日本一の板碑(いたび) 長瀞町
「板碑(いたび)」と言っても、見たことも聞いいたこともない人が多いに違いない。何年前のことだったか、「埼玉県立歴史と民俗の博物館」(さいたま市・大宮公園)を訪ねた際に初めて目にした。読み方はもちろん、何なのかも分からないままに、それが林立する姿に異様な感銘を受けたことだけを記憶している。
「県立嵐山史跡の博物館」(嵐山)で板碑の企画展があり、見に行ったこともあって、ようやく輪郭がつかめてきた。
「板石塔婆(いたいしとうば)」とも呼ばれる。中世、武蔵武士の活躍していた時代のもので、「石塔」の名は墓標を連想させる。
墓石ではなく、故人の供養などのために造立された。鎌倉時代前期に埼玉県西部で生まれ、南北朝時代(14世紀)にピークを迎え、戦国末期まで。「中世に始まり中世に終わる」と言われる石像遺物である。
全国各地で造られたが、埼玉県は質量ともに日本一、“板碑のふるさと”とされる。埼玉の文化遺産の“華”、埼玉中世史の“核”と言えると書いている人もいる。
県の教育委員会は1975(昭和50)年から5年がかりで県内の全調査を実施、2万基を超す板碑を確認、報告書にまとめられた。日本最古や日本最大、最小のものも含まれている。
埼玉県にこんなに多いのは、原材になる緑泥片岩(りょくでい・へんがん・秩父青石)の原産地が小川町や長瀞町にあったためである。緑泥片岩は、ノミを使うと板状に割れ、扁平で文字などを刻みやすかったという。
板碑には中心部に、古代インド文字である梵字を使った本尊、供養年月日、供養内容、被供養者名のほか、偈(げ 仏教の教えを述べる4句からなる詩)が刻まれていることが多い。本尊のほとんどは阿弥陀如来で、武士の間で阿弥陀信仰が強かったことがうかがわれる。
板碑の一般的な大きさは、高さ60~70cmから1mほど。緑泥片岩の主産地でもある秩父の長瀞町野上下郷(のがみしもごう)に高さ日本一の板碑があるというので、10年の秋の彼岸に出かけてみた。
秩父鉄道の樋口駅から東へ国道140号線沿いに約600mのところにある。車がひんぱんに通るので、山側の峠道を選んだほうが安全だ。台上からの高さが5m37cmもある。なかなかの貫禄である。南北朝時代の1369年(応安2年)の作で、国の指定史跡になっている。
この大きな板碑には、この近くの仲山城主の13回忌に、出家した奥方と息子たちが追善供養のために立てたという記録がある。この城主は隣接する城の城主の腰元に恋慕したため、そこの城主に攻められ、討ち死にしたという。横恋慕が元でできた日本一の板碑である。
「秩父の歴史」(井上勝之助監修 郷土出版社)によると、恋慕したのは仲山城の2代目城主の阿仁和兵衛直家。梅見の宴で、山を隔てた秋山城の稀に見る美女の腰元白糸を見初め、秋山城主の体面を傷つけた。
このため戦となり、仲山城は落城、直家は矢を受けて戦死、45歳だった。これより先、奥方は夢枕に立った弥陀のお告げで、愛児とともに直家の姉の嫁ぎ先能登に逃れていて、落命を聞いて尼になった。そして13回忌に二人の子らと立てたのが、この板碑である。
浮気で死んだ亭主のために、日本一の石塔を建ててやった奥方の器量の大きさを思う。