ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

西崎キク 日本女性初の水上機パイロット 上里町 その2 

2013年07月17日 16時37分20秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 


キクさんにとって、大空に続く人生の第二幕は大地との格闘、開拓だった。

1938年今度は、上里町の近くの神保原村の青年と結婚、当時はやりの満蒙開拓団の一員として、「満州国埼玉村開拓団」に入植した。

「空の女王」から「開拓地の花嫁」への転進は、全国を驚かせ、大きなニュースとなった。

冬は零下30度まで下がる極寒のなか、匪賊(盗賊)の来襲などの厳しい生活の中で、国民小学校の開校で小学校の教師も務め、開拓地の子供たちの一年を記録した満州映画「開拓団の子供」にも出演した。

現地で夫を病気で失い、再婚して、在満国民学校の教師も務めた。

再婚相手は終戦の11日前に出征してシベリアに抑留された。乳飲み子の長男を抱え、苦難の帰国の途中、奉天(現・瀋陽市)の収容所で肺炎で失くした。

1946(昭和21)年6月9日、埼玉県庁にたどり着いた開拓団員は、出発時の492人中わずか133人に過ぎなかった。残りは長男同様、満州の地に果てた。満蒙開拓団の悲劇である。

それでも開拓への意欲は衰えず、鴻巣市間室中学校の教員のかたわら48年に地元の「七本木開拓地」に入植して、再び鍬を振るった。七本木中で教員、七本木小学校で教頭も務めた。

土壌が酸性で、必ずしも開拓向きの土地ではなかったものの、54年に夫が帰国すると教員を退職、農業に専念した。

その体験を書いた「酸性土壌に生きる(開拓15周年記念体験記)」は61年、農林大臣賞を受けた。

75年には、メキシコシティで開かれた国際婦人年の世界大会に参加、自伝「紅翼と拓魂の記」を出版した。

この本は、さいたま市の県立図書館にあるので、開いてみると、小説家はだしの筆さばきで、相当な文才の持ち主だったことが分かる。

76年に放映されたNHKの朝の連続ドラマ「雲のじゅうたん」は、飛行家という夢に向かって奮闘するヒロインの姿を描き、平均視聴率は40.1%、最高視聴率は48.7%だったというから、その人気がしのばれる。

キクさんはそのモデルの一人とされた。兵頭精さんももちろん、モデルの一人である

日本婦人航空協会理事としても活躍した。1979年、脳溢血で波乱の人生を終えた。66歳だった。

今流に言えば、「飛んでる女」だったキクさんの人生を振り返ると、飛行士時代の墜落、不時着、開拓時代の満州からの引き揚げの危機を生き延び、人生を全うできたのは、つくづく運に恵まれた女性だったことが分かる。

まさしく「紅翼」と「拓魂」に対する挑戦の意欲がその危機を乗り越えさせたのであろう。

西崎キク 日本女性初の水上機パイロット 上里町 その1 

2013年07月17日 16時16分11秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
西崎キク 日本女性初の水上機パイロット 上里町 その1 

日本で初めて飛行場ができた所沢市の、航空発祥記念館に出入りしているうちに、埼玉県には確か、新聞で「女鳥人」ともてはやされ、全国にその名を知られた女性飛行士で、NHKの連続ドラマ「雲のじゅうたん」のモデルの一人になった人がいることをふと思い出した。

手持ちの資料をかきわけてみると、県の最北端、群馬県と接する上里町の出身で、「日本初の女性飛行士」ではなくて、厳密に言えば、「日本初の水上機操縦士」、日本女性として初めて海外(当時の満州)へ飛んだことで有名な西崎キクである。

キクのことは、上里町のホームページに「郷土の偉人 西崎キク」という読み物としても面白い経歴が載っているので、それを核にして、キクのことを紹介してみたい。(写真も)

キクは、1912(大正元)年、上里町の七本木生まれ。東京の六本木ならぬ七本木は七本の古い大木があったかららしい。

旧姓松本きく子。県の女子師範を卒業、神保原小学校教師へ。1931年、群馬県太田市の尾島飛行場で飛行機を見たことから、自分も飛びたいと東京の第一飛行学校に入校、次いで愛知県の安藤飛行機研究所の練習生になり、33年8月、日本女性初の水上機の免許をとった。

免許を取って2ヵ月後には郷土訪問飛行に挑んだ。

10月15日午前6時10分、「一三式水上機」を駆って、愛知県知多市新舞子にあるこの研究所を出発した。途中、羽田など2か所で給油、午後1時、坂東大橋に雄姿を見せ、数万の群集が見守る中、三度旋回した後、見事に着水した。408kmを7時間で飛んだ。

18日には、上里町のある児玉郡の小学校や母校県女子師範のある浦和、さらに川口、所沢などの市の上空を飛び、20日、羽田の東京水上飛行場に着水、郷土訪問を終えた。

この飛行は、愛知県知事などが応援、地元の後援会では「郷土訪問の歌」までつくられた。

きく子は、「ふるさとの川は野は麗しく ふるさとの山はこよなく美しい 只感激!只感謝! 二等飛行士 松本きく子」という感謝のビラ3万枚を散布した。

水上機は、陸上の飛行場がなくても、離発着できる利点がある。上里町が利根川に面していて、坂東大橋があることもこの飛行の格好の舞台装置になった。

34年には東京・洲崎の亜細亜航空学校に入学、陸上機の免許も取得。今度は10月に満州国建国祝賀のため、羽田と当時の満州の新京まで、海と“国境”を越えた親善飛行を行った。途中、燃料不足で京城(現ソウル)で不時着というアクシデントに見舞われたものの、2440kmを2週間で飛び、日本の女性として、はじめての海外飛行を達成した。

新聞が「女鳥人」などと書きたてたのはこの時である。パリの国際航空連盟からその年度内の世界の最優秀パイロットに贈られるハーマン・トロフィーが贈られた。

トロフィーともに贈られた終身会員証の№は31番で、30番は「翼よあれがパリの灯だ!」で有名な、1927年に初めて大西洋単独無着陸横断飛行に成功したリンドバーグだった。

世界でリンドバーグ級の飛行士として認められたのである。

37年には、旧樺太の中心地だった豊原市(現在のユジノサハリンスク)の市制施行祝賀飛行に出発したものの、愛機が墜落、貨物船に救助される事件もあった。

日中戦争が始まると、患者の後方輸送機の操縦士を軍に志願したものの却下され、飛行士としての人生は終わった。37年、24歳の時である。

女性で日本初の航空機操縦士免許を得たのは、愛媛県出身の兵頭精(ひょうどう・ただし)である。男のような響きの名前ながら、1922(大正11)年、女性で初めての三等飛行機操縦士免状を得た。

ところが、やっかみ混じりのスキャンダルを暴かれ、航空界から突然姿を消してしまった。