新古今和歌集の部屋

平家物語巻第十二 六 六代の事4




 
 

をさり共とこそ頼み奉りしに、つゐにとられぬる事のかな
しさよ。只今もやうしなひつらんと、かきくどき袖をかほに
をしあてゝ、さめ/"\とぞなかれける。よるになれ共、むねせき
あぐる心ちしてつねもまどろみ給はざりしが、やゝあつて
めのとの女ばうに宣ひけるは、只今ちとまどろみたりつる
夢に、此子がしろひ馬にのりてきたりつるが、あまりに御
こひしう思ひ參らせ候程に、しばしのいとまこふて參て候
とて、そばについゐて、何とやらん、世にうらめしげにて、有つ
るがいく程なくて折おどろかされ、そばをさぐれ共人もなし。
ゆめだにもしばしもあらで、やがてさめぬる事のかなしさ
よとぞ、なく/\かたり給ひける。去程にながきよをいとゞ
あかしかね、なみだにとこもうくばかり也。かぎりあればけい
じんあかつきをとなへて、よもあけぬ。さい藤六かへり參りたり。
                                   べち
母うへ扨いかにやととひ給へば、今までは別の御事も、候は
ず。是に御文の候とて、取出ひて奉る。是をあけて見給
ふに、今までは別の子細も候はず。さこそ御心もとなう、思
し召れ候らん。いつしかだれ/"\も、御こひしうこそ思ひま
いらせ候へと、おとなしやかにかき給へり。母上これをかほにお
しあてゝ、とかうの事もの宣はず。引かづいてぞふし給。
かくて時こくもはるかにをしうつりければ、さい藤六、時の程も
おぼつるなふ候。御返事給はつて、歸り參り候はんと申けれ
ば、母うへなく/\御返事かいてぞたふてける。さい藤六いと
ま申て出にけり。めのとの女房、せめての心のあられずさ
                            へん
にや、大覚寺をばまぎれ出て、其邊をあしにまかせて、
なきあるく程に、ある人の申けるは是よりをく、たかをと
いふ山寺のひじり、もんがくばうと申人こそ、かまくら殿
の、ゆゝしき大事の人に、思はれ參らせてまし/\けるが、
上らうの子をでしにせんとて、ほしがらるゝなれといひけ
れば、めのとの女ばう、うれしき事をもきゝぬと思ひ、すぐにた
かをへ尋入ひじりにむかひ參らせて、なく/\申けるは、ち
 
 

平家物語巻第十二
  六 六代の事
を、さりともとこそ頼み奉りしに、遂に取られぬる事の悲しさよ。只今もや失ひつらん」と、かきくどき、袖を顔に押し当てて、さめざめとぞ泣かれける。夜になれども、胸せき上ぐる心地して、常も微睡み給はざりしが、ややあつて、乳母の女房に宣ひけるは、
「只今、ちと微睡みたりつる夢に、この子が白ひ馬に乗りて來たりつるが、『余りに御恋しう思ひ參らせ候程に、暫しの暇請ふて參て候』とて、側についゐて、何とやらん、世に恨めしげにて、有つるが、幾程無くて、折驚かされ、側を探れども人も無し。夢だにも暫しもあらで、やがて覚めぬる事の悲しさよ」とぞ、泣く泣く語り給ひける。去程に、長き夜をいとど明しかね、涙に床も浮くばかり也。限りあれば、鶏人暁を唱へて、夜も明けぬ。
斎藤六帰り參りたり。母上、
「扨如何にや」と問ひ給へば、
「今までは別の御事も、候はず。是に御文の候」とて、取り出ひて奉る。是を開けて見給ふに、
今までは別の子細も候はず。さこそ御心心許なう、思し召れ候らん。いつしか誰々も、御恋ひしうこそ思ひ參らせ候へ。
と、大人しやかに書き給へり。母上、これを顔に押し当てて、とかうの事もの宣はず。引きかづいてぞ臥し給ふ。
かくて時刻も遥かに押し移りければ、斎藤六、
「時の程もおぼつるなふ候。御返事給はつて、歸り參り候はん」と申ければ、母上、泣く泣く御返事書いてぞたふてける。斎藤六、暇申して出でにけり。乳母の女房、せめての心のあられずさにや、大覚寺をば紛れ出でて、その辺を足に任せて、泣き歩く程に、ある人の申けるは、
「是より奧、高雄といふ山寺の聖、文覚坊と申す人こそ、鎌倉殿の、ゆゆしき大事の人に、思はれ參らせてましましけるが、上臈の子を弟子にせんとて、欲しがらるるなれ」と言ひければ、乳母の女房、嬉しき事をも聞きぬと思ひ、直ぐに高雄へ尋ね入り、聖に向かひ參らせて、泣く泣く申しけるは、
「血
 
 
 
※鶏人暁を唱へて
 漏刻作       都良香
鶏人暁唱聲驚明王之眠
鳧鐘夜鳴響徹暗天之聴
鶏人、暁唱ふ。声、明王の眠を驚かす。
鳧鐘、夜鳴る。響き暗天の聴に徹ふ。
宮中の夜明けを告げる役職。赤い烏帽子で、鶏の様にしていた。

※文覚坊 文覚(もんがく、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。

京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「平家物語」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事