ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

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高麗神社 高麗王若光

2010年10月30日 18時35分52秒 | 寺社
高麗神社 高麗王若光 日高市

「高麗神社」の額は、よくよく見ると、「句」の字が「高」と「麗」の間に小さな字で挟まっていて、「高(句)麗神社」のことだと分かる。

この神社と近くの高台にある「聖天宮(しょうでんぐう)」は、高麗郡(こまごうり)の基礎を築いた高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)を祀っている。「こま」とは「高麗」の日本読み。「こきし」とは「王」のことだ。

高麗神社前の「天下大将軍」「地下女将軍」の男女一対の守護神も堂々と石像になって立っていた。天下とは「地上」という意味だとか。地上と地下の両方の面倒を見てくれるというのだ。

朝鮮半島では「将軍標(チャンスン)」と呼ばれる魔除けである。

同じ村を守るといっても、道しるべの性格が強くものやさしい感じのわが道祖神よりも、二将軍の歯むき出しの大きなその姿は、頼りになりそうな気がする。

この神社は、朝鮮半島の雰囲気が漂っていて、私の好きなところだ。韓国の国花「木槿(むくげ)」も咲いている。

近くの高台にあるのが、聖天宮。若光の菩提寺である。正式には、「聖天院勝楽寺」。若光に仕えた僧、勝楽らが建立した(751年)。若光の守護仏である聖天(歓喜天=かんぎてん)からその名がついた。

聖天院は2000年に、総檜造りの新本堂が完成、その裏には立派な「在日韓民族無縁仏慰霊塔」が立っている。

山門脇には、朝鮮様式の小さな古い多重塔がある。若光の墓である。境内には若光の像が立っている。(写真)

若光とは何者か――今流に言えば、668年に唐と新羅に滅ぼされた「高句麗」の政治亡命者である。日本の奈良時代のちょっと前の話だ。

若光は難民を率いてきたのではない。高句麗が滅ぶ2年前、訪日使節団の中にいた、まだ若かった「玄武若光」だと考えられている。その上に「二位」がついているから偉かったのだろう、国が滅ぼされたので日本にとどまるほかなかった。

それ以前から日本と高句麗の関係は深かった。推古天皇の時代になると、595年には聖徳太子の仏教の師とされる高句麗僧の慧慈(えじ)が来日、605年には高句麗王から黄金300両が贈られ、飛鳥寺の日本最古の仏像飛鳥大仏を造るのに使われた。610年には同じ高句麗僧の曇徴(どんちょう)が紙や墨の製造技術を伝えたという。

若光は703年、朝廷から「王(こきし)」の名を贈られた。「高麗王若光」である。日本では「従五位下(じゅうごいげ)」という貴族の位階を与えられていた。日本の官人として出仕していたのだろう。

「高麗」は氏、「王(こきし)」は姓(かばね)だという。「こきし」とは、飛鳥時代に作られた姓(かばね)の一つで、百済王族ら少数の帰化人に与えられた。

716年、1799人を率いて高麗郡に移住した時は、来日から50年、若光はすでに白髪の翁であった。「白髭明神」と伝えられるのは、その風貌のせいであろう。没したのは748(天平20)年というから、事実なら32年高麗郡にいたことになる。韓国の田舎を尋ねると、白髭の老人に出会うのは、ご存知のことだろう。

来日以来数十年留まっていたのは飛鳥時代の都「飛鳥」(現明日香村)である。朝鮮半島では百済が滅び(660年)、高句麗が滅び、多くの帰化人が飛鳥に滞在していた。高句麗からの帰化人は高麗人(こまびと)と呼ばれた。

若光一行はどのようなルートで高麗郡にたどり着いたのか――。高麗神社を訪ねた際、神社で「ALOSデータによる渡来人の足跡調査の研究」が展示されていた。

ALOSとは、日本の陸域観測技術衛星「だいち」で、三次元画像で見られるので、地形の細部や建造物の高さも観測できる。そのデータを古文書などと照合して、若光の足跡をたどろうというのである。「宇宙人文学」という新しい学問だという。

1799人はどのような人たちで、どう連絡して、どこに集合したのか、謎は多い。神奈川県大磯に高麗神社(現在は高来神社)があることなどから、若光は奈良から大磯に移り住み、高麗郡に向かったとされているが、宇宙考古学はどこまで謎を解明できるか。

朝鮮半島からの渡来人が武蔵国や関東地域に来たのは、高麗郡が初めてではない。6世紀の末頃から始まったと言われる。

758年には 帰化した新羅人74人を武蔵国に移し、「新羅郡」を置いた(後に新座郡に改称)。新羅郡は、現在の新座、和光、朝霞、志木市あたりである。

武蔵国には、高麗郡、新羅郡より前の7世紀後半から熊谷から深谷市にかけて、新羅系の秦氏と関わりのある「幡羅(はたら)郡」があったようで、渡来人の郡が三つもあった勘定だ。

武蔵国にこのように渡来人の郡が置かれたのは、未開地だったこの地を新技術で開拓させ、東北の蝦夷(えみし)に備える目的があったようだ。

渡来人は、養蚕、須恵器(土器)、瓦づくり、土木工事など新技術を持っている技術移民だった。日高市の巾着田は渡来人が最初に田を作ったと言われ、和同開珎の自然銅を発見したのも渡来人とされる。

古代の武蔵国と朝鮮半島との関係の深さが分かる。


高麗神社 広開土王碑 日高市

2010年10月30日 16時12分28秒 | 寺社
高麗神社 広開土王碑 日高市

巾着田を訪ねた後、高麗神社に足を伸ばした。神社に「広開土王碑」の碑文の拓本を貼った角柱があった。(写真)

この名を聞くのは、中学校の歴史の教科書以来である。「好太王」とも呼ばれる「広開土王」は、4世紀末の391年に即位した高句麗最盛期の国王で、その版図を朝鮮の歴史上最大に広げたことで知られる。

韓流ドラマファンなら、「大王四神記(だいおうしじんき)」という歴史ファンタジードラマを覚えている人もおられよう。人気のペ・ヨンジュンが演じた主役の「談徳(タムドク)」がこの大王である。

このドラマの人気で、高麗神社に参拝客が増え、地元ではおみやげ用に「四神カステラ」や「四神ドレッシング」ができたほどだ。

「高麗」と「高句麗」(こうくり ハングル読みではコグリョ)は同じことで、高麗は古代の日本語。高句麗は現地名だ。当時まだ朝鮮にはハングルはなく、漢字を使っていた。

高麗は、日本語では「こま」と読む。高句麗とともに朝鮮の三国時代を競いあった百済、新羅を「くだら」「しらぎ」と日本読みするのと同じだ。

「こま」には、「狛」、「巨麻」の字も当てられ、東京都の狛江市や山梨県の巨麻郡も高麗と関わりがある。

「四神」とは、中国神話に登場する世界の四方向を守る聖獣。 東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武。日本の大相撲の吊り屋根にも、方向を示す四隅に四色の房が下がっている。これも四神。東の青は青龍、南の赤は朱雀、西の白は白虎、北の黒は玄武で、土俵を守護している。

四神は日本の高松塚古墳、キトラ古墳にも描かれている。四神は高句麗様式の古墳の特徴になっている。高句麗の古墳群は世界遺産に指定されているほどすばらしいもので、ツングース族の騎馬民族が創った国だったので、馬に乗った騎射の姿の壁画など、色も鮮やかで美しい。

「広開土王碑」の碑文は、1802字の漢字からなり、好太王の業績などが記されている。注目されるのは、三国時代の日本の朝鮮半島進出とそれに対する対応が文字で書き残されていることだ。

・日本は391年、海を渡り百済・加羅(伽耶)・新羅を破り、臣下とした

・399-400年には新羅に侵入、太王は5万の大軍を派遣して救援した

・404年には黄海道地方(現在の北朝鮮の南西部)に侵入したので、太王はこれを討ち大敗させた

などと記されている。

この碑は、現在の中国吉林省集安市の好太王陵の近くにあり、高さ約6m、幅約1.5m。日本と朝鮮半島の古代史の貴重な資料である。

この高句麗も、668年に唐・新羅の攻撃で滅亡した。これより8年前の660年、百済も滅んでいる。百済、高句麗の亡国で多くの渡来人が来日することになった。三国のうち、最後には新羅が唐を追い出し、朝鮮半島を統一した。

高句麗の渡来人は、朝廷の命で、現在の日高市周辺に出来た武蔵国高麗郷(こまごうり)に移され、開拓に当たった。日高市は高麗村と高麗川村が合併して日高町となり、その後、市に昇格した。高麗神社は、そのリーダー「高麗王若光(じゃっこう)」を祀る神社なので、「広開土王碑」を模したものが立っているわけである。

高麗神社は言わば、古代朝鮮と日本との接点なのである。