昔、学校で習った頃は、「わどうかいほう」と読んでいたように思う。昔から論争が続いていたが、最近では「わどうかいちん」が一般的になっているようだ。おまけに、「冨本銭」とやらが大量に出土して、日本最古の通貨の地位も危うくなってきているとか。
1914年(大正3年)、秩父へ鉄道が開通、「上武鉄道唱歌」がつくられた頃には、「ここにとどまる暇あらば 和銅採掘その跡を 降りて見てこい黒谷(くろや)より」と歌われたという。
もうすっかり古く、怪しくなった知識をブラッシュアップするために、一度現地を見ようと、異常気象の猛暑が続いた10年の夏の日に秩父市の現地に出かけてみた。
まず、気になったのは「上武鉄道」、次に「和同開珎と和銅の字の違い」だった。
こういう時インターネットは便利だ。「上武鉄道」とは「秩父鉄道」の前身で、「黒谷」は「和銅黒谷」という駅名に変わったことが分かった。「和同」と「和銅」の違いは後回しにして、熊谷から秩父鉄道に乗った。
SL(蒸気機関車)も走っているのに「急行」もあって、「和銅黒谷」は急行も停まる。1400円でどこでも下車できるフリー切符があった。
「和銅黒谷」は「和同開珎」のまちである。駅のホームには「和同開珎」の大型模型があり、ホームから見える前の山(和銅山)の岩肌には、「和銅」の字が見える。駅の前には、「和銅バーベキュー」「和銅ぶどう園」、少し離れて「ゆの宿 和どう」の看板も目に入る。
秩父鉄道とほぼ平行に走る国道140号線をちょっと西に歩くと、「和銅露天掘り跡 610m」の表示がある。緩い山路に分け入るとほどなく、露天掘りの跡とされる100mを超す二条の断層面が川のように残っている。
ここにも「和同開珎」の大型模型がある。 (写真)大型というのは、「和同開珎」は一文銅貨だから、本物は円の直径が24mmしかないからだ。真ん中に約7mmの正方形の穴が開き、時計回りに「和 同 開 珎」と表記されている。
銅山には一つのイメージがある。銅は「あかがね」とも呼ぶから、「赤色」に近い色を連想する。取材に行ったことがある栃木の足尾銅山や、小さい頃、新居浜市に住んでいたので別子銅山の印象が残っているからだろう。
地名からも分かるとおり、この山も跡地も木が黒々と茂って、あまり赤さを感じさせない。長い時間が経って、色を洗い流したのだろうか。
説明板などを読んでいるうちに、「和銅」とは自然銅(にぎあかがね)のこと。自然銅とは精錬の必要がない純粋な銅のことだ。1302年前、平城京遷都(710年)直前の708年(慶雲5年)、武蔵国秩父郡から和銅が献上され、喜んだ朝廷が、「慶雲5年」を「和銅1年」と改元したことも分かってきた。
「にぎあかがね」とは、「熟していて柔らかく、割合簡単に鋳造できる純度の高い銅」といった意味。「和同」は、年号とは別に、中国の「天地和同」とか「万物和同」などのめでたい言葉にちなんで、「和同開珎」の名がついたとのことである。
日本の年号が変わるほどの慶事が武蔵国で起きたのは、もちろん歴史を通じてこの一度だけである。
跡地からの帰途、和銅元年に創建されたという由緒ある村社「聖(ひじり)神社」に立ち寄った。村社の名が懐かしい。当時の元明天皇から賜った和銅製の百足(むかで)の雌雄1対と和銅原石2個が御神体として残されている。
昔から「銭神様」「お金儲けの縁起の神様」として知られる。金には縁のない身だが、猛暑の中わざわざ訪ねたのだから、何かご利益でもあるだろうか。