古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

冬景色と月面

2024年03月09日 | 宇宙・天体
札幌はまだまだ真冬のど真ん中でまだ降るんかい、というぐらい降っています。ちなみに記憶では札幌の平年累計降雪量は5mぐらいあったと思います。現時点ではまだ4m50cmぐらいじゃないでしょうか。
先ほどの南九条通りはこんな感じです。(現在マイナス4℃ぐらい)

除排雪が終わったばかりぐらいかな?道が広くなっており、一時とは見違えるほど良くなっています。
ちゃんとした観測施設が整っている方はよろしいでしょうけど、当方は車で移動してセッティングするやり方なので、この時期はかなりつらいです。体力と気力がそろそろ尽きかかっているので冬季はまあ冬眠のようなものです。
ということで、割と温かい時期に撮った月の写真を載せておきます。





いずれの写真も20cmシュミカセに25mmアイピースで拡大したものにスマホという組み合わせで撮影したものです。

今年は28cmシュミカセとCMOSカメラでトライしてみます。
5月ぐらいからかな?
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「法円坂遺跡群」について(再度)

2024年03月09日 | 古代史
 大阪の中心部、大阪城やその前身である石山本願寺などがあった「上町台地」上に「法円坂遺跡群」と称される遺跡が存在しています。これは「前期難波京」のさらに下層に存在しているものであり、総床面積が1500平米にもなろうという東西計16棟の建物群です。またこれらの建物群の存在時期として「五世紀後半」と考えられており、そのような時代にこれらの巨大な建物群が整然とした形で存在していたのです。
 この遺跡の大きさと配列については「短里系」の基準尺の存在が推定されています。その復元された寸法は「南朝尺」である「24.4センチメートル」付近の値が措定されており(東側列倉庫群)、また「正方位」が既に指向されていることから、「倭の五王」の時代に先進的「南朝文化」が導入されたものと思われることと重なっており、「倭国王権」が主体となった「直轄」事業であることは間違いないと思われます。
 「倭国王権」は幾度も「南朝」に対し「使者」を派遣し「将軍号」を授与されるなど関係を深めていたわけですが、それは「政治的」な部分だけではなく「文化」「制度」「宗教」など多岐にわたるものであったと考えるのが自然であり、そのような中に測量術など土木技術などもあったみられるわけです。
 上に見たように「上町台地」上に「難波大道」の存在が確認されています。この「難波大道」は「古代官道」の中でも「初期」に部類するものであり、それらに共通してやはり「南朝系」の「基準系」があることが確認されています。
 この「法円坂遺跡群」は明らかに「前期難波宮」に先行するわけですから、「難波大道」も「前期難波宮」に先行すると仮定した場合、必然的にこの両者に関係があると考えざるを得なくなるものです。
 そもそも「法円坂遺跡群」は、その規模が非常に大きくこれが「一地方勢力」の範疇を遥かに超えるものであることは間違いありません。つまりそこに「倭国王権」が深く関与していることは確実であり、そのことと「難波大道」という同じく「王権」の関与無しには建設できるはずのない「インフラ」がほぼ同時期に存在している事の間には「直接的関係」があると考えるのは相当と思われるわけです。
 ところで『書紀』に「難波」に都を構えた「天皇」として書かれているのは「孝徳」以前には「仁徳」がいます。「難波大道」記事が出てくるのも彼の時代のことであるわけですから、「難波高津宮」という「仁徳」の宮殿は「法円坂遺跡群」とどのような関係にあるか明確にする必要があるでしょう。
 (ただし『書紀』や『古事記』による限り「仁徳」の年代としては「五世紀」ではなく「四世紀」が想定されていますが、それが実際と異なるであろうというのは種々の理由から明らかです。)
 ところでこの「法円坂遺跡群」は「建物構造」として「蔵」がもっとも考えやすいものですが、それらの建物群の中には「棟持柱」を持つものがあり、これは「集会場」などに使用されていた実績が「弥生」や「縄文」の遺跡から確認されています。このことは一概に「蔵」つまり「倉庫」としての機能しかこれらの建物にないと決めつけるのは早計であるようにも思われ、「宮殿」あるいは「祭祀」につながる用途のものも推定すべきものと思われます。少なくともこの「建物群」の中に「宮殿」がなかったとしても近在には必ず存在していたと思われ、そのことと「高津宮」とが重なるとも言えるでしょう。
 ただし、これらの「建物群」が「倉(蔵)」としての機能がその中心であったこともまた確かであり、その場合それが「邸閣」つまり「軍事用途」であったという可能性は十分にあると思われます。
 「邸閣」とは『倭人伝』にも見られますが、「租賦」を収めるとされると共に『三國志』全体からの結論として「軍事」用途であって、「軍」に糧食として供出すべき存在であったと考えられています。
 「法円坂遺跡群」の時代背景からも、また「武」の上表文からも「武」の時代に「東国」にその軍事的行動の範囲が広がったであろうと推定されることは確実であり、そのこととこの「法円坂遺跡」が関係している可能性もあり、「東国」に対する前進基地(ベースキャンプとでも言うべきでしょうか)を形成していたという可能性を推測させるものです。(その場合当然「糧食」だけではなく「武具・馬具・刀剣類」などの軍事物資も収蔵されていたと考えるべきでしょう。)
 これがそのような「軍事」に関係している施設であるとすると、この場所に「王権の中心」があったとは考えにくいこととなるでしょう。そのようないわば「最前線」は「王権」から遠く離れいた考えられるからです。そのことはこの「法円坂遺跡群」がある時期一斉に取り壊され、柱の一本も残さず抜き取られているという事実からも推定できるものです。(しかもその後「更地」になっています。)
 これらの建物群の存在の背景として軍事的用途があったと見れば、その存在の「必要性」がなくなれば移動・撤去されるべき性質のものであったことは確かであり、軍事作戦の変更(他の地域への転進あるいは撤収)に伴うものというというようなことが考えられるでしょう。「正倉」的建物としてもほぼ同様の事情が考えられます。)
 これら「法円坂遺跡群」の存在は倭国王権の東方進出と重なるものと考えられますから、その技術的背景とともに「倭の五王」の時代が想定され、その設置時期としては五世紀前半、その撤収時期としては五世紀後半ないしは六世紀はじめが考えられるでしょう。ただし「撤収」の意味としては、これが「東国」への支配が貫徹したからなのか、あるいは「武」亡き後方針変更等があり撤退したからなのかはやや不明ではあります。 
 ただしこのように考えてみると、想定される東国に対する軍事行動というものが、その発進地として明らかに近畿にはその中心がなく、近畿以西のどこかであると思われることとなりますが、最も可能性が高いのは「九州島」の中にその軍事的行動の原点があったと見ることではないでしょうか。
 そしてこの時点付近で「中国南朝」の皇帝から下賜された「梅」が「難波津」に植えられたものと思われるわけであり、それ以降「難波」と「難波津」が「倭王権」の「直轄地」であるという「標識」として機能したと思われるわけです。

(この項の作成日 2014/03/15、最終更新 2021/06/19)
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「難波津」について(再度)

2024年03月09日 | 古代史
 『延喜式』の中に「諸国運漕雑物功賃」つまり「諸国」より物資を運ぶ際の料金を設定した記事があります。それを見ると「山陽道」「南海道」の諸国は「海路」による「与等津」までの運賃が記載されており、これらの国は「与等津」へ運ぶように決められていたと思われます。
いくつか例を挙げてみます。

山陽道
播磨国陸路。駄別稲十五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別稲一束。挾杪十八束。水手十二束。自『与等津』運京車賃。石別米五升。但挾杪一人。水手二人漕米
長門国陸路。六十三束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束五把。挾杪?束。水手三十束。自余准播磨国。

南海道
紀伊国陸路。駄別稲十二束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束。挾杪十二束。水手十束。自余准播磨国。
土佐国陸路。百五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別二束。挾杪五十束。水手三十束。但挾杪。水手各漕米八斛。自余准播磨国。

 この「与等津」については詳細不明ながら現在の「淀川」の河口付近にあった「津」と思われ、そこからやはり「水運」で「京」まで運んでいたようです。ところで「大宰府」については「与等津」ではなく「難波津」に運ぶこととなっていたようです。

大宰府海路。自愽多津漕『難波津』船賃。石別五束。挾杪六十束。水手?束。自余准播磨国。…

 「南海道」の諸国の中には「与等津」へ運ぶより「難波津」の方が近い国もあったはずであり、また逆に「博多」からであれば「与等津」の方が近いような気もしますが、当時は現実として「大宰府」は「難波津」へ運ぶとされていたのです。
 ところで「難波津」は歴史的に見て非常に重要な港であったと思われます。そもそも「難波」には迎賓館ともいうべき「難波館」が置かれたとされますし、その後「新羅」「唐」などの使者も皆「難波津」に入っています。(以下の例など)

(六三二年)四年秋八月。大唐遣高表仁送三田耜。共泊干對馬。是時學問僧靈雲。僧旻。及勝鳥養。新羅送使等從之。
冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干『難波津』。則遣大伴連馬養迎於江口。船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整餝。

(六四二年)元年
二月丁亥朔…
壬辰。高麗使人泊『難波津』。

(五月)乙卯朔己未。於河内國依網屯倉前。召翹岐等。令觀射獵。
庚午。百濟國調使船與吉士船。倶泊于『難波津』。盖吉士前奉使於百濟乎。

 また以下では「新羅」に対する威嚇の方法として以下のように「難波津」から「筑紫の海の裏」まで船を並べるとされ、それを新羅人が目にすることを前提としていますから、「筑紫の海の裏」から「難波津」までが「新羅」からの使者の航行ルートであったことが推定できます。

(六五一年)白雉二年…
是歳。新羅貢調使知万沙餐等。著唐國服泊于筑紫。朝庭惡恣移俗。訶嘖追還。于時巨勢大臣奏請之曰。方今不伐新羅。於後必當有悔。其伐之状不須擧力。自『難波津』至于筑紫海裏。相接浮盈艫舳。召新羅問其罪者。可易得焉。

 また「遣唐使」の出発基地としての機能も「難波津」にあったと見られます。

(六五九年)五年
秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自『難波三津之浦』。

 このように「難波」「難波津」は外交の拠点ともいうべき場所であったものと思われ、外交が「諸国」つまり「附庸国」ではなく「本国」つまり「宗主国」の専権事項であったことを含んで考えると、上の記事の時代に「難波」に拠点を持っていた「王権」は「倭国王」そのものであったと考えられ、「難波」が「倭王権」の本拠地(直轄地)であったことが知られます。 
 また「西国」に対してもいわば「窓口」としての機能が「難波」にあったものと思われ、「近畿」から見て「西国」が唐や半島の諸国に準ずる立場にいたことが知られます。
 関連するものとして「筑紫傀儡(くぐつ)」が現代に伝えた「筑紫舞」というものがあります。この舞の主要なレパートリーに「各地の翁」が「都」に集まり舞う、という趣向の「翁舞」があります。舞う翁の数で何種類かありますが、頻度が多いのは「五人」から「七人」であり、「七人立」の場合「七人の翁」とは「肥後の翁」「加賀の翁」「都の翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「出雲の翁」「夷の翁」とされています。
 この舞はかなり淵源として古いことが推定でき「倭王権」により征服、統合された地域を表すと思われますが、その中に「難波津より上りし」という表現がされている地域があります。
 上に見たように「難波津」は(後には)「外国」等「西方に存在する」重要な地域との交渉時出発あるいは到着するという目的で使用される港であったと思われ、この「舞」が成立した時点ではその「西方」の重要地域とは「倭国王権」そのものであり、またこの「難波津」を利用していた勢力は「近畿」の勢力であり(該当するのは「河内」か「明日香」だと思われます。)、彼らが「倭王権」に「上る」時の港であったと思われるものです。(この時点ですでに「梅」が「難波津」に植えられていたものか)
 また難波には古代官道が存在していたと思われますが、それを示唆する記事が以下のものです。

「(推古)廿一年(六一三年)冬十一月。作掖上池。畝傍池。和珥池。又自難波至京置大道。」

 この「自難波至京「に置かれたという「大道」を「通例」では「難波津から竹内街道を経て横大路につながる東西幹線道路のこと」と理解されているようです。その場合「京」とは「明日香」の地を指して言うとする訳ですが、この「推古」の時代には「飛鳥」はまだ「京」(都)ではありません。「推古」の都は「小墾田宮」ですが、それは「飛鳥」の地名をかぶせられずに呼称されています。つまり「飛鳥」はこの時点では「京」でないわけですが、また「小墾田宮」のある地は「京」とされていたという訳でもないと思われます。そこには「条坊制」が施行されていませんし、何より「天子」がいません。そもそも「推古」は「天子」を自称したという記録はありませんし、それに見合う強い権力を行使した形跡もありません。
 「京」(京師)は「天子」の存在と不可分ですから、「天子」がいない状態では「京」は存在していないとするよりありません。このことからこの「京」については「小墾田宮」を指すとは考えられず、「本来」は(位置関係から見て)「難波京」を指すものと考えるべきでしょう。つまり「文章中」の「難波」とは「難波津」を意味するものであり「京」とは(いわゆる)「前期難波京」を指すと考えられます。
 これらはいずれも「難波」と「難波津」が当時「王権」にとって最重要地域であったことを示すと同時に、新日本王権に取って代わった後でも同様に重要な地域として残ったものであり、「倭王権」時代の慣例がそのまま残り「王権」として重要な地域である「筑紫」からの受け入れ先として「難波津」が設定されていたのではないかと推察されます。
 その後十世紀に書かれたと考えられている「竹取の翁の物語」の中で、「かぐや姫」に求婚した際に条件として「優曇華の花」を取りに行ってくるように言われた「車持皇子」は「筑紫」に行くと称して「難波」から出港していますが、これも「筑紫」と行き来するための港が「難波」と決まっていたことを推察させるものであり、それは古代から伝統となっていたものではなかったでしょうか。
 ところで、「なにはづにさくやこのはなふゆごもり、いまははるべとさくやこのはな」という和歌が書かれた大型木簡が各地に出現しています。それらは「徳島県」(観音寺遺跡)など地方にも及んでいます。
 この木簡は長さが「二尺」(60cm)以上あったと考えられ、全長を復元すると「74cm」あったのではないかとされるものもあるようです。
 これは「縦一行」に歌の全文が書かれているものであり、このような大きな木簡は日常的使用の観念を超えており、明らかに「儀式」など公的な場で、この木簡を「捧げながら」「朗詠」する際に使用されるものであったと思われます。(合唱したのではないかという考えもあるようです)
 これに関して「古今集」の「仮名序」には以下のようにあります。

 「なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり(おほささぎのみかど、なにはづにて、みこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌也。この花はむめの花をいふなるべし。)」という風に書かれています。

 この「仮名序」そのものは「紀貫之」の書いたものであると思われますが、「かっこ」の中の文章は「古注」と呼ばれ、誰が書いたものか不明なのですが、非常に古いものであり、「古今集」成立から余り時間が経過してない時期のものと推察されています。そして、この「注」によると、この「なにはづ」の歌は「おほささぎ」つまり「仁徳天皇」に関わるものであるとされているようです。
 ところでこの歌の中ではなぜ「なにはづ」であって「なには」ではないのでしょうか。「注」では「なにはづにてみこときこえけるとき」とされていますが、『書紀』では「仁徳」が「なにはづ」にいたという記述はありません。

元年春正月丁丑朔己卯。大鷦鷯尊即天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波。是謂高津宮。

 この「高津宮」は上町台地上に措定されており、「難波津」という形容とは整合しないと思われます。また「みこ」つまり「皇子」の時代に「なにはづ」にいたという記録もありません。彼の父である「応神天皇」は「磐余」にいたとされますがこれはかなり内陸の場所であると思われ、「仁徳」も「磐余」にいたものではなかったでしょうか。
 つまり「なにはづ」にいた(あった)のは「梅」であって「太子」ではなかったものであり、「梅」は宮殿内ではなく「津」つまり「港」に植えられていたと思われるわけです。
 そもそも「梅」は「外来種」であり、現在でも特定の場所にしか存在していません。それらはいずれも人為的に植えられたものであり「根分け」されたものです。原産地は揚子江の南側とされており、また列島への招来は「倭の五王」の時代が想定されています。
 つまり派遣された倭国からの使者に対する返礼として「根分け(「梅鉢」のようなものか)」されたものとみられるわけです。そのことから「梅」は「倭王権」と強く結びつついていたものと思われ、当時は「倭王権」から「根分け」されたものが王権の象徴として「要所」に植えられたものと思われ、それが「なにはづ」に植えられていたこととなります。それは倭王権との関係を示す意味があったものであり、いわば「直轄地」ということを意味する「象徴」としてのものであったと思われ、それはまた「津」を利用する関係者の目に入るように植えられていたものであり、そこが「倭王権」と直接つながる地域であることを周知する意味があったものと思われます。このことから「なにはづ」には特別な地域という意味付けがされていたものですが、そもそも「なにはづ」がそのような意味づけをされる原点は「法円坂」に存在していた建物群との関係からでしょう。
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「不改常典」とは ―『懐風藻』の「淡海先帝」との関連

2024年03月08日 | 古代史
さらに前回から続きます。

 前稿では「十七条憲法」というものの性格がまさに「不改常典」たるにふさわしいことを述べたわけですが、問題となるのは「近江(淡海)大津宮御宇天皇」という表記と「聖徳太子」という存在の「食い違い」です。つまり『書紀』の中では「聖徳太子」は「近江(淡海)大津宮御宇天皇」とは呼称されていないわけです。彼はそもそも「即位」していません。その意味でも食い違うわけですが、その『書紀』の記述に疑問を突きつけているのが漢詩集『懐風藻』です。
 『懐風藻』の「序文」には以下のことが書かれています。(読み下しは「江口孝夫全訳注『懐風藻』(講談社学術文庫)」によります。)

「…聖德太子に逮(およ)んで,爵を設け官を分ち,肇(はじ)めて禮義を制す。然れども專(もっぱ)ら釋教を崇(あが)めて,未だ篇章に遑あらず。淡海先帝の命を受くるに至るに及びや,帝業を恢開し,皇猷を弘闡して,道乾坤に格(いた)り,功宇宙に光(て)れり。既にして以為(おもへ)らく,風を調へ俗を化することは,文より尚(たふと)きは莫(な)く,德に潤ひ身を光(て)らすことは,孰れか學より先ならん。爰に則ち庠序を建て,茂才を徴し、五禮を定め,百度を興す,憲章法則、規模弘遠なること、夐古以来いまだこれ有らざるなり。…」(『懐風藻』序)

 ここでは「聖徳太子」について「設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章」とされており、それは「冠位制定」と「匍匐礼」などの朝廷内礼儀を定めたことを指していると思われますが、「十七条憲法」の制定に当たる事績が書かれていません。それに対し「淡海先帝」という人物については「定五禮,興百度,憲章法則」と書かれており、このうち「『憲』章『法』則」とは字義通り「憲法」を指すものであり、これはまさに「十七条憲法」に相当すると思われます。それは「古」以来このようなものがなかったという表現からも明らかであり、「十七条憲法」こそそれ以前にそのようなものはなかったと言いうるものです。
 それについては後の『弘仁格式』(以下のもの)でも「十七条憲法」について「法」の始まりであるとされ、それ以前には「法令未彰」であったとされています。

「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」(『弘仁格式』序)

 つまり以前は「未彰」つまり明確に書かれたものがなかったという意であると思われますが、「十七条憲法」に至って「書かれたもの」となったということであり、国が「法」を定めることがこの時から始まったものとされています。それは『懐風藻』の「憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。」という表現にまさに重なっていると思われます。また「未彰」に対応するものとして「制法」とされており、この時点における「法」つまり「憲法十七箇条」がいわゆる「成文法」であったことを意味するものと思われます。
 さらに『続日本紀』には「藤原仲麻呂」の上表文があり、そこでも以下のような表現がされています。

「天平宝字元年(七五七年)閏八月壬戌十七」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。…」(『続日本紀』より)

 この中でも「淡海大津宮御宇皇帝」の治績として「創立章程」とされ、つまり「章程」(これは「規則」や「法式」を箇条書きにしたもの)を初めて作ったとするわけですから、「憲法」が始めて造られたという時点を想定して当然といえるでしょう。つまり「十七条憲法」はここでも「淡海大津宮御宇皇帝」によって創られたものとされているわけです。
 上で見たように『懐風藻』の序からは「十七条憲法」については「聖徳太子」ではなく「淡海先帝」の治績であったと理解するのが穏当といえます。
 この「淡海先帝」は通常「天智」と理解されており、その意味では「近江(淡海)大津宮御宇天皇」を「天智」とする理解に無理はないとも言えるわけですが、実際にはそれは困難です。例えば『懐風藻』の序の中に彼の治世を賞賛する表現があり、そこを見ると『書紀』の「天智」とは明らかに齟齬しています。
 そこには「淡海先帝」の統治期間の表現として「三階平煥、四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。」つまり「瑞兆」とされる「三台星座」(北斗を意味する)が明るく輝き、国家は繁栄し、政治は無為でも構わない状態であったとされ、またそのため朝廷に暇が多くできたというような表現が続きますが、これが「天智」の治世を意味するとした場合、はなはだ違和感のあるものであることはいうまでもありません。何と云っても「天智朝」には「百済」をめぐる情勢が急展開し、倭国からも大量の軍勢を派遣しあげくに敗北するという国家を揺るがす大事変があったものです。にも関わらずそれに全く触れないで「三階平煥、四海殷昌」というような「美辞麗句」だけ並べているのはいかにも空々しく、はなはだ不自然であると思われます。(追従としても無理があります)
 上の『懐風藻』の序では「淡海先帝」の業績として「孰先於學。爰則建庠序,徴茂才」とあり、この中の文言である「庠序」とは学校を指しますから、「淡海先帝」は「学校」を建て、「才能」のあるものを集めたこととなると思われます。この「学校」創立に関連しているのが『推古紀』の「学生」記事の存在です。

「推古十六年(六〇八年)九月辛末朔辛巳。是時条」「遣於唐國『學生』倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。」(『推古紀』より)

 つまり「裴世清」の帰国に「學生」が同行したというものです。「學生」がいるわけですから、この時点で「学校」の存在を想定すべきこととなるのは当然です。
 また、この記事以降であっても「白雉年間」に派遣された「遣唐使団」の中にも「學生」と称される人物が複数乗船しており、少なくとも『書紀』の「天智期」以前に「學生」が存在している事は確実と思われ、「学校」がこの時点で既成の存在であることが窺えます。
 これらに関して従来は『天智紀』に「鬼室集斯」(鬼室福信の子息か)を「学識頭」に任命した記事や「法官」記事があることを捉えて「大學」と「大學寮」がこの時点で整備されたという説を目にすることがありますが(註1)、この記事は「既にある」組織としての「法官」や「学識頭」を、たまたま「百済」から大量のインテリ層が渡来したため、彼等にそれを割り当てたというに過ぎないと考えられます。以前の「百済」における官位や職掌などを勘案した結果、「日本」でもその知識を重用すると言うこととなったものと見られますが、それはそれだけのことであり、それ以前に「官吏養成機関」としての「大學」設置の記事が『書紀』に見あたらない事に単純に結びつけたものと思料されますが、上に考察したように既にそれ以前から「學生」が存在しているわけですから「大學」(学校)があったことは明白と考えられます。
 つまり「学校」を建てたという記事からは「淡海先帝」の治世期間として『推古紀』に相当する時代が想定できるものであり、その意味で『書紀』の「聖徳太子」の時代とほぼ重なるものとなります。そのことから後代に「聖徳太子」の治績としていわば「すり替え」が起きたものと考えます。

(註)
1.今井陽美「律令国家における「大学」創始の企図」(『首都大学東京人文学報』二〇一二年など)

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「不改常典」とは ―「三輪高市麻呂」の諫言の意味(再度)

2024年03月08日 | 古代史
 以下前回からの続きとなります。

 『書紀』によれば「持統」は三月三日に「伊勢」へ行幸したというわけですが、この時「三輪(大神)高市麻呂」は「冠」を脱ぎ捨ててそれを止めようとしたとされています。なぜ彼は「冠位」を捨ててまで「持統」の伊勢行幸を止めようとしたのでしょうか。それは「高市麻呂」の奏上の中に「農時」には民を使役するべきではないという意味のことが言われていることが(当然ながら)重要です。

「(六九二年)六年二月丁酉朔丁未。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。
乙卯。…是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。
三月丙寅朔戊辰。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。■上於朝。重諌曰。農作之節。車駕未可以動。」

 このように「農時」あるいは「農作之節」の妨げとなってはいけないとするわけですが、それは『後漢書』に良く似た話があり、それを下敷きにしたものとも考えられます。(以下の例)

「…顯宗即位,徵為尚書。時交阯太守張恢,坐臧千金,徵還伏法,以資物簿入大司農,詔班賜羣臣。意得珠璣,悉以委地而不拜賜。帝怪而問其故。對曰:「臣聞孔子忍渴於盜泉之水,曾參回車於勝母之閭,惡其名也。。尸子又載其言也。此臧穢之寶,誠不敢拜。」帝嗟歎曰:「清乎尚書之言!」乃更以庫錢三十萬賜意。轉為尚書僕射。車駕數幸廣成苑,意以為從禽廢政,常當車陳諫般樂遊田之事,天子即時還宮。永平三年夏旱,而大起北宮,『意詣闕免冠上疏曰』:「伏見陛下以天時小旱,憂念元元,降避正殿,躬自克責,而比日密雲,遂無大潤,豈政有未得應天心者邪 昔成湯遭旱,以六事自責曰:『政不節邪 使人疾邪 宮室榮邪 女謁盛邪 苞苴行邪 讒夫昌邪』。竊見北宮大作,人失農時,此所謂宮室榮也。自古非苦宮室小狹,但患人不安寧。宜且罷止,以應天心。臣意以匹夫之才,無有行能,久食重祿,擢備近臣,比受厚賜,喜懼相并,不勝愚?征營,罪當萬死。」帝策詔報曰:「湯引六事,咎在一人。其冠履,勿謝。比上天降旱,密雲數會,朕戚然慙懼,思獲嘉應,故分布?請,?候風雲,北祈明堂,南設?塲。今又勑大匠止作諸宮,減省不急,庶消灾譴。」詔因謝公卿百僚,遂應時澍雨焉。」「後漢書/列傳 凡八十卷/卷四十一 第五鍾離宋寒列傳第三十一/鍾離意」

 ここでは「鍾離意」という「顯宗」の側近が「日照り」が続いて農民が苦労しているのに「宮殿」の造営に彼らを駆り出すなどの行いを「免冠」つまり「冠」を脱いで諫めています。一見これを下敷きにしただけのものともいえそうですが、「高市麻呂」の場合は当時それほど「天候不順」があったようにも受け取られず(前年には長雨があったとされてはいるものの)、「宮室」造営に比べれば「行幸」はそれほど農民の負担でもないともいえ、「免冠」して諫言」するほどのことでもなさそうです。そう考えると、この「免冠」しての「諫言」には別の理由があると見なければなりませんが、考えられるのは「聖徳太子」が定めたという「十七条憲法」(第十六条)に反していると言うことです。当時それは重要な意味を持っていたものと思われるわけです。

「十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。」(『推古紀』十七条憲法)

 つまり「春」から「秋」までは「農桑之節」であるから「民」を使役すべきではないというわけです。この「十七条憲法」はすでに見たように当時の国家統治を担うものにとって従うべきものであったと思われ、以降「不改常典」と呼称されて「天皇」「即位」の際に必ずそれを「継承」することを誓約するということが儀式として行われていたと推定しました。
 「持統」も「元明」即位の詔によれば同様に誓約したことが窺え、この「伊勢行幸」はそれを自ら破る行為であると「高市麻呂」は考えたものでしょう。

「元明の即位の際の詔」
「(慶雲)四年…秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月尓。此食國天下之業乎日並知皇太子之嫡子。今御宇豆留天皇尓授賜而並坐而。此天下乎治賜比諧賜岐。是者關母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法乎。受被賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。…」

 この「詔」はかなり難解ですが、大意としては「元明」が「即位」するにあたって「文武」から継承することとなった「食国天下之業」というものは「藤原宮御宇倭根子天皇」つまり「持統」が「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」を受けて行っていたものであり、またそれを「皇太子」(文武)へと授けたものであるというわけです。そして今それを「自分」(元明)が今「継承」するというわけです。
 つまり、「持統」は「即位」にあたって「不改常典」に反しないという誓約を行っていたことが推定され、ここで「伊勢行幸」を行うことはその「誓い」を自ら破ると言うこととなってしまいますが、これは古代では重大なことであったはずです。
 最高権威者が「天」と「祖先」に対して誓った言葉を自ら破るというのは、由々しき事態であり、これを必ず是正しなければ「天変地異」が起きても不思議はないと捉えられていたと思われます。そうであればそれを直言できるのは「神官」であり「祖霊」つまり「阿毎多利思北孤」を祀る役割であった自分しかいないと「高市麻呂」は思い定めたゆえに「冠」を脱ぎ捨ててまで阻止しようとしたのではないでしょうか。
 ただし、この「三月三日」の行幸については「中国」と同様の「節句」の行事であったと思われます。『隋書俀国伝』によれば「節」の行事は中国と同様であるとされているのです。

「…其餘節略與華同。」

 つまり「三月三日」の節句についても「隋」との交流以前から行っていたものであり、倭国としては当時ごく普通の年中行事であったものと思われます。 
 しかし「十七条憲法」が施行されて以降「農桑之節」は避けなければならなくなったものであり、そのこと自体がまだ浸透しきっていなかったということもあるでしょう。このことは「十七条憲法」の施行と「持統」の時代が年次の経過としてそれほど隔たったものではないことを推定させます。「三月三日」という日付が『書紀』に出てくるのがこれが最初であることもそれを裏付けます。
 この時「持統」は旧来の習慣に囚われて「憲法」の要請に違背することを余り強く意識していたなかったと見られるわけです。
 ところで、『続日本紀』の「和銅元年二月十五日条」には「元明天皇」が以下の詔を出したとされています。

「戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。處紫宮之尊。常以爲。作之者勞。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所歸。唯朕一人。豈獨逸豫。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之號。周后三定。致太平之稱。安以遷其久安宅。方今平城之地。四禽叶圖。三山作鎭。龜筮並從。宜建都邑。宜其營構資 須隨事條奏。亦待秋収後。令造路橋。子來之義勿致勞擾。制度之宜。令後不加。」

 これは「新都造営」の「詔」ですが、この「詔」は原典があります。それは「隋」の「高祖」(楊堅)の詔です。
 彼は新都の造営を決意し、「開皇二年(五八二年)六月」以下のような「詔」を出しました。

「朕砥奉上玄、君臨万国、厨生人之倣、処前代之宮、常以為 作之者労、居之者逸、改創之事、心未邉也、而王公大臣陳謀献策、威云、義・農以降、至干姫・劉、有当代而屡遷、無革命而不徒、曹・馬之後、時見因循、乃末代之宴安、非往聖之宏義、此城従漢、彫残日久、屡為戦場、旧経喪乱、今之宮室、事近権宜、又非謀笠従亀、謄星揆日、不足建皇王之邑、合大衆所聚、論変通之数、具幽顕之情、同心因請、詞情深切、然則京師 百官之府、四海帰向、非朕一人之所独有、荷利於物、其可違乎、且股之五遷、恐人尽死、是則以吉凶之土、制長短之命、謀新去故、如農望秋、錐暫鋤労、其究安宅、今区宇寧一、陰陽順序、安安以遷、勿懐脊怨、竜首山川原秀麗、卉物滋阜、卜食相土、宜建都邑、定鼎之基永固、無窮之業在斯、公私府宅、規模遠近、営構資費、随事条奏」

 みると判るように、この「隋高祖」の詔を下敷きにして「元明」の詔が出されたと見られるわけですが、それに加え次の一行が付加されていることに注意すべきです。それは「秋収を待って」というものです。

「…亦待秋収後。令造路橋。…」
 
 この語は「隋高祖」の詔にはなく「元明」時点で新たに付加されたものですが、その内容は明らかに前述した「十七条憲法」の「第十六条」にある「從春至秋。農桑之節。不可使民。」という項に違背しないようにという配慮を示したものといえます。
 このことはやはり「即位」において誓った「不改常典」というものが重くのしかかっているものであり、これを「遵守」する事が「帝王」として必須であったことを強く窺わせるものです。
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