さらに前回から続きます。
前稿では「十七条憲法」というものの性格がまさに「不改常典」たるにふさわしいことを述べたわけですが、問題となるのは「近江(淡海)大津宮御宇天皇」という表記と「聖徳太子」という存在の「食い違い」です。つまり『書紀』の中では「聖徳太子」は「近江(淡海)大津宮御宇天皇」とは呼称されていないわけです。彼はそもそも「即位」していません。その意味でも食い違うわけですが、その『書紀』の記述に疑問を突きつけているのが漢詩集『懐風藻』です。
『懐風藻』の「序文」には以下のことが書かれています。(読み下しは「江口孝夫全訳注『懐風藻』(講談社学術文庫)」によります。)
「…聖德太子に逮(およ)んで,爵を設け官を分ち,肇(はじ)めて禮義を制す。然れども專(もっぱ)ら釋教を崇(あが)めて,未だ篇章に遑あらず。淡海先帝の命を受くるに至るに及びや,帝業を恢開し,皇猷を弘闡して,道乾坤に格(いた)り,功宇宙に光(て)れり。既にして以為(おもへ)らく,風を調へ俗を化することは,文より尚(たふと)きは莫(な)く,德に潤ひ身を光(て)らすことは,孰れか學より先ならん。爰に則ち庠序を建て,茂才を徴し、五禮を定め,百度を興す,憲章法則、規模弘遠なること、夐古以来いまだこれ有らざるなり。…」(『懐風藻』序)
ここでは「聖徳太子」について「設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章」とされており、それは「冠位制定」と「匍匐礼」などの朝廷内礼儀を定めたことを指していると思われますが、「十七条憲法」の制定に当たる事績が書かれていません。それに対し「淡海先帝」という人物については「定五禮,興百度,憲章法則」と書かれており、このうち「『憲』章『法』則」とは字義通り「憲法」を指すものであり、これはまさに「十七条憲法」に相当すると思われます。それは「古」以来このようなものがなかったという表現からも明らかであり、「十七条憲法」こそそれ以前にそのようなものはなかったと言いうるものです。
それについては後の『弘仁格式』(以下のもの)でも「十七条憲法」について「法」の始まりであるとされ、それ以前には「法令未彰」であったとされています。
「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」(『弘仁格式』序)
つまり以前は「未彰」つまり明確に書かれたものがなかったという意であると思われますが、「十七条憲法」に至って「書かれたもの」となったということであり、国が「法」を定めることがこの時から始まったものとされています。それは『懐風藻』の「憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。」という表現にまさに重なっていると思われます。また「未彰」に対応するものとして「制法」とされており、この時点における「法」つまり「憲法十七箇条」がいわゆる「成文法」であったことを意味するものと思われます。
さらに『続日本紀』には「藤原仲麻呂」の上表文があり、そこでも以下のような表現がされています。
「天平宝字元年(七五七年)閏八月壬戌十七」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。…」(『続日本紀』より)
この中でも「淡海大津宮御宇皇帝」の治績として「創立章程」とされ、つまり「章程」(これは「規則」や「法式」を箇条書きにしたもの)を初めて作ったとするわけですから、「憲法」が始めて造られたという時点を想定して当然といえるでしょう。つまり「十七条憲法」はここでも「淡海大津宮御宇皇帝」によって創られたものとされているわけです。
上で見たように『懐風藻』の序からは「十七条憲法」については「聖徳太子」ではなく「淡海先帝」の治績であったと理解するのが穏当といえます。
この「淡海先帝」は通常「天智」と理解されており、その意味では「近江(淡海)大津宮御宇天皇」を「天智」とする理解に無理はないとも言えるわけですが、実際にはそれは困難です。例えば『懐風藻』の序の中に彼の治世を賞賛する表現があり、そこを見ると『書紀』の「天智」とは明らかに齟齬しています。
そこには「淡海先帝」の統治期間の表現として「三階平煥、四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。」つまり「瑞兆」とされる「三台星座」(北斗を意味する)が明るく輝き、国家は繁栄し、政治は無為でも構わない状態であったとされ、またそのため朝廷に暇が多くできたというような表現が続きますが、これが「天智」の治世を意味するとした場合、はなはだ違和感のあるものであることはいうまでもありません。何と云っても「天智朝」には「百済」をめぐる情勢が急展開し、倭国からも大量の軍勢を派遣しあげくに敗北するという国家を揺るがす大事変があったものです。にも関わらずそれに全く触れないで「三階平煥、四海殷昌」というような「美辞麗句」だけ並べているのはいかにも空々しく、はなはだ不自然であると思われます。(追従としても無理があります)
上の『懐風藻』の序では「淡海先帝」の業績として「孰先於學。爰則建庠序,徴茂才」とあり、この中の文言である「庠序」とは学校を指しますから、「淡海先帝」は「学校」を建て、「才能」のあるものを集めたこととなると思われます。この「学校」創立に関連しているのが『推古紀』の「学生」記事の存在です。
「推古十六年(六〇八年)九月辛末朔辛巳。是時条」「遣於唐國『學生』倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。」(『推古紀』より)
つまり「裴世清」の帰国に「學生」が同行したというものです。「學生」がいるわけですから、この時点で「学校」の存在を想定すべきこととなるのは当然です。
また、この記事以降であっても「白雉年間」に派遣された「遣唐使団」の中にも「學生」と称される人物が複数乗船しており、少なくとも『書紀』の「天智期」以前に「學生」が存在している事は確実と思われ、「学校」がこの時点で既成の存在であることが窺えます。
これらに関して従来は『天智紀』に「鬼室集斯」(鬼室福信の子息か)を「学識頭」に任命した記事や「法官」記事があることを捉えて「大學」と「大學寮」がこの時点で整備されたという説を目にすることがありますが(註1)、この記事は「既にある」組織としての「法官」や「学識頭」を、たまたま「百済」から大量のインテリ層が渡来したため、彼等にそれを割り当てたというに過ぎないと考えられます。以前の「百済」における官位や職掌などを勘案した結果、「日本」でもその知識を重用すると言うこととなったものと見られますが、それはそれだけのことであり、それ以前に「官吏養成機関」としての「大學」設置の記事が『書紀』に見あたらない事に単純に結びつけたものと思料されますが、上に考察したように既にそれ以前から「學生」が存在しているわけですから「大學」(学校)があったことは明白と考えられます。
つまり「学校」を建てたという記事からは「淡海先帝」の治世期間として『推古紀』に相当する時代が想定できるものであり、その意味で『書紀』の「聖徳太子」の時代とほぼ重なるものとなります。そのことから後代に「聖徳太子」の治績としていわば「すり替え」が起きたものと考えます。
(註)
1.今井陽美「律令国家における「大学」創始の企図」(『首都大学東京人文学報』二〇一二年など)