ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

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仙波東照宮 天海大僧正 川越市

2014年04月05日 07時19分41秒 | 寺社


喜多院の地続き、階段を昇った所にあるのが仙波東照宮である。東照宮とは、徳川家康を祀った神社で、川越市のは、日光東照宮、久能山東照宮と並ぶ日本三大東照宮の一つだ。仙波は東照宮のある地名である。

家康は没後、まず久能山に埋葬され、翌年、日光に改葬された。

ここに東照宮があるのは、家康の遺体を日光へ送る途中、喜多院で3日間の大法要が営まれたからだ。


その導師を務めたのが、天海大僧正である。天海大僧正とは何者か。山門の前に堂々とした像が立っている。(写真)

家康は、小さい頃から人質にとられていた。戦で、敗走したこともあり、人生の裏も表も知り尽くした人物だった。「狸親父」とさえ呼ばれた。その家康が絶大な信頼を寄せ、帰依し、崇敬していた高僧が天海だった。

初めて会ったのは1608(慶長13)年。駿河城だったと言われている。家康は「天海僧正は人中の仏なり」と感嘆、遅すぎた出会いを悔やんだと伝えられる。

家康65、天海72歳の時だという。以来、家康、秀忠、家光三代の参謀、顧問、ブレーンを務め、徳川幕府の礎を築いた。

家康は1616(元和2)年に75歳で死去する前、「遺骸は久能山に収め、一周忌が済んだら、日光山に小さな堂を建立し、わが霊を招き寄せよ。我は八州を守る鎮守となろう」と遺言、天海に死後を託した。

日光までの途中にある川越で大法要が営まれ、東照宮が造られたゆえんである。

南光坊天海、智楽院とも呼ばれた。朝廷から死後に送られた名が慈眼大師。高僧に大師号が贈られたのは、この人が最後で七番目の大師様だった。

自らの出自を弟子たちに語らなかったので、出自、経歴など分からないことが多いが、1588(天正16)年、第27世住職として、後の喜多院の無量寿寺北院に移り、「天海」を号した。

当時の無量寿寺は、中院(仏地院)を中心に、北院(仏蔵院)、南院(多聞院)の三つに分かれていた。

中院の場所には後に東照宮が建ち、中院は南に200m移動、南院は明治の初めに廃院となった。北院は、天海が再建した際「喜多院」と改名した。

家康に「東照大権現」の神号をつけたのはこの人である。

秀忠の諮問に、家康の側近でライバルの臨済宗の金地院(こんちいん)崇伝は「大明神」を主張したのに対し、天海は「豊国大明神」の神号を贈られた豊臣秀吉は滅亡したので、不吉だと押し切った。

家光の時代には、天海は上野に寛永寺を創建した。

当時としては奇跡的な108歳の長寿を全うした(誕生年が明確でないので、はっきりしない)。知力、体力とも超人的だったので、足利将軍のご落胤説や明智光秀の生き残り説などが出たほどだった。

長寿の秘訣として、秀忠に

 長命は粗食、正直、日湯(毎日入浴)、陀羅尼(お経)、時折り、ご下風(おなら)あそばさるべし

という歌を詠んで贈ったのは有名な話。

「黒衣の宰相」というイメージが強いものの、洒脱な人だったのかもしれない。