和光市は東京都の板橋区に接しているだけあって、東京への交通の便がいい。そのせいか、理研と略称される理化学研究所の本部や、その隣に本田技研研究所があるほか、税務大学校、司法研修所、裁判所職員総合研修所と研究や研修施設が多い。
理研本部が,国の化学技術週間に合わせて年に一度一般公開されるというので、14年4月19日見学に出かけた。
理研の前はこれまで何度か通り過ぎたことはあったものの、理化学には縁の遠い身なので、入ったことはなかった。
朝9時半から開くというから、9時過ぎ東武東上線和光市駅南口に降りると、無料のシャトルバス7台を待つ長い行列がすでにできていた。小、中、高生のグループや子供連れ、老人と多彩である。
最後尾についてはみたが、なかなか進まないので、人波の後ろについて歩くことにした。約1万1千の入場者で、1961年の公開開始以来最多だったという。
20分足らずで東京外環自動車道沿いの西門から入る。ここで登録を済ますと、構内地図やパンフレット、ノート入りの布製バッグをもらえた。
東京ドームの5.8倍の広さの敷地に20余の建物があり、100以上の研究室が一斉に開くというのだから、選択に迷う。
その広さを実感しようとぶらぶら歩いていると、「113番元素発見の場所」と大書した垂れ幕が目に入った。
加速器研究センターで、地下にある世界最高性能の加速器施設「RIビームファクトリー」を使って、113番元素の合成や原子核が特に安定になる「魔法数」の発見など画期的な成果を挙げてきたという。
113番元素は原子番号1の「H」(水素)から113番目。世界で初めて合成されたもので、「Nh(ニホニウム)」と名付けられた。これを記念して17年3月28日に和光市駅南口から約400m東南の同市ポケットパークに、大理石製の台座に銅でできた元素周期表をはめこんだモニュメントが除幕された。「ニホニウム発見のまち 和光市」と下部に書かれている。
市は同駅南口から研究所の西門までの約1.1kmの市道を「ニホニウム通り」と名付け、6、7m間隔で元素記号の銅のプレート113枚を敷設する作業を進めている。
仁科記念棟の仁科ホールには、注目の「STAP細胞論文に関するコーナー」も設けられていた。
構内の北端の研究交流棟に「IPS細胞を見てみよう」という部屋があったので、こちらで顕微鏡で拡大された人間のIPS細胞を眺めた。(写真)
IPS細胞は、ご承知のとおり、06年京都大学の山中伸弥教授が作成に成功、さまざまな細胞への分化が可能になる万能細胞で「誘導(人工)多能性幹細胞」と呼ばれる。再生医療への応用が期待されている。
統合支援施設では人気のスーパーコンピューター「京(けい)」を見た。今では中国、米国製に抜かれ4位になったとはいえ、かつては計算速度世界一を記録した。
神戸市の計算科学研究機構に置いてあり、864台つながないと動かない。ここでは本体1台だけが展示されていた。
研究本館では、西アフリカで流行しているエボラ出血熱の展示もあった。日本にも、感染力が強く、治療法のない病原体を扱う、最も隔離レベルが高い実験室が、理研(茨城県つくば市)と国立感染症研究所(東京都武蔵村山市)にあるのに、付近住民の反対で使用できないという話を聞いた。こんな例は先進国では日本だけという。
理研は1917(大正6)年に創立された日本で唯一の自然科学の総合研究所。物理学、工学、化学、計算科学、生物学、医科学などの分野で先導的な研究を進めている。研究者は約3000人。アルマイトの弁当箱、ビタミンA剤、ペニシリン結晶などを開発した。神戸市だけでなく、仙台市、つくば市、横浜市など全国各地にも拠点がある。
タカジアスターゼなどを発見した高峰譲吉が設立を提唱、財界・産業界の大御所・渋沢栄一が賛同して尽力、東京・文京区駒込でスタートした。
寺田寅彦、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄ら優秀な学者を輩出した。仁科芳雄は軍部の要請で原子爆弾開発の極秘研究を進めたこともある。
東京都文京区から和光市に移転したのは1967(昭和42)年。17年で50年になった。
「理研三太郎」という言葉も初めて知った。理研創立初期に活躍した長岡半太郎(土星型原子モデル提唱)、本多光太郎(KS鋼発明)、鈴木梅太郎(米ぬかを脚気予防に)のことだという。
行く前にインターネットなどで情報を仕入れていくと、日本の科学史にも興味が湧き、頭の体操になることはうけあいだ。一般公開の日には研究者たちが親切に疑問に答えてくれる。