新田義貞――。1333年(元弘3)年、鎌倉幕府を攻め、切腹やぐらで知られる鎌倉・東勝寺で将軍北条高時とその一族280人余を自害に追い込み、幕府を滅ぼした。天皇親政の「建武の中興」に道を開いた武将なのに、知名度が低い。
「太平記」には、狭くて細い「切り通し」に阻まれて鎌倉を攻めあぐねた義貞が、稲村ケ崎で黄金の太刀を海に投じたところ、龍神がこれに応じて、潮が引き、砂浜を踏んで攻め込んだという逸話が残る。
義貞の勢(せい)はアサリを踏み潰し
という有名な川柳さえあるのに、同時代に生きたライバルの足利尊氏や、戦前の教科書では尊王、忠臣で知られた楠正成にすっかりお株を奪われている感じだ。
この義貞、所沢市とはゆかりが深い。
上野国新田庄(こうずけのくに・にったのしょう=群馬県太田市)の無位無官の御家人だった義貞が5月8日に挙兵すると、文永、弘安の二度の元寇の役の論功行賞に不満を抱いていた武士たちが大挙して参集、利根川を越え、武蔵国に入った。
鎌倉街道を南下するうち、鎌倉を脱出してきた下野の御家人足利尊氏の嫡男千寿王と合流、武蔵国の御家人河越氏らの援護も得て、挙兵時には150騎だったのが、その勢20万7千騎(太平記 この数字は疑問視する向きもある)に膨れ上がっていたという。
5月11日、迎え撃つ鎌倉勢と最初に戦ったのが、所沢市の小手指ヶ原。古戦場跡には、所沢市北野の北野中学校近くの畑の中に石碑が立っている。 (写真)案内板の前に義貞が源氏の白幡を立てた「白幡塚」、近くに部下に忠誠を誓わせた小さな「誓詞橋」がある。その橋の名は国道の「誓詞橋交差点」に残っている。
その日は勝敗が決せず、一進一退、久米川(東京都東村山市)、分倍河原(同府中市)、関戸(多摩市)の合戦と続き、分倍河原で鎌倉勢は敗退する。
久米川の戦いでは、新田勢は、所沢市と東村山市にまたがる八国山に陣を張ったので、陣地跡に将軍塚(所沢市松が丘)、勢揃橋(同市久米)がある。鳩峰八幡神社(同)には「義貞の兜掛けの松」もある。
分倍河原の戦いを記念して、JR南武線と京王線の乗換の分倍河原の駅前に義貞の騎馬像があるのはご存じの方もあろう。もちろん、東武鉄道太田駅の北口駅前にもある。なにしろ挙兵からわずか二週間の早業で22日には、鎌倉幕府を滅ぼした英雄なのだから。
義貞の名前があまり知られないのは、室町幕府を築いた北朝方についた足利尊氏に対し、後醍醐天皇の建武の中興を支持する南朝方についたので、鎌倉幕府滅亡5年後に敗れて、今の福井市で戦死したからだ。30代後半だった。
歴史の表舞台に躍り出たのはわずか5年。悲運の武将だ。どこか、源義経を偲ばせる。
「どっこい、義貞は所沢では生きている」と感じたのは、山口観音を訪れた時だった。
義貞は鎌倉攻めの際、ここで戦勝祈願をしたので、その祈願文と伝えられるものが残っているほか、「義貞誓いの桜」の木と石碑や、義貞が奉納した「義貞公霊馬」もある。
「霊馬の像」には、「義貞公の白馬で、鎌倉攻めの時、供をして、山口観音で余生を送ったものです」という説明に続いて、「勝負する人に験あり」と特記してあった。
義貞は鎌倉幕府を実際に倒した武将として、小手指ケ原は、倒幕の戦いの始まりとなった古戦場として、もっと評価されるべきだ。観光資源としても十分、売り出すに値する。
群馬県の上州かるたには「歴史に名高い新田義貞」とうたわれている。