喜多院 川越市
川越大師喜多院の境内には何度も足を踏み入れているのに、建物の中には一度も入ったことはなかった。
14年3月28日は、異常気象で長く厳しい冬がやっと終わって、急に初夏を思わせる陽気になった。国の重要文化財に指定されているという客殿や書院、庫裏の中を初めて見てみようかと思い立って訪ねてみると、入り口の右手の枝垂れ桜が見事に花をつけていた。
入るときより、出てきたときの方が花の開きがぐっと増していたのに驚いた。この暖気を待ち構えていたかのようだ。
客殿から見る紅葉山庭園の三代将軍家光のお手植え桜も枝垂れで、春を寿いでいるように見えた。(写真) 「いいタイミングに来た」とつくづく思った。
よく知られているとおり、客殿には「家光誕生の間」があり、書院には「春日局化粧の間」がある。
春日局(かすがのつぼね)とは、家光の乳母で、大奥で権勢を振るったテレビでもおなじみの人である。「化粧の間」は広い部屋が4つもある。化粧だけでなく、密談などにも使ったのだろう。
客殿には、将軍使用の厠や風呂場もついている。厠は2畳敷きの広さ。もちろん水洗ではない。健康状態を知るため、侍医が検便していたという。風呂は肌着を着て入り、お湯をかぶるだけだったらしい。
近くの入場者用のトイレは最新版の自動開閉式ウォシュレットで、その対比がおかしかった。現在の一般庶民が使っているゆったり湯に浸れる風呂とウォシュレットは、世界に誇れる文化だとあらためて思う。
なぜここに家光や春日局ゆかりの場所があるのか、恥ずかしながら知らなかったので、案内を見ると、寛永の大火の復興工事のためと書いてあり、やっと納得した。
「小江戸」と呼ばれる川越は、江戸と同じく火事の多い所だった。川越の歴史は兵火と大火の歴史と言っていいほどだ。
思えば、川越は「蔵の街」が売り物になっているのも、蔵が防火建築だからだ。1893(明治26)年の大火の教訓が生んだ遺産なのである。「時の鐘」だって、時刻を告げるだけでなく、火の見やぐらも兼ねていたのだった。その二つが今では、川越観光の目玉になっている。
歴史上の川越大火の一つ、1638(寛永15)年の火事で、皇居と同じくらいの広さを誇っていた喜多院は、東照宮ともども山門などを除いて焼失した。その山門は今も残る。
三代将軍家光の時である。
焼けた喜多院は、家康が崇敬し、「生き仏」とまで呼んだ天海僧正(慈眼大師)が、家康の援助で再興したものだった。
第27世住職で、寺号を「喜多院」と改めた。
家光は直ちに喜多院の復興を命じた。天海は江戸城紅葉山にあった御殿の一部を譲り受け、解体して喜多院に移築して、客殿、書院、庫裏に当てた。
御殿に「誕生の間」や「化粧の間」があったので、建物ごと江戸城から川越に移転したわけである。
復興の建築資材運搬に利用されたのが、川越と江戸を結ぶ新河岸川だった。以前は「内川」と呼ばれていたらしい。
当時の川越藩主は、島原の乱を鎮圧した松平信綱で、大火の翌年に就任した。この川を改修して舟運体制を整え、川越街道も整備した。碁盤状に道路を整備、城下町づくりにも力を尽くした。川越の今日あるのは信綱のお陰である。
川越の総鎮守氷川神社のお祭りである川越まつりも、信綱が神輿などを神社に寄進したのが始まりだった。
江戸の日本橋から川越の中心地「札の辻」まで十三里ある。川越いも全盛の時代に「九里(栗)四里うまい十三里(十三里半とも)」とPRに使われたとおり、52kmで、健脚者なら1日で歩ける距離である。
新河岸川を使って、徹夜で漕いで翌日昼には江戸に着く「川越夜船」と呼ぶ定期船や1日足らずで往復する「飛切」という特急便もあった。「とびきり」と読むのだろうが、とびきり速いという意味だろう。
海陸の交通の改善で、川越は江戸への「近接地の利益」を享受した。
例えば、川越祭りは、江戸の天下祭(赤坂山王と神田明神の祭礼)をそっくり真似したものだった。東京では市街電車の架線が普及したこともあって、高い山車が使えなくなったので、神輿担ぎに変わったのに、川越では江戸の伝統どおり山車が生き残っている
現在の県庁所在地のさいたま市は、県庁のある旧浦和市までなら川越までの半分以下の約20kmである。
浦和は鉄道の発達で東京のベッドタウンとなり、東京に近い他の都市もそれに続いた。こうして毎朝夕、職場と自宅を往復する「埼玉都民」が登場するのである。