古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「評制」と半島の制度

2024年03月24日 | 古代史
 戦後、日本の古代史で有名になった論争があります。それは「大化改新の詔勅」に関するもので、そこでは「郡」という用語が使用されていますが、「那須国造碑」などの金石文(石碑などに書かれた文)には「郡」ではなく、「評」という用語が使用されていて、「実際には」どちらが使用されていたのか、というものです。
 この論争は「藤原宮」跡地(奈良県)から「評」と書かれた木簡と「郡」が使用された木簡がともに出土して終結しました。それは、地層の重なりなどから判断して「七世紀の終わりまで『評』」で、「八世紀の初めからは『郡』」というように、行政制度に「切替わり」があったことが明白になったからです。明らかに「評」という制度が「郡」に先立って実際に各地で施行されていたものと考えざるを得なくなりました。
 しかし、これについては従来からの学者の多くが「郡」でも「評」でもどちらも「こおり」である、という一種の「矮小化」の中に逃げ込もうとしています。つまり「制度」としては変わらない、表記する「字」の問題である、というのです。しかし、このような理解に真っ向から反するのが「木簡」の記述です。そこには「評造」や「評督」という官職名が記されていました。
 「郡」行政下の官職は「郡司」であり、「郡督」も「郡造」もありません。また逆に「評」行政下には「評司」はありません。これらのことは、単に表記上の字面の問題ではなく、「行政制度」そのものに「交替」があったと考えなければならないことを意味しています。
 また、「評」を記した木簡の一番新しいとされるものは以下のものです。

「若佐國小丹生評 庚子年四月 木ツ里里秦人申二斗」(藤原宮跡出土)

 ここには「国―評―里」という行政制度が看取され、このような整った形の制度はかなり後期段階のものであり、このことから従来ここに書かれた「庚子」年は「七〇〇年」と理解されています。
 このように「諸国」から貢納される物品につけられた「荷札」として使用された木簡を見ると、「庚子」以前の干支が書かれている場合、そこには「評」と書かれているのが確認されています。しかし、『日本書紀』、『続日本紀』など「正史」と呼ばれる記録には「評」に関する一切の記録が現れません。「郡制」が施行されていなかったと思われる時期の記録においても、全て「郡」で書いてあり、また「郡司」や「大領」「小領」など『大宝令』で規定されたと考えられる制度や官職名が出てくるのです。
 この理由について、従来は「不明」であるとしか言えない訳ですが、あたかも「評」という「制度」を「忘却」もしくは「隠蔽」しているかのごとくです。もっとも「制度」というものは、施行した「体制(権力)」と不可分のものですから、「制度」の隠蔽はすなわち「体制(権力)」そのものの隠蔽と考えざるを得ません。
 ところで以下の「継体紀」記事では「任那」の行政制度として「評」が現れます。

「(継体)廿四年(五三四年)秋九月条」「…於是阿利斯等知其細碎爲事不務所期。頻勸歸朝。尚不聽還。由是悉知行迹。心生飜背。乃遣久禮斯己母。使于新羅請兵。奴須久利使于百濟請兵。毛野臣聞百濟兵來。迎討背評。背評地名。亦名能備己富里也。」

 また、それ以外にも「南史」や「北史」など中国の史書に「半島」の「評」の例が出て来ます。

「南史/列傳 第六十九/夷貊下/東夷/新羅」
「新羅…其俗呼城曰健牟羅,其邑在?曰啄評 ,在外曰邑勒,亦中國之言郡縣也。國有六啄評、五十二邑勒。…」

「北史/列傳 第八十二/高句麗」
「官有大對盧、太大兄、大兄、小兄、竟侯奢、烏拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳 屬、仙人,凡十二等,分掌?外事。其大對盧則以強弱相陵奪而自為之,不由王署置。復有 内評 、五部褥薩。[一五]復有内評 五部褥薩 隋書「内評 」下有「外評 」二字。 …」

 このように「新羅」の「啄評(村落を有する城をいう)」や「高句麗」の「内評、外評」の例があり、朝鮮半島諸国にその使用例が見られるわけですが、この「評」の「起源」は「秦漢代」の中国にあり、「司法」に関する組織(官僚)である「廷尉」の「属官」としてのものでした。
 「廷尉」は「秦」において設置された「司法」を司る官であり、その「属官」として「廷尉監」「廷尉評(平)」「廷尉史」があるとされます。
 特に「廷尉評」はその後単に「評」と呼称されたと見られ、「半島」における「地名」としての「評」の淵源はこの「廷尉評」にあるのではないかと考えられます。そして「律令」(特に「律」)は「廷尉」がそれを駆使して「審理」・「判断」するものであることから、「尉律」と呼ばれたとされます。
 このように「治安維持」という国家統治の基本的部分を担う組織が「半島」に深く浸透していたものと思われるわけです。
 この「継体紀」の例は「任那」におけるものでしたが、「任那」は「倭の五王」が自称し、また「南朝劉宋」に認めさせた称号の中の「六国諸軍事」という中に含まれていますから、「倭国」は「軍事権」を「任那」において行使していたと見られることとなりますが、当時は「兵警一致」の時代であり、「軍事」部門が「警察」権力をも握っていたと思われます。そう考えると、「評」について「任那」で「廷尉評」として「司法権」(あるいは「警察権」といっても良いわけですが)を行使していたのは「倭国」であると言う事となり、それが以下のような「探湯」を行っていたという記事につながると考えられます。

「(継体)廿四年(五三四年)秋九月。任那使奏云。毛野臣遂於久斯牟羅起造舍宅。淹留二歳。一本云。三歳者。連去來年數也。懶聽政焉。爰以日本人與任那人。頻以兒息難決。元無能判。毛野臣樂置誓湯曰。實者不爛虚者。必爛。是以投湯爛死者衆。」

 ここに見るような「訴訟」を「裁判」する権利は「廷尉」の専管事項であったはずであり、そう考えるとその「廷尉」の裁判の根本基準としての「律令」というものがこの時点で存在していたことが推定されます。
 「廷尉」については時代によりその名称が幾度か変遷したようですが、(一旦南朝「梁」の時代に「大理」となったがその前後「廷尉」であったもの)「唐」の時代になって「廷尉」は再び「大理」に変更され、その「属官」として「司直」と「評事」がいたとされます。このことから、「倭国」が「隋」や「唐」から「制度」を学んだとすると、「官僚」(司法)の制度として「評事」が導入されたというのなら理解できますが、「行政制度」として「評」が導入されたというのは考えにくいこととなります。そのようなものは「隋・唐」には存在しなかったからです。それでもなお、この「評」という行政制度が「七世紀半ば」に施行されたとするならば、そのような時期に「半島」(「百済」や「新羅」「高句麗」など)から「制度」を取り入れるということがあったとしなければならなくなります。しかし、通常の儀礼的な「朝貢」等のやりとりはあったとしても、「制度」を取り入れるとなると、「倭国」と「半島諸国」との間には「対等」な関係がなかったこととなるでしょう。つまり「隋」や「唐」との間のような一種の「文化勾配」とでもいうべきものが「半島諸国」と「倭国」の間にあったとしなければならなくなりますが、そのような想定は可能でしょうか。
 「倭国」は「七世紀初め」という時期に「隋皇帝」に対し「天子」を自称するということを行なっており、また『隋書俀国伝』には「新羅百済は倭を大国として敬仰していた」という意味のことが書かれており、これらを見ると、「新羅」「百済」に対して少なくとも「対等」以上の関係を保っていたことが窺えます。そう考えると、それ以降「制度」「文化」を学ぶというような姿勢が「倭国王権」にあったかはかなり疑問ではないでしょうか。
 『書紀』の記述から見ると当時「百済」「高句麗」との間の関係はあくまでも「対等」なレベルのものであったものであり、例えば「遣唐使」のような使者を送って「遣唐学生」などのような「制度」や「文化」を取り入れたというようなことは認められません。
 わずかに「三国」(高麗・百済・新羅)に「学問僧」を派遣したという記録が「六四八年」にありますが、これでは少々遅すぎるでしょう。なぜなら、通常の考え方ではこれは「評制」施行時点付近だからです。しかし、この年次以前に同様なものが派遣されたのは「六四五年」の記事ぐらいしかなく、この記事には確かに「高麗學問僧」という名称が確認できるもののその中身として「何時」「誰が」派遣されたのか、また「帰国」はいつのことなのかなどが一切不明であり、信憑性のある記事とは思えません。また彼らは「僧」ですから、「学問一般」あるいは「行政制度」などの学習が目的であったとは考えられず、「評制」導入に主体的な活動をしたとは考えられないこととなるでしょう。
 以上のことからも、「評制」の導入とその施行は「七世紀半ば」とは考えられないこととなります。
 そもそもこの「評」という制度がこの時の「半島諸国」で使用され、あるいは地名にまでなっていたとすると、それが「七世紀半ば」まで「倭国」に伝わらなかったあるいは導入しなかったという想定は、やや困難ではないでしょうか。
 ところで、『欽明紀』には『書紀』で唯一「廷尉」という存在が書かれています(下記)。

(五六二年)廿三年春正月六月是月条」「是月。或有譖馬飼首歌依曰。歌依之妻逢臣讃岐鞍薦有異。熟而熟視。皇后御鞍也。即收『廷尉』。鞫問極切。馬飼首歌依乃揚言誓曰。虚也。非實。若是實者必被天災。遂因苦問。伏地而死。死未經時。急災於殿。『廷尉』收縛其子守石與中瀬氷。守石。名瀬氷。皆名也。將投火中。投火爲刑。盖古之制也。咒曰。非吾手投。以祝手投。咒訖欲投火。守石之母祈請曰。投兒火裏。天災果臻。請付祝人使作神奴。乃依母請許沒神奴。」(欽明紀)

 ここでは「廷尉」が「縛」したり、「刑」を執行したりしています。しかもそれは「古制」であるとされていますが、確かに『隋書俀国伝』に記された「刑」の中には「火刑」はありませんから、それをかなり遡る時期の制度であることは間違いないと思われます。上の「中国」における「廷尉」の推移から考えると、その伝来は「隋代」を含んでそれ以前であると思われます。
 また「火中」に投じる際には自分がやるのではなく「祝(ほおり)」がこれを行うのであるという、呪いとも言い訳ともつかないことを言上しています。この背後には「死刑」のような極刑は「生贄」を捧げる儀式に模したものであり、「祝」つまり神に仕える立場の人間の手による行為とすることで「死者」の祟りが実行者の身に及ぶことを避けようとしていることが窺え、その意味で思想背景として甚だ古典的であることが知られます。このことからこの「廷尉」制の導入は「評制」の施行とほぼ同じ程度の古さを持っていると見るべきこととなり、それらはほぼ同時ではなかったかと考えられることとなります。その意味で初出が『欽明紀』であるというのは示唆的です。
 これらのことから、「評制」は「五十戸制」に「先行」すると考えざるを得ません。「五十戸制」は「六世紀末」に「隋」から導入されたと考えられますから、それ以前の時期に「評制」は導入されていなければならないこととなります。つまり「六世紀半ば」という時期がもっとも蓋然性の高い時期と推定できるものです。(「国県制の成立と六十六国分国」で推測した「国」から「縣」への制度改定というものも、「諸国」においては「国」から「評」への改定であったと考えなければならないこととなるでしょう。)
 また、以下の『三大実録』の記事からは「允恭天皇」の時代に「国造」が定められたと言うことが記されていますが、この「允恭天皇」は古賀氏により仏教伝来時点の「倭国王」ではなかったかと言うことが研究されており、その意味では「倭国王」の最初である「讃」に重なる人物といえます。彼の時代に「国造」が定められたというのは、「倭の五王」の治績全体から帰納して考えても不自然ではありません。

 『三大実録』
「貞観三年(八六一)十一月十一日辛巳。…書博士正六位下佐伯直豊雄疑云。先祖大伴健日連公。景行天皇御世。隨倭武命。平定東國。功勳盖世。賜讃岐國。以爲私宅。健日連公之子。健持大連公子。室屋大連公之第一男。御物宿祢之胤。倭胡連公。允恭天皇御世。始任讃岐國造。倭胡連公。是豊雄等之別祖也。『孝徳天皇御世。國造之号。永從停止。』同族玄蕃頭從五位下佐伯宿祢眞持。正六位上佐伯宿祢正雄等。既貫京兆。賜姓宿祢。而田公之門。猶未得預。謹検案内。眞持。正雄等之興。只由實惠道雄兩大法師。是兩法師等。贈僧正空海大法師所成長也。而田公是大僧正父也。今大僧都傳燈大法師位眞雅。幸屬時來。久侍加護。比彼兩師。忽知高下。豊雄又以彫蟲之小藝。忝學館之末員。顧望往時。悲歎良多。准正雄等之例。特蒙改姓改居。善男等謹検家記。事不憑虚。從之。」
 
 ここで「空海」の父親(佐伯田公)の処遇について嘆願ともいえるものが書かれているようですが、その中に「允恭天皇」の時代に「国造」が置かれたらしいこと、「孝徳天皇」時代にその「国造」が「永從停止」とされたことが書かれています。(これは『書紀』に影響された記述と思われますが)このように「国造」が停止されたというのは、とりもなおさず「評」が成立したことを意味するものと考えられます。(これ以降新たな「国造」は認めないということ) 
 伊予三島神社に伝わるという『豫章記』系図中には、「伊豫皇子」から始まって十五代目「百男」の下に「端正二年庚戌崇峻天皇時立官也。其後都江召還。背天命流謫也。」と書かれた「細注」があるとされます。(ただし当方は実見はしていません)つまり、この記事中には「九州(倭国)年号」が書かれているわけですが、さらにその年次に基づいた「立官記事」があります。この「立官記事」は「評制」施行に伴うものではないかと考えられます。
 また、その後彼は「召還」されて「流された」とされていますが、その理由として「背天命」とあり、この「天命」とは「倭国王」からの「命令」を意味すると思われ、これに反したとされているわけですが、この時点の「倭国王」は「一般民衆」の「護民官」的な存在であろうとしていたわけであり、その意味で「公」という観念を前面に出していたと考えますが、彼はそれに反する行動を取ったものでしょう。それについては、「公私の区別」をつけるようにと言う「強い指示」があったにもかかわらず、それが出来なかった「国司」が複数いたという『孝徳紀』の記事を彷彿とさせるものです。
 これは「東国」への「国司」に対するものとして書かれていますが、同時に「四国」など「西日本」の各地に対しても同様の「詔」を出していたものと推量され、この場合の「国司」は当然「国宰」の後代的言い換えであると思われますが、この時の「倭国王」の方針である「公」という概念の徹底を貫徹するために、かなり強硬な手段に出ていたようですが、それを支えていたのは「押坂(部)」の名を「御名代」として戴いていた「解部」を中心とする「警察・検察機構」であったと思われます。
コメント

「遣隋使」問題について投稿の際に添付した文章

2024年03月18日 | 古代史
 以前「遣隋使」についての投稿を行いましたが、その投稿は同内容で古田史学会報にも投稿していたものですが、未採用となっているものです。その理由は定かではありませんが一つの理由として「長すぎる」というものがあったように思います。それに関して当時投稿の際に付した文章を掲載します。これはいわば「長くなる」ことについての説明、というより「言い訳」ですが、本音も入っています。
(以下当時の添付文)

 「遣隋使」問題についての投稿は従前の理解にかなり強い疑いを突きつけるものであり、影響はそれなりに重大であると考えています。
 従来一般的にはこの『隋書』と『書紀』の記述の「違い」について「年代」としては同一ではあるものの「裴世清」と対応した「倭国王」の立場を慮ってもっぱら『書紀』の側が脚色されているというような議論が行われているようです。
 これに対し古田氏の論はこの二つの記事を同一のものとは見ずに、別の時点のものとして考える立場のものです。
 古田氏の論は以下のような点を総合したものです。
①「唐使」「大唐」等の「唐」表記からこれを「唐使」であり「遣唐使」として「皇帝」を「唐」の高祖とするもの。
②「裴世清」の官位の違いを時代差とみる立場から「文林郎」を「隋代」、「鴻櫨寺掌客」を「初唐」として理解し、降格処分を受けたとするもの。
③『隋書』と『書紀』で「国書」の有無の違いがある点もこれを時代差としてみるもの。
④「国書」の内容の「寶命」という表現から「初代皇帝」に特有のものと理解し、それと類似の「国書」の存在から「初唐」の時代に「唐」の高祖が出したものと理解するもの。
⑤『書紀』の「呉国」記事からこれを「初唐」の時期に存在した「呉国」にあてて考えるもの。
⑥傍証として「扶余豊」の「質」の時期を「義慈王」の即位以降として考えるほうが正当とする立場からのもの。
⑦『元興寺縁起』に書かれた「裴世清」記事は後代の潤色がみられ、信頼性が低いとみる立場からのもの。
 以上のような論点で構成されており、論として多角的・総合的・論理的であり、これに対するまっとうな批判・反論をいまだに見ません。
 ただし、一般的にこの種の議論は『隋書』と『書紀』のいずれに問題があるかという観点で行われており、その点は古田氏の議論においても例外ではなく『隋書』に書かれた内容については疑いを持たれておられないようであり、問題は『書紀』にのみあると理解されているようです。
 それに対し私はこの二つの記事が同一の時点のものではないという古田氏の見解に同意しつつ、『隋書』と『書紀』のいずれにも重大な問題があるという可能性を指摘することにより、この『推古紀』の国書の「唐帝」も「大業八年」の「隋帝」もいずれも「煬帝」ではなく、また古田氏のいうような「唐」の「高祖」でもなく、実際には「隋」の「高祖」である「楊堅」(文帝)であることを論証しようとするものです。
 そのためにはこれら古田氏が挙げた各論点について逐一検証・批判しながら論を進める必要があり、さらに「遣隋使」の真の派遣時期が「隋初」である理由を別に説明する必要があります。
 古田氏の上げた各論点について検証してみると、
①については「唐」という表記が「隋」という表記をあえて隠蔽するために使われているとみられること。
②「裴世清」の官位問題は、「裴世清」について残された記録から「六二五年」という年次付近で「四品」程度まで昇進していたことが判明し、「唐初」で「鴻櫨寺掌客」であるとすると昇進速度という点で無理があると思われること。特進があったとするなら、たとえば戦功があった場合などにはみられるものの、それは「武官」(武将)に限られ「文官」であったとみられる「裴世清」の場合には適用されないものと思われること。
③について「寶名」問題は確かに「初代皇帝」にかかわるものとは思われ(ただし二代皇帝である「煬帝」にも「唐」の「太宗」にも使用例は見られるものの)、その点が正しいとは思われるものの、「南北朝」以降は「周」の古代の使用例から外れ「禅譲」による「即位」に関して使用されるようになったとみられ、「前王朝」「前皇帝」との関連を意識した用語と思われること。その意味では「唐」の「高祖」だけではなく「隋」の「初代皇帝」である「高祖」(文帝)にも当てはまるといえること。
④の「呉」という表記が『書紀』では「南朝」を指す常套語であることから帰納してここも同様とみるべきであり、この時点でまだ「南朝」が健在であった時期を措定すべきこと。
⑤「扶余豊」の「質」の時期は「遣隋使」問題とは別の問題であり、それは『書紀』が参考とした資料が『隋書』までであったからであり、『隋書』の記載範囲を超える時期のものについては、それ以前のものと同質、同内容の潤色があったと考えるべきではないこと。『書紀』編者はあくまでも『隋書』の中の「倭国関係」記事との対応だけを考えたものと思われること。
⑥『元興寺縁起』にみられる「裴世清」記事には「副使」として「偏光高」の存在と彼の職掌が書かれており、その表記は「隋初」の時期にこそ適合するものと思われ、かえって資料の信頼性が高いとみられること。

 以上のように古田氏により精緻な議論が行われたにもかかわらず、なお疑問とすべき点があることが知られ、他の考え方の成立する余地があるように思われます。
 そして、当方が提示する論として『隋書』と『書紀』の双方に疑問がある点(以下のもの)について細かく述べる必要があります。

⑦『隋書』の成立の事情から推測して「大業年間」の記事には年次移動の可能性が考えられること。(「大業起居中」が欠落しているにも関わらず「大業年中記事に「皇帝」の「言動」が記されている)
⑧『隋書』の「裴世清」の発言の中にある「宣諭」という用語に注目し、それが「天子」標榜を糾弾する意図から発せられたものとみられることから、『書紀』の記事内容とは全く整合しないこと。国書不携帯という事情も彼が「文林郎」という官職で派遣されていることも同様の理由からであること。そう考えればそれ以前の国交回復時に「国書」がもたらされていて当然であること。その国書が『推古紀』に書かれたものと考えられること。その内容も確かに国交開始時点と思われる文言を含んでいること。
⑨『隋書』中の「倭国王」の使者の発言(「聞海西菩薩天子重興佛法」)と「裴世清」に接見した「倭国王」の発言内容(「我聞海西有大隋禮義之國」「冀聞大國惟新之化」)が「隋」の「高祖」について発言されたものと考えて高度に整合的であること。
⑩「隋」の「開皇年間」に整えられた「隋代七部楽」の中に「倭国」の楽が入っていることから、「倭国」の楽が「隋初」にすでに伝わっていたとみられること。それは当然「遣隋使」によったものとみるべきであること。
⑪『書紀』の「裴世清」を迎える儀礼や服装の内容が「南朝」的であること。『隋』からの使者を「隋制」に則って歓迎するのは重要な儀式であり、また義務であったとみられること。そのことから「隋」との国交がそれ以前に回復していたとは考えられず、これが国交成立時の記事であるとみられること。
⑫「文帝」に「寶命」の使用例が少ないのは彼は「周」(北周)の制度等を全く継受せずかえって「北斉」の制度を取り入れて「隋制」を整えていることなど「北周」からの禅譲を標榜しながら実際には「北周」との関係について「清算」したという意識があったとみられ、その意味で「天命」意識があったことと、「皇帝」の座に就いたのは「仏教」の「三十三天」の加護があったためという特別な関係を強調するがためとみられること。さらに倭国に対して「寶命」を使用したのは「寶命」が「南北朝」以降の王朝からの「継続性」を強く意識した用語となったためであり、「倭国」が継続して「中国」に遣使してきたという事実に対応するためのものと思われ、「高句麗」に対する「天命」がそれまでの「北朝」と「高句麗」の関係(友好的であったもの)を清算する(してもいいという)意識からのものというように相手の出方によって使い分けされていると思われること。
⑬「伊吉博徳」の発言の中に「洛陽」を「東京」と表現している部分があり、そのことから「煬帝」により「東都」と改称されたとされる「大業五年」以降「洛陽」に「遣隋使」が行ったとは考えられないこととなり、そのことからも『隋書』の年次に疑いがあること。

 以上の内容を含んでいます。そのためやむを得ずボリュームが多くなってしまいました。可能な限り短縮を試みましたが、かなり困難な状況です。よってそれを理由として掲載されないことには全く異議を唱えません。

…という経緯がありました。現在に至っても掲載されておらず私の論は「なかった」こととなっています。そのためこのブログに投稿しているというわけです。


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「難波朝」の「軍制」について -「五十戸制」との関連において-

2024年03月17日 | 古代史
以下は会報に投稿したもの未採用となっているものです。(投稿日付は二〇一二年七月十六日)

「難波朝」の「軍制」について -「五十戸制」との関連において-

「要旨」
 「難波朝」期に「軍制」を含む制度改定が行なわれたものであり、後の「軍防令」の原型とも言えるものがこの時点で作られたものと思料されること。それは「行政制度」と連係したものと考えられ、「評制」と「五十戸制」は、「軍制」との関連で改定された制度と考えられること。

 『養老令』の軍制と「戸制」の人数には関係があるという議論があります。(注一)
 つまり、『養老令』(軍防令)では「軍」の基本構成単位である「隊」の編成人数が五十人とされており、またその下層単位として「伍」(五人)と「火」(十人)というものがあるとされています。
 これらの兵員数の体系が戸籍に見る里(さと)の「五十戸」などの「五保制」と関係しているというわけです。
 すなわち、「戸」-「保」-「里」という「戸制」の体系と、「兵士」-「伍」-「隊」という軍の体系とが対応しているという考え方です。
 このことから「一戸一兵士」という「徴兵」の基準があったとされるわけですが、これに対しては「軍防令」の「軍組織」はもっぱら「唐制」によるものであり、それもかなり後代に取り入れたものであるのに対して、「戸制」の制度については「五十戸」制等が「七世紀後半」を示す年次を伴った「木簡」から確認される(注二)などの点においてかなり先行するとされ、「軍防令」と「戸制」の対応についてはその意味から疑問とする考えもあるようです。
 確かに「唐制」には「府兵制」という制度があり、そこでは「正丁」三人に一人の割合で「兵士」を徴発し、それが五十人で「隊」を成し、それらは「折衝府」という「役所」に集められたとされています。そしてその集められた兵員数に応じランク付けされていたものです。
 「我が国」の「軍防令」についてはこの「唐制」を「模倣」したものであって、「戸制」との関連づけを認めないという考え(反論)もあるようです。(注三)
 しかし、「軍防令」が「唐制」によるものであり、『大宝令』以降に定められたものであるという考え方は、「六五〇年後半」から「六六〇年前半」という時期に、「百済」を巡る戦いに際して「倭国」から大量に「軍」を派遣していること、その時点では「軍制」が存在していると考えざるを得ないことと「矛盾」していると言えます。
 「軍制」等「軍事」(軍隊)に対する何の定めもなかったとすると、国外に「軍」を編成して派遣するなどのことが可能であるとは思われません。このことは「当然」それ以前から「軍制」があったと考える必要があることとなります。
 そこで注意すべきものは「評制」の全面展開と同時に「八十戸制」から「五十戸制」に変更されていると考えられる点です。
 『隋書俀国伝』で示されているように「倭国」では「六世紀の末」という段階でまだ「八十戸」という戸数を基礎とした「行政制度」が施行されていたものと見られます。

「…有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。…」『隋書たい国伝』

 ここでは、「伊尼翼」という「官職」様のものに「属する」として「八十戸」という戸数が示されています。この「伊尼翼」や「軍尼」というような「官職制度」は現在全く残っておらず、また「八十戸制」についてもこれが「どのような」制度のものなのか、「いつから」「いつまで」続いていたのかという重大な部分が欠落しているのが現状です。
 これについては明確な「国内資料」(「金石文」「木簡」)などがいまだ発見されず、「五十戸制」の始まりの時期と共に「八十戸制」の詳細は「不明」となっているわけですが、「五十戸制」の開始が「六世紀」の中盤まで遡上するとも考えられません。それはその始源が「隋」にあると考えられるからであり、「隋」と関係を持ち始めたのが「六世紀終わり」であるという倭国の外交の歴史から考えて、この「五十戸制」をその「遣隋使」時点付近に始原を考えて不自然はありません。
 またこの「戸制」について「改新の詔」の中に「仕丁」の徴発基準として「旧は三十戸」という表記があり、この事から、「五十戸制」以前は「三十戸制」であったと考える向きもあるようです。(注四)しかし、『隋書俀国伝』に示された「五九〇年付近」という段階での「八十戸制」を疑うことは困難であり(その根拠がない)、そう考えると「阿毎多利思北孤」の改革により「国県制」が施行された(注五)段階(六世紀末)で改定されたと考えるしかなくなるわけですが、この時の「阿毎多利思北孤」は制度改革の多くを「隋制」によっており、その「隋」に「三十戸制」というような「編戸」が存在していなかったと見られることから、この段階でそのような改定を行ったと見ることはできないと思われます。
 この「六世紀末」という段階で「五十戸制」が「施行」されたとすると、「評制」施行と同時であったと推測されます。その「評制」については「軍事」的要素が強いとされ、そのような認識は多くの論者の共通のものになっているようですが、そうであるなら、それと同時改定と思われる「五十戸制」についても同様の意義があるものと思料します。
 ところで「養老令」中の「軍防令」の規定によれば、「軍団」は千人単位(それを構成する「隊」は五十人単位)で構成するとされています。さらに、「将軍」の率いる「軍」の「兵員数」が「一万人以上」の場合には「副将軍」が二人配置されるように書かれていますが、五千人以上一万人以下では「副将軍」は一名に減員するものとされています。

「軍防令二十四 将帥出征条 凡将帥出征。兵満一万人以上将軍一人。副将軍二人。軍監二人。軍曹四人。録事四人。五千人以上。減副将軍軍監各一人。録事二人。三千人以上。減軍曹二人。各為一軍毎惣三軍大将軍一人。」

 ここでは以下の「百済を救う役」及び「白村江の戦い」という実例の中にこの「軍防令」を「仮に」適用して考えてみます。
 『書紀』の「斉明紀」の「百済を救う役」の記事中の「前将軍」の率いる軍に付いては「副将軍」と目される人間は一人だけであり(「小華下河邊百枝臣」)、それは「後将軍」の「大華下阿倍引田比邏夫臣」の副官として「大山上物部連熊」「大山上守君大石」の計二名が添えられているのと異なっています。これは先述した規定によって「前軍」の兵員数が「一万人」以下であり、「後軍」は「一万人以上」であるということを示すと考えられ、総員凡そ「二万人」ほどであったものと思料されます。

「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖」

 それに対し以下の例では「将軍」としては「阿曇連比羅夫」しか書かれていません。

「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」

 しかし、ここでは「阿曇連比羅夫」が「大将軍」と呼称されています。これについては同様に「軍防令」の中に、軍の構成が「三軍」以上の場合は一人が「大将軍」となると規定されており、それに準ずると、この時は実は「三軍」構成ではなかったかと推定され、この時の一軍あたりの兵員は(『書紀』には書かれていませんが)以下の例から考えて、各々「九千人」程度であったのではないかと考えられます。
 その後に派遣された軍の記事では、明確に「三軍構成」であることが記載されています。

「(天智称制)二年(六六三年)三月。遣前將軍上毛野君稚子。間人連大盖。中將軍巨勢神前臣譯語。三輪君根麻呂。後將軍阿倍引田臣比邏夫。大宅臣鎌柄。率二萬七千人打新羅。」

 この記事では各々の軍の「将軍」とされる「上毛野君稚子」「巨勢神前臣譯語」「阿倍引田臣比邏夫」の直後に書いてある「間人連大盖」「三輪君根麻呂」「大宅臣鎌柄」は「副将軍」であると考えられ、「副将軍」は「軍」の総兵員数が「五千人以上」「一万人未満」の場合は「一人」と決められているわけですが、ここではその「総数」として「二万七千人」という人数が書かれており、そのことから各軍は約九千人であったと推定されますが、この数字は「五千人以上一万人未満」という「枠」の中に正確に入っています。
 また「三軍構成」となっているわけですから、「大将軍」が一人任命されていたものと考えられ、「蝦夷」遠征の実績などから考えると「後将軍」である「阿倍引田臣比邏夫」がこの時の「大将軍」であったのではないかと推察されます。 
 以上「軍防令」を「百済を救う役」などに適用して考えてみたわけですが、ほぼ「齟齬」するところがなく、この「軍防令」でこの時点における「軍」の編成などがおよそ説明できてしまえそうです。このことは「軍防令」とほぼ「同内容」の「軍」に関する「定め」がこの段階で既に存在していたことを示すものと言えます。
 また、これら動員された「兵士」の徴発の際には、その基準となる「戸籍」の存在が必要であり、上に見た「評制」の全国展開とともに「五十戸制」に「改定」したという時点がもっとも「造籍」のタイミングとして適切であるように思われます。
 「岸俊男氏」の研究によれば、(注六)「大宝二年戸籍」による「女子」年齢別人口について調べてみると「十歳」ごとに人口が増加しているように見え、これは「十年ごと」の改籍の際に一括して追記された可能性があるとされています。
 その中の「生年」で見てみると女子の人口が多いとされるのは「六三一年」から始まっており、以降十年ごとにピークが来ていますが、この「六三一年」より以前はすでにほぼ全員死去していると考えられますから、戸籍になくて当然ともいえ、その意味で「六三一年」より以前に戸籍がなかったとはいえなくなります。また「六五一年」にもピークが確認されます。これはこの年に「造籍」が行われたことを示すと考えられ、この時の造籍が「軍制」の編成に利用されたものと推測することが可能です。(注七)そして、その時点以降至近の年次に「軍制」についての「定め」ができ、それに基づいて「軍」が編成され、「半島」に派遣されることとなったという流れが想定されます。
 これらのことは、「五十戸制」という「戸制」の制度と「軍制」とがやはり「関連している」と考えざるを得ないものです。
 「評」の戸数については、「常陸国風土記」に「評」の新設を上申した文章があり、その記載から「七百余戸」程度であったと考えられ、(注八)それは「隋書俀国伝」から推測される当時の「軍尼」の管轄範囲の戸数が「八百戸」程度になる事とも大きく異ならないと考えられます。
 その「評」の戸数が「七五〇-八〇〇」程度であることと、「唐」で設置されたという「折衝府」の平均的兵員数(八〇〇人)とがほぼ等しいのは偶然ではなく、「評」自体が「折衝府」的意味合いを持って設置されたのではないかという推測が可能です。
 また、この「軍制」では「正丁三人に一人」程度の割合で徴兵するとされていたようであり、国内的にはそれがそのまま行われたものかは明確ではありませんが、「大宝二年戸籍」の中の「三野国戸籍」では多くの「戸」において「正丁六人以上」の「戸」からも「兵士」は「一名」だけしか「徴発」されていないことが確認されることから、「唐制」をやや「緩和」して国内に適用したと考えられるものです。それは「持統紀」の記事からも読み取れます。
 「持統紀」に記された「点兵率」(正丁の中から兵士を徴発する割合)として考えられる以下の記事については、「正丁四人から一兵士」ということが書かれているとされ、この基準はそのまま『大宝令』にも受け継がれたものと考えられているようです。(注九)
 そして「軍防令」の「正丁三人から一兵士」という基準は「唐制」の模倣そのものであって、実質的には「最低基準」として機能したと考えられるとされています。
 
(参考)「持統三年(六八九年)潤八月辛亥朔庚申。詔諸國司曰。今冬戸籍可造。宜限九月糺捉浮浪。其兵士者毎於一國四分而點其一令習武事。」

 このように「正丁四人に一人」という基準が「難波朝」でも実施されたとみられますが、それは上で見たようにほぼ「一戸」から「一兵士」を徴発する事と「大差ない」ものであったと見られ、それは「評」の戸数とその「評」から徴発される「兵士数」がほぼ等しいことを推定させるものです。
 以上のことを想定すると前述した「百済」を巡る戦いへの派遣軍について「不審」とすべき事があると思われます。それは「白村江の戦い」への派遣の人数として「二万七千人」という数字が見えていることです。
 上で見たよう「三軍構成」で組織され、その各々が「九千人」程度であったと考えられるわけですが、何か数字が「半端」であると思うのは当方だけでしょうか。
 なぜ「三万人」ではないのか、なぜ一軍一万人で構成されなかったのか。そう考えた場合、「折衝府」たる「評」に集められた「兵員数」が「平均七五〇」名であったとすると、それを足していくと「一万人」にはなりにくいことが分かります。
 「軍」が「評」単位で編成されたことは「軍防令」(兵士簡点条)にも「兵士を徴発するにあたっては、みな本籍近くの軍団に配属させること。隔越(国外に配属)してはならない。」という意味の規定がありますが、その「評」に集められた「人数」が「七五〇人」程度であったとすると「軍」の兵員数も「七五〇」の倍数になるという可能性が高いと思料され、「切り」のいいところ(千位のフルナンバー)になるのは「九千人」(七五〇×十二)であると推定されます。つまり、この「九千人」というのが「原・軍防令」とでもいうべきものの中に「定員数」の基準として存在していたものであり、そのため「三軍構成」の場合の「一軍」が「約九千人」なのではないでしょうか。
 つまり、「軍防令」では「軍団」は「千人単位」ですが、この「難波朝」時代の「原・軍防令」では「七五〇人」つまり「評」単位で「軍団」が形成されていたのではないかと推定されるものです。
 また、上で見たように「総数」で「七万四千人」という兵力を送って戦ったこととなると思われますが、「戸数」とほぼ比例して兵士を送り出したと仮定すると、「七万四千戸」から「兵士」を出したこととなり、「七五〇戸」が「評」の平均戸数と考えると「約一〇〇」の「評」から「兵士」を出したこととなります。
 「評」の数は元々「隋書俀国伝」にある「軍尼」の数とそう違わないと考えると「一二〇」あったわけであり、また同じく「隋書倭国伝」からは戸数としては「九万六千戸(八〇〇×一二〇)」という数字が想定できます。この事からかなり多くの評から「規定通り」に「兵士」が送り出されたものと推定可能です。(注十)
 また後の「防人」に関する史料によると「防人」として「徴発」されて「帰国」する人数は「十一国」の約「二千名」とされています。(注十一)その内訳を見るとたとえば「常陸」において「二六五人」とされています。この「常陸」の国は当時(七三八年)「十一」の「郡」から構成されていたと考えられ、この当時の「郡」の戸数は「評」時代よりは増加していると考えられますが、上で推定した「評制」下の「軍団」の「単位」が「七五〇人」であったと推定したことからの類推として、「軍防令」に示された「千人単位」の軍団というものが、当時の「郡」の「上限」の戸数を示すと考えられ、これは「郡」の戸数において以前の「評」の時代の「七五〇戸」程度から約「千戸」ほどに増えた事を意味すると考えると、(注十二)「計算上」では「防人」の徴発の割合は「四~五十戸」に対して「一名」の「防人」を出したものと計算され、「五十戸一防人制」つまりひとつの里(さと)から一名の「防人兵士」を徴発する制度とされていたらしいことが推定できます。
 先に見たように「改新の詔」では「仕丁」の徴発基準として「旧」の「三十戸」から「新」として「五十戸」に改められているわけですが、これにより明らかに「仕丁」の総人数は減少していることとなります。このような制度改定の背景として上にみた「軍制」施行による「兵士」の徴発との関係があったものと見られます。
 つまり、「仕丁」の人数の減少分は「防人」などの人員に振り向けられたものと考える事もできそうです。(注十三)
 以上考察したように「五十戸制」が「軍制」と関連していると考えられるわけであり、そのため「里」の戸数として「五十戸」を大幅に超えるような「里」編成は想定しなかったし、実際にも行なわれなかったと見られます。
 つまり「一隊」が「一里」に対応していると考えられるわけであり、「一里」に五十戸以上戸数があるとその分は「別の隊」に組み込まざるを得なくなって、その結果他の「隊」の編成に影響を与える可能性が出て来かねないからです。
 「一里八十戸制」時代は「軍制」の規定が「未整備」であったと見られ、その結果「八十」をかなり上下する里もあったものと見られます。(つまり八十という数字は「平均」に近いものか)
 そのような場合「仕丁」の徴発基準を「八十戸から二人」というように「固定的」に考えると、実際に徴発される「仕丁」の数は「里」ごとに「不均衡」というより「不公平」が出る可能性も考えられます。
 そうならないようにするには「八十戸以下」の場合はどうするか「八十戸を超えたら」どうするかを決めておく必要があるわけであり、もっとも合理的なものは「三十戸」から一人と決めることだったのではないでしょうか。
 こうすると九十戸ある場合は「三人」出せば良いし、「六十戸」から「九十戸」の間は二人、もし「六十戸」以下ならば一人というように「柔軟」な対応(徴発)が可能となると思われます。

(注)
一.義江明子「編戸制の意義 -軍事力編成との関わりにおいて-」「史学雑誌」一九七二年及び吉田孝「公地公民について」「続日本古代史論集」所収一九七二年、さらに直木孝次郎「軍団の兵数と配備の範囲について」「明日香奈良時代の研究」所収一九七五年等によります。
二.「石上遺跡」から出土した「木簡」(以下)により「乙丑年」(六六五年)という段階で「五十戸制」が施行されていたことが明らかになっています。
「石神遺跡出土木簡 」
「(表)乙丑年十二月三野国ム下評」
「(裏) 大山五十戸造ム下部知ツ
          口人田部児安」
三.永利洋介「編戸制の軍事的性格について -吉田・義江両説の検討-」「史学」第五十七巻一九八七年
四.関和彦「風土記と古代社会」塙書房一九八四年
五.拙論「国県制と六十六国分国」(上・下)古田史学会報一〇八号・一〇九号二〇一二年
六.岸俊男「十二支と古代人名-籍帳記載年齢考-」及び「造籍と大化改新詔」「日本古代籍帳の研究」所収 塙書房
七.「六三一年」が最初のピークを示すということはその十年前の「六二一年」にも造籍されているという可能性が強いと考えられます。しかし、その年に生まれた方々は「大宝二年」という段階では既に「八十歳」になられるわけであり、人口に占める割合が非常に少なく、ピーク等が確認できないものです。
八.「常陸国風土記」「行方郡」の条
「行方郡の東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請総領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家」とあります。
九.この記事については「三十四年遡上」の対象ではないと思料されます。それはこれが「三十四年遡上」の対象であったとすると、実際の年次は「六五五年」のこととなりますが、「大宝二年戸籍」の中の女子人口のピークがこの「六五五年」という年次にはなく、この年次で造籍されたかどうかは「疑問」と考えられるからです。
十.「兵士」を徴発した「戸数」として全体(九万六千戸)に二万戸ほど足りないように考えられますが、そのことについては、それが「東国」(あづま)の地域の「兵士」であったのではないかと思料され、彼等が派遣されていない可能性があると思料します。理由としては「東国」からは「防人」を出しており、「正規兵員」としては「対象外」であったという可能性もあります。また、言葉の問題などで他の諸国の部隊と統一した訓練などが困難であったと言う事も考えられます。
十一.岸俊男「防人考 -東国と西国」日本古代政治史研究」一九六六年所収 塙書房、それによれば「駿河国正税帳」などからの解析によれば東国に帰還する防人は総計千八十三人とされており、その「国別」内訳は「伊豆国」二十二人、「甲斐国」三十九人、「相模国」二三〇人、「安房国」二十三人、「上総国」二二三人、「下総国」二七〇人、「常陸国」二六五人とされています。
十二.「令義解」によれば「郡は千戸を過ごすを得ず。若五十戸以上余る者。此郡に入れる隷。」とあり、当時「郡」の戸数の上限が「千戸」であったことが知れます。
十三.「改新の詔」の中に書かれた「而毎五十戸一人以一人充厮。」という規定は「五十戸」から一人なのか二人なのか微妙な表現ですが、『養老令』の「賦役令」を見ると明確に「凡て仕丁は、五十戸ごとに二人とし、一人を以て厮丁に充つ。」とされており、「改新の詔」時点でも「五十戸から二人」徴発されるものであったことは間違いないものと推定されます。
コメント

前方後円墳の築造停止と薄葬令

2024年03月16日 | 古代史
以下は以前会報に投稿したものですが「未採用」となっているものです。
(投稿日付は二〇一二年十一月八日。)

「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」
  
「要旨」
「前方後円墳」は「六世紀末」と「七世紀初め」の二段階でその築造が停止されているが、これは「停止」に関する「詔」が出されたためと考えられ、『孝徳紀』の「薄葬令」が、その内容分析から、「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。以上について述べるものです。

(Ⅰ)前方後円墳の築造停止について
 「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉に「前方後円墳」の築造が停止されます。正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えます。
 この「前方後円墳」の「築造停止」という現象については色々研究がなされ、意見もあるようですが、「仏教」との関連が考えられるのはもちろんです。何らかの「仏教」的動きと関連しているとは考えられていますが、それが「一斉」に「停止」されるという現象を正確に説明したものはまだ見ないようです。
 このように「一斉」に「前方後円墳」の築造が停止されることについては、拙稿(註一)でも論じたようにこの段階で列島に「強い権力者」が登場したことを意味すると思われ、「為政者」の意志を末端まで短期間に伝達・徹底させる組織が整備されたことを意味すると考えられるわけですが、またこの時点でその「意志」を明示する何らかの「詔」なり「令」が出されたことを推察させます。また、その終焉が「二回」別の時期として確認されるということは、そのような「詔」の類が「二回」出されたことを意味するとも思われます。
 そのように二回に分かれる原因としては、この「築造停止」の「発信源」が「近畿」ではなかったと考えられることと、「東国」の「行政組織」が「未熟」であったことがその理由として挙げられます。
 この時の「権力中心」が「近畿」にあるのなら、列島の「東西」に指示が伝搬するのに「時間差」が生じる理由がやや不明ですが、「発信源」がより「西方」にあったと考えると「時間差」はある意味必然です。当然「権力」の及ぶ範囲が「西日本」側に偏ることとなるものと思われますが、その場合発信源として最も考えられるのは「筑紫」であり、それが「倭国」の本国であったとしたとき、近隣の「諸国」である「西日本」と「遠距離」にある「東国」など「諸国」への「統治力」の「差」がここに現れたとして不自然ではありません。
 この時点では「東国」に対する「統治機構」の整備が「不十分」で「未発達」であったと推察され、それが「東国」における「前方後円墳」の停止が遅れる理由と思われます。
 しかし、出されたはずの「詔」に類するものが『書紀』の該当年次付近では見あたりません。わずかにそれに「近い」と思えるものとして、「推古二年」に出されたとされる「寺院造営」を督励する詔があります。

「(推古)二年(五九四年)春二月丙寅朔。詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舎。即是謂寺焉。」

 この「詔」は、六世紀末付近に各地に多くの寺院が建築される「根拠」となった「詔」であると考えられています。従来この事と「前方後円墳」の築造停止には「関連」があると考えられていました。つまり、「前方後円墳」で行われていた(と考えられる)「祭祀」がこの「詔」の制約を受けたと言うわけです。ここで行なわれていた「祭祀」は「当初」(「竪穴式石室」の段階)「円頂部」で行なわれ、後には(「横穴式石室」へ変遷して以降)「方」と「円」の「つなぎ目」付近で行なわれたと見られますが、これは「倭国中央」と「諸国」の王との間の「統治―被統治関係」を表す非常に重要なものであったものであり、上の「詔」を承ける形で書かれている「諸臣連等各爲君親之恩。」という言葉に象徴されるように、その「祭祀」は「君」や「親」に対する「敬意」の表現であると同時に、「統治―被統治」の関係を確認する「服属儀礼」の意味合いが強いものであったと考えられています。ですから、「寺院」を造営する、ということは、そのようなものを今後は「仏教形式」で行うように、という指示をも意味すると思われ、このことが「前方後円墳」の築造に関わる動きに非常に重大な影響を与えたことは間違いないとは考えられるものの、他方この「詔」が「前方後円墳」の「築造」を「停止」するように、という「直接的」なものではなかったことも重要です。なぜならば、「前方後円墳」は結局は「墓」であるのに対して、「寺」は「墓」ではなかったからです。
かなり後代まで「寺院」では「墓」も造られず、「葬儀」も行われなかったものであり、「寺」と「墓」とは当時は直接はつながらない存在であったものです。つまり、この「詔」では「墓」について何か述べているわけではないと考えられ、直接的に「古墳」築造停止にはつながらないと考えられますが、であればそのような「墳墓造営」に関する指示や「詔」が別に出ていた、と考えざるを得ないものです。
 しかし、資料上ではそのようなものが見あたりません。「何」を根拠として「前方後円墳」の「築造」が「一斉」に停止されることとなったのかが従来不明であったのです。

(Ⅱ)「薄葬令」について
 『書紀』によれば「薄葬令」というものが「孝徳朝」期に出されています。
(以下「薄葬令」を示します。)

「(六四六年)大化二年…三月…甲申。詔曰。朕聞。西土之君戒其民曰。古之葬者。因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨。衣衿足以朽完而已。故吾營此丘墟不食之地。欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅。一以以瓦器合古塗車蒭靈之義。棺漆際會。奠三過飯。含無以珠玉無。施珠襦玉■。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也。欲人之不得見也。迺者我民貧絶。專由營墓。爰陳其制尊卑使別。夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。上臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方七等尋。高三尋。役五百人。五日使訖。其葬時帷帳等用白布。擔而行之。盖此以肩擔與而送之乎。下臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方五尋。高二尋半。役二百五十人。三日使訖。其葬時帷帳等用白布。亦准於上。大仁。小仁之墓者。其内長九九尺。高濶各四尺。不封使平。役一百人。一日使訖。大禮以下小智以上之墓者。皆准大仁。役五十人。一日使訖。凡王以下小智以上之墓者。宜用小石。其帷帳等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其帷帳等可用麁布。一日莫停。凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。」

 この「詔」の中ではその墓域の大きさについて規定しており、それによれば「王以上」つまり高位の官人あるいは皇族でさえも「墓域」の外寸として「方九尋」とされています。
ここで「大きさ」の単位として使用している「尋」は、「両手を広げた」長さと言われ、主に「海」などの深さ(垂直方向)の単位として知られています。しかしここでは「墓」の外寸として使用されており、明らかに「水平方向」の長さを表すものとして使用されています。
 『説文』では「一尋」は「八尺」であるとされています。列島では「殷代」以降「尺」の単位長として「18cm」ほどが長期間に亘り使用されてきたと推定されるわけですが、『説文』が説くように「一尋」を「八尺」とした場合「一尋」は「1.44m」ほどとなります。これから計算すると、「薄葬令」に規定する「王以上」の墳墓の「外域」の大きさとして書かれた「九尋」は「13m」ほどにしかなりません。この数字は「終末期古墳」の大きさとはまったく整合していないのです。
この「薄葬令」は『書紀』では「七世紀半ば」の「孝徳紀」に現れるものですが、従来からこの「薄葬令」に適合する「墳墓」がこの時代には見あたらないことが指摘されていました。この「薄葬令」を出したとされる「孝徳」の陵墓とされる「大阪磯長陵」(円墳です)でさえも、その直径が三十五メートルほどあり、規定には合致していないと考えられています。そのため、この時点で出されたものではないという可能性が指摘されていました。より遅い時期である『持統紀』付近に出されたものではないかと考える向きもあったものです。(註二)その場合「持統」の「墓」が「薄葬令」に適合しているということを捉えて、『持統紀』に出されたものと考えるわけですが、しかし、この「薄葬令」には『書紀』によれば「六〇三年」から「六四七年」まで使われたとされる「冠位」が書かれています。

「王以上之墓者…」「上臣之墓者…」「下臣之墓者…」「大仁。小仁之墓者…」「大禮以下小智以上之墓者…」

 このように「薄葬令」の中では「六四七年」までしか使用されなかった冠位が使用されていることから、これを捉えて「薄葬令」が「持統朝」に出されたとは言えない、とする考え方もあり、それが正しければ、「孝徳紀」以前に出されたものとしか考えられないこととなります。(もちろんこれを「八世紀以降」の「潤色」という考え方もあるとは思われますが)
 これについては、「前方後円墳」の築造停止という現象と関係しているとか考えることもできそうですが、その場合「七世紀半ば」というタイミングで出されたものではないのではないかという疑いが発生します。

(Ⅲ)「薄葬令」と前方後円墳の関係
 この「薄葬令」の中身を正視すると、「前方後円墳」の築造停止に直接つながるものであると判断できます。
 この「詔」の中では、たとえば「王以上」の場合を見てみると、「内」つまり「墓室」に関する規定として「長さ」が「九尺」、「濶」(広さ)「五尺」といいますからやや縦長の墓室が想定されているようですが、「外域」は「方」で表されており、これは「方形」などを想定したものであることが推定される表現です。(註三)『岩波古典文学大系』の「注」でも「方形」と考えているようです。もっとも、この「方~」という表現は「方形」に限るわけではなく、「縦」「横」が等しい形を表すものですから、例えば「円墳」等や「八角墳」なども含み得るものです。
 ちなみに「方」で外寸を表すのは以下のように『魏志倭人伝』にも現れていました。

「…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里』、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。…」

 この「方」で外寸を表す表現法は「円形」も含め、この「島」の例のようにやや不定形のものについても適用されるものです。「墳墓」が不定形と言うこともないわけですが、かなりバリエーションが考えられる表現であることは確かでしょう。ただし、主たる「墳形」として「円墳」を想定しているというわけではない事は、『倭人伝』の卑弥呼の墓の形容にあるように「径~」という表現がされていないことからも明らかです。この表現は「円墳」に特有のものと考えられますから、このような表現がされていないことから、「円墳」を主として想定したものではないことは明白です。
 しかしいずれにせよ、明らかに「前方後円墳」についての規定ではないことも分かります。この「薄葬令」の規定に従えば「墳墓」として「前方後円墳」を造成することは「自動的に」できなくなるからです。なぜなら「前方後円墳」は「縦横」のサイズが異なり、「方」で表現するのにはなじまない形だからです。このことから考えて、「墳墓」の「形と大きさ」を規定した「薄葬令」が出されたことと、「前方後円墳」が築造されなくなるという現象の間には「深い関係」があることとなります。

(Ⅳ)「殉死」の禁止規定について
 さらに、この「薄葬令」が「七世紀半ば」に出されたとすると「矛盾」があると考えられるのが、後半に書かれている「人や馬」などについての「殉死」禁止の規定です。

「凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。」

 そもそも、「殉葬」は『倭人伝』にもあるように「卑弥呼」の頃から「倭国」では行なわれていたものと考えられるものの、出土した遺跡からは「七世紀」に入ってからそのような事が行なわれていた形跡は確認できていません。明らかに「馬」を「追葬」したと考えられる例や、「陪葬」と思われる例は「六世紀後半」辺りまでは確認できるものの、それ以降は見あたらないとされます。
 このことから考えて、このような内容の「詔」が出されたり、またそれにより「禁止」されるべき状況(現実)が「七世紀」に入ってからは存在していたとは考えられないのは確かです。存在しないものを「禁止」する必要はないわけですから、この「禁止規定」が有効であるためには、「殉葬」がまだ行われていると云う現実が必要であるわけであり、その意味からも「七世紀半ば」という年代は、「詔」の内容とは整合しないものです。

(Ⅳ)「薄葬令」の真の時期
 「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」の発布の間に関係があるとみた訳ですが、このように推定した場合、実際に「詔」が出されたのは「前方後円墳」の「終焉」の二つの時期のうち、当然先行する西日本において築造が停止される「六世紀後半」に出されたとみるべきです。また「薄葬令」上の「殉葬」についての禁止規定から考えても、「六世紀後半」が最も想定すべき時期でしょう。
 『隋書俀国伝』を見ると「貴人については三年間」と書かれており、「薄葬令」以前の状況であるのは明白です。「薄葬令」では「殯」自体が禁止されていますから整合しません。さらに「古墳造営」に必要な労働力である「役(えだち)」についても「五十人」の定数倍の人数が書かれており、これはこの時点で「一里五十戸制」である事が推定できますが、同じく『隋書俀国伝』では「一里八十戸制」と理解されることが書かれており、食い違っています。これらの「五十戸制」を示す記述や「殯の期間」に関する記述はその起源が「隋」にあり、倭国が「遣隋使」を派遣した時期以降であることが強く推定できますから、逆にいうと『隋書俀国伝』の記述はかなり早期に「倭国」と『隋』の間で使者のやり取りが行われたことを示すものでもあります。それは「隋代七部楽」の成立事情から考えても「開皇年間の初め」であり、「五九〇年以前」であることが推定できますが、そこで「隋帝」から「訓令」を受けたことが強く作用した結果「薄葬令」を出すこととなったものと思われ、「前方後円墳」とそこで行われていた「祭祀」を取りやめることで「時代」の位相を転換したものと考えられます。

(Ⅴ)「薄葬令」の起源 
 この「薄葬令」は中国に前例があり、「儀」の曹操が「厚葬」を批判する言葉を残しており、さらに彼の子息である「魏」の「文帝」(曹丕)が明確に「薄葬令」とでもいうべきものを出しています。
「大化」の「薄葬令」では以下のように書かれています。

「…西土之君戒其民曰。古之葬者。因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨。衣衿足以朽完而已。故吾營此丘墟不食之地。欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅。一以以瓦器合古塗車蒭靈之義。棺漆際會。奠三過飯。含無以珠玉無。施珠襦玉■。諸愚俗所爲也。…」

ここでいう「西土之君」というのが「魏」の「文帝」とみられるわけです。
その彼が出した「詔」が以下のものです。

「冬十月甲子,表首陽山東為壽陵,作終制曰:「禮,國君即位為椑,椑音扶歷反。存不忘亡也。昔堯葬穀林,通樹之,禹葬會稽,農不易畝,故葬於山林,則合乎山林。封樹之制,非上古也,吾無取焉。壽陵因山為體,無為封樹,無立寢殿,造園邑,通神道。夫葬也者,藏也,欲人之不得見也。骨無痛痒之知,冢非棲神之宅,禮不墓祭,欲存亡之不黷也,『為棺槨足以朽骨,衣衾足以朽肉而已。故吾營此丘墟不食之地,欲使易代之後不知其處。無施葦炭,無藏金銀銅鐵,一以瓦器,合古塗車、芻靈之義。棺但漆際會三過,飯含無以珠玉,無施珠襦玉匣,諸愚俗所為也。』季孫以璵璠斂,孔子歷級而救之,譬之暴骸中原。」

 彼の父である「曹操」も「厚葬」を批判していたわけですが、「文帝」においても「漢代」以降傾向として存在していた「薄葬」へ明確に舵を切ったとされます。倭国でもこれを踏まえた上で出したものと考えられるわけですが、その背景としては、一般には「盗掘」を恐れたこと、墳墓の造成に伴う多大な出費と人民の労力の負担を哀れんだ為であるとされているようです。しかし最も大きな理由は「前方後円墳」に付随の「祭祀」を禁止するためというものではなかったでしょうか。というのは、この「前方後円墳」で行なわれていた祭祀の内容については「前王」が亡くなった後行なわれる「殯」の中で「新王」との「交代儀式」を「霊的存在の受け渡し」という、「古式」に則って行なっていたものと考えられており、このようなものを「忌避」しようとしたと考えられます。
 「王」の交代というものが「神意」によるということになると、相対的に「倭国王」の権威が低下することとなってしまいます。なぜならこの時「阿毎多利思北孤」は「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され、「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されます。またそのことは「冠位」の制定と関係しているといえます。
 『書紀』によれば「冠位」の制定は「六〇四年」とされています。しかし『隋書俀国伝』には「遣隋使」からの情報として「冠位制定」が記されています。
(以下『隋書俀国伝』の一節)

「開皇二十年(六〇〇年)…上令所司訪其風俗。使者言…頭亦無冠 但垂髮於兩耳上。 至隋其王始制冠 以錦綵為之以金銀鏤花為飾。…」

 これによれば、「遣隋使」が述べた「風俗」の中に「冠位制」について記されており、そこでは「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀後半」に「冠位制」が施行されたことを意味していると考えられます。(ただし「官位」と「冠」との関係がこの時できたということを示すものと思われ、「官位」そのものはそれ以前からあったと思われますが)
 それはすなわち「諸国」の王達も含めた「倭国王」を頂点とする権力のピラミッド構造を構築しようとしていたと考えられるものです。
 そうであれば「王」の交代というものに「倭国王」が介在しない形の「祭祀」が存在するのは問題であったかも知れず、これを避けようとするのは当然かも知れません。そのため、「古墳造営」に対して「制限」(特にその「形状」)を加えることで、そのような「古式」的呪術を取り除こうとしたものと推測され、そのため「前方後円墳」が「狙い撃ち」されたように「終焉」を迎えるのだと考えられます。
 そのことは「埴輪」の終焉が同時であることからも言えそうです。「埴輪」の意義については各種の議論がありますが、「前方後円墳」で行われていた「祭祀」の重要な要素であり、「墓域」を「聖域」化するためのパーツであるというものがあります。これらについても「前方後円墳」の築造停止と共に消滅するものであり、これは「祭祀」が停止されたことに付随する現象であると考えられるものです。
 さらに重要な事情として考えられるのは、それらの古典的祭祀が「隋」の皇帝から「道理がない」として拒否された「兄弟統治」そのものであったことが実は重要であったと思われます。
 「阿毎多利思歩孤」はその初めての使者を「隋」に送った際、倭国の統治形態として以下のようなことを「使者」に語らせており、それを「隋」の皇帝(高祖)から「太無義理」と一蹴されています。

「開皇二十年 倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言 倭王以天為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟。高祖曰此太無義理。於是訓令改之。」

 「隋」皇帝は倭国で行われていた旧態依然の祭祀とそれに基づく統治について異を唱えたものであり、それらを廃止するとともに「仏教」を統治の中心に据えるよう強く指導したものと思われます。それに対し「倭国王権」はその「訓令」を重大に受け取り、それに対応しようとした考えられるのです。
 「前方後円墳」で行われていた祭祀もこれに類するものであり、仏教的観念からは遠く離れたものであって、それを排除することで「隋」皇帝の「訓令」にかなうものと、「阿毎多利思北孤」が考えたものであって、そのような「古典的祭祀」が彼が統一王権を確立するのに障害となると考えられたため、それを「廃止」するという方向で施策が実施されたものと思われるわけです。
 また「隋」からの使者が再び訪れた際に「仏教」を中心としたた体制に確かに変わったと「使者」にアピールできるようにしておく必要もあったものと思われるわけです。
 以上のことから「開皇年間の初め」に派遣された「遣隋使」が「隋」皇帝から受けた「訓令」を基礎として「薄葬令」が出されたと考えて「事実」をよく説明できるものと思われ、これは実際に「薄葬令」が出された時期から『書紀』に書かれた年代である「七世紀半ば」まで「移動されている」と考えるよりなく、その場合年数として「約六十年」の記事移動の可能性が高いと考えられるものです。

(Ⅵ)「薄葬令」と放棄された巨大建造物
 また、『古田史学会報』七十四号(二〇〇六年六月六日)で「竹村順広」氏が「放棄石造物と九州王朝」という題で触れられた「益田岩船」(奈良県橿原市白橿町)や「石宝殿」(兵庫県高砂市竜山)などの「巨大建造物」は、明らかに「工事途中」の「古墳」の一部であり(外形はどのようなものになる予定であったかは不明ですが)、これは「竹村説」とは異なり、「六世紀終末」という時点で「薄葬令」が出されたことにより、その工事が途中で「放棄」されたものであると見る事ができるでしょう。
 この「古墳」が(竹村氏も引用するように)『播磨国風土記』の中で「聖徳王御世、弓削大連所造之石也。」とされているように「聖徳王」つまり「阿毎多利思北孤」(ないしはその太子「利歌彌多仏利」)の時代のこととされ、また「物部守屋」と関連して語られていることなどからも、この「石造物」が「六世紀末」のものであることを強く示唆しています。

(補足)
 『書紀』によると「薄葬令」は「改新の詔」と同じタイミング(直後)で出されたものであり、「改新の詔」の「直前」に出された「東国国司詔」などと「一連」「一体」になっているものですから、上の考察により、「改新の詔」を含む全体がもっと早期に出されたものと考える余地が出てきますが、その詳細については別途詳述したいと思います。

(注)
一.拙論 『「国県制」と「六十六国分国」(上)(下)』(『古田史学会報』一〇八号及び一〇九号)
二.中村幸雄氏などが「持統」の墓が「薄葬」の規定に則っていると指摘しています。(『新「大化改新」論争の提唱 ― 日本書紀の造作について』中村幸雄論集所収)
三.「外域」とは「墓域」全体を指すものか「墳墓」自体の外寸なのかやや意見が分かれるようですが、上では「墳墓」の外寸として受け取って理解しています。但しいずれでも論旨には変更ありません。
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「殯」と「寿陵」(磐井以降)

2024年03月16日 | 古代史
 前王が死去した後の「殯(もがり)」の期間は通常「蘇生」を願う「魂ふり」が行われ、その後「蘇生」が適わないとなった時点で「魂鎮め」へと移行するとされますが、本質的には「次代」の王を選定する期間でもあります。つまり前王の生前には次代の王は予定されておらず、前王の死後決定されることとなるわけです。
 「倭の五王」の時代「済」の死後、後継者として「世子」である「興」が選ばれたようですが、それが生前から決めてあったことなのかは疑問です。つまり「直系相続」というスタイルが既に決まっていたのかというとそうではないと思われるわけです。それはその直前の「讃」から「珍」への交替において「兄」から「弟」へと継承されたらしいことからも推測できます。(ただし「珍」と「済」の関係は不明)つまり「興」の場合のように「世子」とされることとなったのは「前王」の死後であり、皇族や臣下などの間で協議により決められたものではないかと推測されるわけです。
 たとえば、「推古」の死後「山背」と「田村」双方の皇子について、それぞれを推す臣下間で協議が行われたように、さらには『懐風藻』にあるように「皇太后」が主催して各位に意見を聞く機会が設けられたように、前王の死後に初めて次代の王をだれにするべきなのかが話し合われたと見るべきでしょう。
 またこれは意見が決裂するという可能性があり、その場合争いになることもまた起こりうるということを示します。「山背」と「田村」の場合が典型的であったと思われるわけです。またいわゆる「壬申の乱」においても同様のことが起きたものと思われます。
 ところで、よく言われるように「殯」の期間は「陵墓」の造成期間でもあると思われます。「殯」の後葬儀が行われるという推移からいうと、「陵墓」が未完成では「葬儀」が行うことはできないわけです。しかも「葬儀」では「誄(しのびごと)」が奏されるわけですが、そこには「日嗣ぎの次第」が含まれており、「後継者」が決まらなければ「日嗣ぎの次第」も述べられず、「誄」を奏することもできないこととなります。
 つまり葬儀が行われるためには後継者が決まっていると共に陵墓が完成している必要があることとなるでしょう。当然それには時間(日数)が必要ですから、ある程度の期間が「殯」の期間として確保されていたということを示します。
 これらのことを考えると、注目されるのは「磐井」の場合です。
 「風土記」によれば彼(磐井)は生前から陵墓を築いていたとされます(「岩戸山古墳」がそうであるとされている)。

「上妻縣.…古老傳云:「當雄大跡天皇之世,筑紫君磐井,豪強暴虐,不偃皇風.生平之時,預造此墓.…」「筑後國風土記」

 上に見たように陵墓の造成期間が次代の王を選出する期間であるとすると、「磐井」の場合、生前のうちに「次代の王」つまり「日嗣ぎの皇子」が選定されていたこととなる可能性があるでしょう。(というより複数名の皇子がいて彼等の間に優先順位がつけられていたという可能性があると思われます。)
 このようないわば「念入り」のことが行われた背景には「武」の「父兄」が一気に亡くなったという「武」の上表文にあるような事態が想定されていると思われます。(上の中では「皇風にしたがわない」という文言に続いて「生平の時あらかじめ墓を作る」と書かれており、「生前に墓を作る行為がとがめられている」と思われ、それは『書紀』の大義名分からの文章と思われますが、逆に言うと「皇風」とは「生前に墓を作る」ことであり、それは「最高権力者」だけに認められていたことを推定させます。)
 「五世紀半ば過ぎ」に「倭国王」である「済」とその「世子」「興」等の倭国王権の主要人物が(推測によれば「天然痘」により)一挙に亡くなったと思われ、その際に、その後継が決まっておらず「末弟」で幼少であった「武」の成長を待つ間「皇太后」が称制せざるを得なくなったということが苦い経験としてあったものと思われます。そのことから生前中に後継者など「皇位継承順」をあらかじめ決めておくこととなったという事が推察されます。またそれは「後継者」をめぐる争いをなくすという意味でも必要と判断されたという可能性もあるでしょう。
 「葛子」はその意味で「世子」であり、また「太子」であり、いわゆる「日嗣ぎの皇子」であったと思われ、そのため「筑紫の君」と称されているのではないでしょうか。これは「父」である「磐井」と同じ呼称であり、「筑紫」の領域の統治権を正式に「磐井」から継承していた事を明白に示しています。しかし、「物部」などとの戦いの最中に後継者を決める協議が行われていたとも思われませんから、「葛子」は以前から「日嗣ぎの皇子」として存在していたものと思われるわけです。
 「筑紫の君」として登場するのは父である「磐井」の死後一ヶ月以内のことですから、このような早さで「後継者」が決められるというようなことがあったと考えるより、あらかじめ決められていたと考える方が穏当というものです。
 また彼は「長子」であった可能性が強く、この時点で「倭国王」の継承方法として「直系相続」が決められたものではないでしょうか。
 『隋書』では「倭国王」である「阿毎多利思北孤」の存命中に「太子」が存在しているようですから、これも同様に「皇位継承者」をあらかじめ決めてあったものと思われ、「磐井」の時代のスタイルがそのまま続いていたことを推定させます。
 そう考えると「阿毎多利思北孤」は生前の段階で「陵墓」を既に築造していた(これを「寿陵」というようです)という可能性が高くなるでしょう。しかも彼(というより太子である「利歌彌多仏利」)は「殯」を行わなかったという可能性もでてくるでしょう。
 なぜなら、「殯」の期間が次代の王の選出と陵墓の造営期間であるとすると、生前に「太子」が選定され、陵墓も造営されていたとすると、「殯」そのものがなかったという可能性さえ出てくるからです。
 彼や父である「阿毎多利思北孤」は「仏教」に深く染まっていたと思われますから、その意味からも「殯」という古典的であり、旧式でもあった儀式を行わなかったものとも考えられ、「殯」そのものがなくなったかあるいはそれまでに比して極端に短くなったということが推定されます。
 私見では「薄葬令」は彼等が造ったものと見るわけですが(これについては別途)、そこでは基本的には「殯」の期間は無いものとされており、この推定を裏付けます。

「甲申。詔曰。…凡王以下小智以上之墓者。宜用小石。其帷帳等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其帷帳等可用麁布。一日莫停。凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。…」「孝徳紀」の『薄葬令』より

 ここでは「凡王以下及至庶民不得營殯」とあり、「薄葬令」中に見える「王以上」という言葉と比べて考えてみると「王権」の中心的人物を除いてすべての人物の死において「殯」を営むことを禁じる規定であると判断できます。(ただし「王以下」の場合、「後継者」についてはあらかじめ決めておくべしということなのか、あるいはそのような人物を「倭国中央」が指名して決めるという意味であったのかはやや判然としません)
 この事から「阿毎多利思北孤」や太子「利歌彌多仏利」の死の際には「殯」はあった可能性もありますが、それがいわゆる「もがり」というべきものであったのか、あるいは期間として相当の長さであったのかというと甚だ疑問であると思われます。
 この事から考えて「磐井」の場合も当初予定されていた「殯」の期間はそれまでに比べ相当短かったか、あるいは全くなかったという可能性があるでしょう。(実際には乱が起きたため「殯」が予定されていたとしてもそれどころではなくなったと思われるわけですが)
 そしてそれは「磐井」と「仏教」の関係の深さにもつながるものと思われます。
 ところで、『隋書俀国伝』には「倭国」における「葬儀」について「貴人の場合」は「三年間」とされています。

「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。」

 これによれば「隋」へ派遣された使者は「倭国」の風俗について問いに答える中で「葬儀」について、「貴人」には三年間の「殯」の期間があるとしたわけです。これは上の推定と一見食い違っているようですが、その背景には「磐井」に対する反乱の影響があるように思われます。
 この部分に限らず、この「風俗」について述べられた部分にはあまり「仏教的」な雰囲気が見られません。確かに「如意寶珠」に関する逸話が書かれていますが、これは「阿蘇山」に対する「火山」信仰が形を変えたものであり、根本の部分で「古典的」といえるものです。このように全体として「仏教的」な雰囲気が薄いと見られるわけですが、それは『書紀』によってもあるいは多元史観においても「仏教」の伝来とその信仰の興隆がそれ以前に既にあった可能性があることとやや矛盾するといえるでしょう。
 その理由について考えてみると、「磐井」が「物部」の反乱により死に至った後、国内に「鬼神信仰」への回帰ともいうべき状況が生まれていたことを示すものと思われます。
 「物部」は『書紀』のエピソードにもあるように「反仏教」的立場にいたわけですが、では彼の行動を支配していた「信仰」はどのようなものであったかというのは明確ではないものの古典的な「鬼神信仰」ではなかったかと考えられます。(『書紀』内で「天神地祇」への信仰が書かれています。)
 すでに明らかとなっているように半島において「五世紀後半」という時期に「前方後円墳」が集中的に営まれます。このことが「倭国王権」による「拡張政策」の一環であり、半島において「倭国」の信仰が局地的ながら行われたことを示すものと思われますが、この「前方後円墳」は「五世紀末」に突然その築造が停止されます。このことは「武」の時代以降「拡張政策」が停止されたことを示すと思われ、「半島」や「東国」への武力侵攻や武力による威嚇などの政策は方針が転換された結果取りやめられ、倭国の中心部においては「文治政策」へと移行したものと見られます。
 「鬼神信仰」はそれまで「倭の五王」の「讃」や「珍」などの時代まで「倭国」において中心的位置にいたと思われますが、彼らと「南朝」との結びつきが強まるに及んで、当時南朝で発展し「国教」的位置にいた「道教」が国内に流入したものと思われます。
 「倭国」における「古典的」な宗教である「鬼神信仰」はその「道教」と(完全にではないものの)その一部が結びついて「王権内部」で信仰されるようになったものと思われますが、これは当時拡張政策をとっていた「王権」において「戦い」における「守護神」的な位置に置かれていたものであり、その時代にはかなり篤く尊崇されていたものと思われます。しかし、「拡張政策」の停止と共に「倭王権」の立場として「仏教」を重んずるものへとシフトしていったものと思われるわけです。
 「仏教」はすべてのものに「生命」を見出す性格があり、「血」を好みません。つまり「戦い」においては「無力」というより「邪魔」であったものですが、政策の変更により状況が一変し、「鬼神信仰」やそれと同一化していた「道教」は王権から排除され、「仏教」がその中心に据えられることとなったものと思われます。このため「武」の治世の後半「太子」として「磐井」が定められることとなって時点以降、王権の治世の中心に「仏教」が据えられたものと思われますが、そのことが「陵墓」の生前造営と「太子」の生前予定という事につながっていると思われます。
 しかしそのような状況に反旗を翻したのが「物部」を中心とした「戦闘集団」であったと思われ、彼等は「仏教」が重視されることと、それによって排除されることとなった鬼神―道教信仰というものとを自らに重ねて考えていたものと思われます。自分たち戦闘集団が軽視される、排除される事態に対して異議を申し立てる意味で立ち上がったものと思われるわけであり、この「反乱」により「磐井」率いる「筑紫」本国の勢威が大きく低下した結果、「仏教」もその位置を低下させ、再び「鬼神―道教信仰」が倭国の宗教のメインストリームに出ることとなったものではないでしょうか。そのことが『隋書俀国伝』に書かれた「葬儀」の描写に反映していると思われるのです。
 「倭国」からの使者は「隋皇帝」に対して統治形態について説明したわけですが、その情報の範囲には貴人に対する「殯」の儀式についても含まれていたものであり、それら全体として非仏教的である点について「隋皇帝」から「無義理」とされ「訓告」を受けたと書かれており、それらは以降改定されることとなったと思われるわけですが、「殯」の停止と陵墓の生前造営がその流れの中にあったものと推測します。
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