔵入り」となり、その後「高麗」に持ち込まれ、一二四五年「順佑五年」に高麗大蔵経の附録として刊行されたものの、それも二十世紀初頭に発見されるまでその存在は知られていなかったとされます。しかし、上に見る記事の酷似は偶然とは言いがたく、上に見た諸資料中でも一番早い時期と考えられる『三宝絵』(「十世紀頃」か)に『祖堂集』が影響を与えているという可能性が考えられるところです。
 また、確かに「指を燃やす」というような行は上に見るように「法華経」にあるものであり、その意味では上の行為は仏教と必ずしも食い違っている訳ではありませんが、それを「切り落として」「石壇」(地中)に納めるということについては、どう考えてももはや「仏教的」とは言えないと思われます。
 このような仏教の経義と微妙に異なる儀式が行なわれている事から考えて、この時の「天智皇帝」なる人物の時代は、「仏教的」な雰囲気で満たされていた訳ではなく、以前からの「民間信仰的」が色濃く残っていた事が想像されます。それは仏教に深く傾倒している人物でさえもその「時代的限界」の中にいたと言うことを示すと思われ、逆に言うとそのような事が行なわれるということはこの時代が、もっと古い時代のことではないかという事をも考えさせるものとも言えます。それから想起させられるのは『隋書俀国伝』の「知卜筮、尤信巫覡。」という記事です。
 この記事はすでに検討したように「開皇年間の早い時期」つまり「五八〇年代」に派遣された「遣隋使」の口頭報告をまとめたものと思料され、それ以前の「倭国」の状況を窺わせるものですが、そこでは「俗」つまり民衆レベルでは多くが「巫覡」つまり「男女の祈祷や占いをする人達」に頼って生活していたことを示すものであり、そのような時代的雰囲気というものは、「天智」と称される人物が行った「左手第四指」を切り落とすという行為が行なわれた背景としての時代的雰囲気とよく重なるものではないでしょうか。
 つまり「天智皇帝」が本当に「天智天皇」を指すのか、「崇福寺」の創建は本当に「六六八年」なのかと言うことが問われていると言えるでしょう。
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