細
ましげにわかやぐけしきともは、いとう
細手習君の心也
しろめたう覚ゆ。かぎりなくうき身な
りけりとみはてゝし命さへ、あさまし
うながくて、いか成さまにさすらふべきな
らん。ひたぶるになき物と、人にみきゝす
てられてもやみなばやと、おもひふし給へる
草子地よりいふ也
に、中将は大かたもの思はしきことの有に
や。いといたううちなげきつゝしのびやかに
ふえを吹ならして、√鹿のなく音になどひ
とりごつけはひ、まことに心ちなくはある
箋中将の詞
まじ。過にしかたの思出らるゝにも、中/\
手習君のつれなき事をいへり
こゝろづくしに、今はじめて哀とおぼすべ
頭注
しかのなくねになど
細山里は秋こそことに侘
しけれ鹿のなくねにめ
をさましつゝ。
まことに 心ちなくはある
ましう 師前に中将を
心にくきけ付給へる人
といひし故誠にと也。
頭注
過にしかたの思ひ出らるゝにも 三尼君のむすめの事をいふ中将のことばなり。
今はじめてあはれとおぼす人はた 抄手習ノ君のあひ思ふまじきさまをうらみたるなり。
ぢ
きひとはた、かたげなれば√みえぬ山路に
もえ思なすまじうなんとうらめしげに
て出なんとするに、尼君゙など√あたらよを
御らんじさしつるとて、ゐざり出たまへり。
中将詞
なにか√をちなる里もこゝろみ侍ぬれば
中将の心也
などいひすさみて、いたうすきがましか
らんもさすがにびんなし。いとほのかに見
えしさまの、めとまりしばかりに、つれ/"\
なる心なぐさめに思出づるに、あまりも
てはなれおくふかげなるけはひも、ところ
孟中将也
の樣にあはず。すさまじと思へば、かへり
頭注
見えぬ山路にもえ思ひ
なすまじう 師昔の
人を思ひ手習のつれな
きなど、うきめ見ぬ山
路とは思ひなさず
うき所ぞとの心也。河√世
のうきめ見えぬ山ぢ
へいらんにはーーー
などあたら夜を御らんし
さしつる 河√あたら夜の月
と花とをおなじくは心
しれらん人に見せばや
可惜夜(アタラョ)日本紀 恡夜万葉
師心しる人に見せたき
あたら夜をいかで見さ
し給ふと中将をとむ
るよしなり。
をちなるさとも 細引哥
末勘引哥ななくては心
得がたきと也。孟同師同
但此小野の里ををちな
る里といふにや。こゝに來
頭注
ても手習のつれなさを
見果たればとまるべき
にもあらずと也。
ふえ 尼君心
なんとするを、笛の音さへあかず、いとゞおぼえて
尼君
ふかき夜の月をあはれとみぬ人や山の
尼君のうたのよろしからぬを
はちかき宿にとまらぬ。となまかたわなる
浮舟のといふと也 孟中将の心と
ことをかくなんきこえ給といふに、心とき
きめきたり
めきして
中将
山のはにいるまで月をながめみんねや
細尼君の
のいたまもしるしありやと。などいふにこの大
母也。此●物語の狂言也。
尼君笛のねをほのかにきゝつけたりければ、
物いふ折々しはぶきのまじるさま也
さすがにめでゝ出きたり。こゝかしこ打しはぶ
地
き、あさましきわなゝきごゑにてなか/\む
かしのことなどもかけていはず。たれとも
細大尼公我むすめの尼君にいへる詞也
しらぬなるべし。いでその琴のことひき
頭注
ふかき夜の 細前のあた
ら夜をといへる詞をう
けたり。尼君也。師山の
端ちかきは十日のい
りかたなる折ふしに、此宿
のさまをそへていへり。
かくなんと 細手習君のよ
めると尼君のいへる也。
山のはに 細ねやの板間
とはむねの思ひも晴
るやとなり。師ねやの
いたまもとはすこしの
しるしを見る事もや
といふこゝろなり。
むかしのことなど 細昔の
尼君の聟の中将など
いふことをも、能もわき
まへざる也。愚案老人は
昔の事を戀忍びいひ出べ
頭注
きをかへりて此大尼はいはず
中将とも思ひわかぬにやと也。
ふえ
給へ。よこ笛は月にはいとおかしき物ぞかし。
いづら、くそたち琴とりてまいれといふに、
細中将の心に是は尼君の母なりと推量したる也 何としたれば
それなめりとをしはかりにきけど、いかなる
いまゝで存命ぞとの心也
所にかゝるひといかでこもりゐたらん。さだめ
なき世ぞこれにつけて哀なり。ばんじきで
中将詞也。琴をすゝむる也
うをいとおかしく吹て、いづらさらばとの
給。むすめのあま君これもよきほどのす
細尼君中将の笛をほめたる也
き物にて、昔きゝ侍しよりもこよなく
細いやしき耳ゆかと也
覚え侍るは、山風をのみきゝなれ侍にける
みゝからにやとていでや是はひがごとに
琴を也 中将心
なりて侍らんといひながら、ひく。いまやう
はおさ/\なべての人のいまはこのまずなり。
頭注
くそたち 細女房達也。くぞ
とは今の世にもこそと人
の名につけていふ事なり。
孟こそたち也。何ことと
召つかふ人を云也。
さだめなき 細孫女をうし
なひて此老尼のながらへ
たるを、不定の世と哀
に思ふ也。孟中将の心也。
老尼の八旬なるはのこり
ゐて若き孫の女になく
成ぬると、老少不定の
世を観じたる也。
いでやこれはひがごとに
中将の琴をすゝむるにこ
たふる詞也。久しく琴を
手にふれねばとの卑下は
しながらと也。
いまやう 細中将尼君の琴
をかんじたる也。孟事のこ
とは今の世にひく人もまれ
なる物なれば中/\めづらし
と中将のきく也。今やうと
は當時と云心歟哢
ましげに、若やぐ氣色ともは、いと後ろめたう覚ゆ。限り無く憂き
身なりけりと、見果てし命さへ、浅ましう長くて、いかなる樣に流
離ふべきならん。ひたぶるになき物と、人に見聞き捨てられても止
みなばやと、思ひ臥し給へるに、中将は、大方、物思はしき事の有
るにや。いと痛う打歎きつつ、忍びやかに笛を吹き鳴らして、
「√鹿の鳴く音に」など独り言つ氣配、真に心地無くはあるまじ。
「過ぎにし方の思ひ出でらるるにも、中々心尽くしに、今初めて哀
と思すべき人はた、難げなれば√みえぬ山路にも、え思ひなすまじ
うなん」と恨めしげにて出でなんとするに、尼君など
「√あたら夜を、御覧じさしつる」とて、居ざり出で給へり。
「何か√遠なる里も、試み侍りぬれば」など言ひ荒みて、いたう好
きがましからんも流石に便なし。いと仄かに見えし樣の、目留り
しばかりに、徒然なる心、慰めに思ひ出づるに、余りもて離れ、奧
深げなる氣配も、所の樣に合はず。荒まじと思へば、帰りなんとす
るを、笛の音さへ飽かず、いとど覚えて
尼君
深き夜の月をあはれと見ぬ人や山の端近き宿に泊まらぬ
るを、笛の音さへ飽かず、いとど覚えて
尼君
深き夜の月をあはれと見ぬ人や山の端近き宿に泊まらぬ
と生かたわなる事を、かくなん聞こえ給ふと言ふに、心ときめきし
て、
中将
山の端に入るまで月を眺め見ん閨の板間もしるしありやと
中将
山の端に入るまで月を眺め見ん閨の板間もしるしありやと
など言ふに、この大尼君笛の音を仄かに聞き付けたりければ、流石
に愛でて出で來たり。ここかしこ打咳き、浅ましきわななき声にて、
中々昔の事などもかけて言はず。誰とも知らぬなるべし。
「いでその琴の琴弾き給へ。横笛は、月にはいとおかしき物ぞかし。
いづら、くそたち。琴取りて參れ」と言ふに、それなンめりと推し
いづら、くそたち。琴取りて參れ」と言ふに、それなンめりと推し
量りに聞けど、如何なる所に、かかる人、いかで籠り居たらん。定
め無き世ぞこれに付けて哀なり。盤渉調を、いとおかしく吹きて、
「いづら、さらば」と宣ふ。娘の尼君、これもよき程の数寄物にて、
「昔、聞き侍りしよりも、こよなく覚え侍るは、山風をのみ聞き慣
れ侍りにける耳からにや」とて、
「出でや。是は僻事に成りて侍らん」と言ひながら、弾く。今様は、
おさおさなべての人の、今は好まず成り
※盤渉調(ばんしきちょう〔‐テウ〕) 雅楽の六調子の一。盤渉( 雅楽の十二律の一つ。また、五音の一つ。基音の壱越の音から一〇律めの音で、洋楽のロ音に近いという。)の音を主音とする旋法。
【雅楽】盤渉調 越天楽 龍笛独奏.wmv
引歌
√鹿の鳴く音に
古今集 秋歌上
これさたのみこの家の歌合のうた
ただみね(壬生忠峯)
山里は秋こそことにわびしけれ鹿のなく音にめをさましつつ
√見えぬ山路
古今集 雑歌
おなじ文字なきうた
もののべのよしな(物部良名)
よのうきめ見えぬ山ぢへいらむには思ふ人こそほだしなりけれ
√あたらよ
後撰集 春下
月のおもしろかりける夜、はなを見て
源さねあきら(信明)
あたら夜の月と花とをおなじくはあはれしれらん人に見せはや
和歌
尼君
深き夜の月をあはれと見ぬ人や山の端近き宿に泊まらぬ
深き夜の月をあはれと見ぬ人や山の端近き宿に泊まらぬ
よみ:ふかきよのつきをあはれとみぬひとややまのはちかきやどにとまらぬ
意味:帰ろうとするなんて、夜更けの月をあわれだと見ない人なのですね。山の端に近いこの宿に泊まらないというのですから。
備考:
中将
山の端に入るまで月を眺め見ん閨の板間もしるしありやと
山の端に入るまで月を眺め見ん閨の板間もしるしありやと
よみ:やまのはにいるまでつきをながめみむねやのいたまもしるしありやと
意味:それでは、山の端に月が入るまで眺めていましょう。閨の板間の隙間から月光が差し込む事もあるでしょうし、貴女と逢瀬ができるかもしれませんから。
備考:閨の板間から漏る月は、浮舟の部屋に入れると言う意味。
略語
※奥入 源氏奥入 藤原伊行
※孟 孟律抄 九条禅閣植通
※河 河海抄 四辻左大臣善成
※細 細流抄 西三条右大臣公条
※花 花鳥余情 一条禅閣兼良
※哢 哢花抄 牡丹花肖柏
※和 和秘抄 一条禅閣兼良
※明 明星抄 西三条右大臣公条
※珉 珉江入楚の一説 西三条実澄の説
※師 師(簑形如庵)の説
※拾 源注拾遺