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川越藩主 柳沢吉保

2012年03月26日 16時17分45秒 | 近世
川越藩主 柳沢吉保 

「無知とは怖いものである」、とつくづく思った。

大宮公園の片隅にある「埼玉県立歴史と民俗の博物館」は好きな施設で、よく出かける。何か催しを見に行くと、新しい知見が得られるのがうれしい。

12年3月20日の春分の日から「大名と藩 天下泰平の立役者たち」という特別展が始まったので、早速その日に訪れた。

島津77万石(実際はその半分程度だったらしい)の薩摩出身なので、「埼玉県にそんな有名な大名や藩があったかな」と、あまり期待していなかった。

展示品の数も少なく、とりたてて見るものもなかったので、将来何かの参考になることもあるかと、700円の図録を買って帰った。

晩酌をやりながら、「ごあいさつ」や「総説―北武蔵野大名と藩」に目を通しているうち、思わず酔いが醒めてきた。(写真)

小藩だと侮っていた北武蔵(埼玉県)の大名と藩が実は、江戸幕府の政治を牛耳っていたことが分かったからである。

たとえば、柳沢吉保。この名には学生時代からなじみがある。暇があれば、東京・駒込の六義園に足を運んだ。大学に近く、つまらない授業をさぼっては好きな本を読んで過ごす素晴らしい木陰を与えてくれた。何度行ったか分からない。

入り口に六義園の説明板があったので、吉保の名前は頭に刻み込まれている。東京都・本駒込にあるこの庭園は、吉保の下屋敷(別邸)だった。大名庭園では天下一ともいわれた「回遊式築山泉水庭園」(文字どおり築山と池をめぐってながめる庭)で、国の特別名勝に指定されている。

「六義」とは何か。「古今和歌集」を編んだ紀貫之が、その序文に書いている六義(むくさ)という和歌の六つの基調を表す言葉だという。

中国の詩経にある漢詩の分類法で、体裁は「風、雅、頌」、表現は「賦、比、興」の六つなのだそうだ。

驚くのは、吉保の和歌に対する造詣の深さである。六義園は、この六義を、古今の和歌が詠んでいるように庭園として再現しようとしたもので、設計は吉保本人によると伝えられる。

和歌とともに庭園作りへの吉保の打ち込みようが分かる。学問好きだったと伝えられる吉保は、大変な教養人だったのだろう。

ところが、吉保に対する一般的なイメージは違う。

授業をサボっては、六義園で昼寝した当時は、時代劇の全盛時代だった。時代劇映画で決まって悪役として登場するのが、吉保と十代将軍家治の同じく側用人(そばようにん)を務めた田沼意次である。

五代将軍綱吉の時、将軍親政のため、将軍と大老や老中の間を取り次ぐために新設したのが側用人である。その側用人だったのが吉保で、老中格だった。

綱吉は、生類(しょうるい)憐みの令で、「犬公方」と呼ばれ、江戸庶民の悪評を買った。その側近中の側近だから、評判がいいはずはない。吉保邸には贈賄する人が行列し、露店ができたという話さえある。

おまけに、綱吉時代に起きた忠臣蔵事件では、吉保が重用していた儒学者、荻生徂徠(おぎゅう・そらい)の切腹論にくみしたので、二人の悪評に拍車がかかった。

この吉保、30台半ばで7万2千石で川越藩主に、10年務め、ついで15万石で甲府藩主に栄転、幕府では大老格まで上り詰めた。

川越藩では、在任中に訪れることはなかったが、三富(さんとめ)新田を開拓、甲府藩では城と城下町を整備、「是(これ)ぞ甲府の花盛り」とうたわれたほど繁栄させた。行政的な手腕もあったようだ。

綱吉が死去すると、手塩にかけて造った六義園に隠居した。綱吉は生前、実に58回、この庭園を訪れたと言う記録があるという。両社の関係の深さが分かる。


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