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細分されていた埼玉県域 江戸時代

2014年08月01日 18時58分28秒 | 県全般
細分されていた埼玉県域 江戸時代 

古代から江戸時代末までの埼玉県域の歴史を振り返ってみると、明治維新後に「埼玉県」が誕生するまで、有機的な「統一体」としての埼玉県は一度も存在したことがないということに気づく。

古代の武蔵国は、名称こそ全国60か国の一つに数えられた。武蔵国は21の郡から成っていた。今振り返ると、北武蔵の埼玉県域は15の郡から成るが、15の郡の間にとりたてた関係があったわけではない。

北武蔵は武蔵武士発生の基盤になった。武蔵武士の活躍で成立した初の武家政権「鎌倉幕府」の下でも、埼玉県域に所領を持つ御家人が協力し合ったという話も聞かない。

古代には、政治の中心地から距離的に「遠国」だったのに、江戸時代は江戸の「隣国」になった。

この距離の近さから、県域の7割以上が天領(幕府直轄領)と旗本知行地になり、それに加えて、川越、忍、岩槻の3藩があった。藩といっても忍藩が10万石、川越藩が8万石、岩槻藩が2万3千石の小藩だった。

3つの藩の藩主は、江戸防衛のため親藩、譜代大名で、川越、忍、岩槻の城は「老中の城」と呼ばれていたように、幕府の高級官僚だった。転封も頻繁で、一部の藩主を除いて、眼は藩政より幕政に向けられていた。

現在の東京県民同様、サラリーマン大名で、領民との結びつきは希薄。独自の藩風が生まれる雰囲気ではなかった。支配される側も、帰属意識や連帯感は薄かった。城下町より中山道の宿場町の方が賑わいを見せていた。

岡部藩(現深谷市)、久喜藩というのもあった。

知行1万石を超せば大名。それ以下で将軍に拝謁できる御目見え以上の旗本は、約5400人いた。「旗本8万騎」という言葉は、お目見えできない御家人や、旗本・御家人の家臣を加えた数だった。

江戸に近い埼玉県域には、多くの旗本が知行地を与えられた。当初は知行地に陣屋を構える者も多く、73か所もあったという。後に旗本は江戸に住むことが多くなり、陣屋は廃止になっていった。

1万石以下200石以上なのでピンからキリまでいたということだろうが、一般に規模が小さいものが多く、幕末には県域に知行地を持つ旗本は約600人いたと推定される。

例えば江戸中期、6代将軍家宣に仕えて、「正徳の治」と呼ばれる政治改革をした儒学者新井白石は、白岡市の野牛に知行地(500石)があり、観福寺に肖像画が残る。

イタリア人宣教師シドッチの尋問記「西洋紀聞」や自叙伝「折たく柴の記」など多くの著書を残した。

幕末、江戸城の無血開城に先立ち西郷隆盛と談判、勝海舟との会談のお膳立てをした無刀流の創始者山岡鉄舟は、生家の小野家(山岡は養子名)が小川町に知行地があったので、訪れる機会も多かった。

今も残る「忠七めし」は、鉄舟がつくらせ、「二葉館」の館主の名にちなんで命名したと伝えられている。

幕末における旗本領などの米の石高の百分比は、旗本領が35%、天領が32%、藩領が32%とほぼ三分されていて、旗本領の比率が高いことが分かる(「埼玉県の歴史」小野文雄著 山川出版社)。

このほか、比率は低いものの400余の寺社領もあった。県の南部の上野・寛永寺領や根津権現領など比較的大きなものから、おなじみの川越喜多院(500石)、鷲宮神社(400石)、大宮氷川神社(300石)などである。

藩の城下町は江戸の強い商圏の中に組み込まれ、地域連帯意識も独自のアイデンティティーも育つ土壌はなかったのである。


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