見沼 その移り変わり さいたま市
さいたま市の中央部にある「見沼」は、東京都心から北へ20-30kmのところにあり、自然や農地が色濃く残る1260haの「首都圏最後の広大な緑地空間」。東西10km、南北14km。日光の中禅寺湖よりちょっと大きい広さである。東京ドームの270倍もあるそうだ。
私の好きな散歩場所だ。と言っても、歩いては大変。ママチャリでも周回するだけで半日、冬などは日が暮れてしまう。
見沼に最も近いところにあるさいたま市立浦和博物館が「見沼のうつりかわり」と題する特別展を開いていたので、建物見物を兼ねて初めて出かけた。
その建物は、「鳳翔閣」と呼ばれる洋風建築で、1878(明治11)年に建てられた県師範学校の校舎の玄関部だった。老朽化で解体されたのを復元したもので、2階バルコニーの柱頭にはアカンサスの葉の彫刻もある。
キツネノマゴ科のアカンサスは、よく目にするが、そんな使い方もあったのかと見直した。東京の日銀本店、赤坂離宮(迎賓館)、三井本館ビル、明治生命館などでも見られるという。念入りに庭にアカンサスが植えてある。
小さな博物館で、展示は二階の回廊部分だけなので、多くは望めないものの、その歴史が簡潔に分かった。
〈縄文時代から中世〉
・約6千年前の縄文時代 地球温暖化の時代で、海が浦和や大宮の方まで入り込み(縄文海進)、見沼は海の底。周辺には貝塚が見つかっている。その後、海が退き(海退)、東京湾と分離し、弥生時代には見沼は大きな沼に変わった
〈江戸時代になって〉
・1629(寛永6)年 徳川家光の命で関東郡代だった伊那半十郎忠治が八丁堤(約870m)を築き、見沼を灌漑用水池とし、平均水位約1mの「見沼溜井」ができ、下流域を潤す。反面、溜井周辺の水田が水没した。大雨の時には周辺部の水田に被害が及んだ。溜井の上流部は排水不良に苦しみ、周辺や上流の村々から何度も溜井廃止の請願が出されていた。
・1728(享保13)年 享保の改革の一環として新田開発を進めた「米将軍」八代徳川吉宗の命を受け、紀州藩の井沢弥惣兵衛為永(写真)が八丁堤を切り、溜井を干拓して見沼田んぼが誕生した。周囲約40km、約1200ha。「見沼代用水」(約60km)を開削、必要な水は利根川(行田市)から取水した。取水地には今、利根大堰が建設されている。着工からわずか6か月で完成した。この用水は、見沼溜井の北端(現上尾市)で東縁(16km)と西縁(22km)と東西二本の用水に分け、田を順々に潤し、最後は最も低い中央の芝川に流し込む。現在も使われている日本でも指折りの農業用水で、関東平野では最大。現在の総延長は84km。
・1731(享保16)年 為永は江戸と水路で結ぶため、東西の見沼代用水とその中央を流れる芝川を結ぶ全長約1kmの運河「見沼通船堀」(国指定史跡)を八丁堤の近くに作った。見沼通船堀は代用水と芝川の水位差が約3mあったので、4か所の関門で水位を調整しながら船を通す、パナマ運河と同じ「閘門式」。パナマより59年早かった。平成17年(2005年)、皇太子殿下はこの堀を視察、メキシコの第4回世界水フォーラムで「江戸と水運」のタイトルで基調講演された
〈第二次大戦後〉
・1958(昭和33)年 狩野川台風で見沼たんぼ全面冠水。その貯水機能は約1千万立方mで、下流の川口市などの洪水被害を和らげ、その治水効果が注目される
・1965(昭和40)年 治水の観点から「見沼3原則」。原則として農地の転用、つまり田んぼの宅地化は認めない。緑地維持のためのいわゆる「見沼についての憲法」とされる
・1969(昭和44)年 国の減反政策始まる。稲作から野菜、生花、植木への転換活発化
・1995(平成7)年 「見沼田圃の保全、活用、創造の基本政策」。開発はせず、治水機能を保持しながら、農地、公園、緑地等の土地利用を図る。土地の公有化、借り上げの促進
このような長い歴史を持つ見沼は、「見沼三原則」以降も、市営霊園計画、代用水の三面護岸化、ゴミ処分場設置など、何度も開発の波にさらされてきた。
その中で見沼田んぼの大半が、市街化調整区域で開発が規制されている。この貴重な大規模緑地空間を守ってきたのは、粘り強く、息の長い多くの市民運動だった。
見沼代用水の支線を含めた総延長は約190km。見沼の真価を理解するためには、一度でも歩いたり、自転車に乗って回ってみることだ。「東京にこんなに近いところにこれほど広い緑地が広がっているとは」と驚くのは必至である。絶滅(準絶滅)危惧種55を含め、700種の野草があると、自分の足で歩いて確かめた研究者もいる。