十 小原御幸
かゝりし程に、法皇は文治二年の春の比、けんれい門院の
小原のかんきよの御すまゐ御らんせまほしう思召れけれ
共、きさらぎやよひの程はあらしはげしう、よかんも
いまだつきず、みねの白雪たへやらで谷のつらゝもうち
とけず。かくて春すぎ夏たて、きたまつりも過しかば
法皇夜をこめて、をはらのおくへ御かうなる。忍びの御かう
なりけれ共、ぐぶの人々には悳大寺花山院、つちみかどいげ
公卿六人、殿上人八人北めん少/\候ひけり。くらまとをりの
御かうなりければ、かのきよはらのふかやぶが、ふだらく寺、
をのゝくはうたいこうくうの、旧跡ゑいらん有て、それより御
こしにぞめされける。とを山にかゝるしら雲は、ちりにし花
のかたみ也。あをばにみゆるこずゑには、春のなごりぞをし
まるゝ。卯月に廿日あまりの事なれば、夏草のしげみ
がすゑをわけいらせ給ふに、はじめたる御かうなれば、御覧ん
じなれたるかたもなく、人せきたへたる程も、おぼしめし
しられてあはれ也。西の山のふもとに、一宇の御堂あり。
即しやつくはうゐんこれなり。ふるうつくりなせるせん水
木だちよし有さまの所なり。いらかやぶれては、きりふだ
んのかうをたき、とぼそおちては、月じゃうちゅうのともし
びをかゝぐ共、かやうの所をや申べき。庭のわか葉しげり
あひ、あをやぎいとをみだりつゝ、いけのうき草なみにたゞ
よひにしきをさらすかとあやまたる。中しまの松にか
かれる藤なみの、うらむるさきにさける色。あをばまじ
りのおそざくら、はつ花よりもめづらしく、きしの山吹
さきみだれ、八重たつ雲のたへまより、山ほとゝぎすの一こ
ゑも、きみのみゆきをまちかほなり。法皇これをゑいら
ん有て、かうぞあそばされける。
池水にみぎはの桜ちりしきて波の花こそ盛なりけれ
ふりにける岩のたへまより、おちくる水のをとさへ、ゆゑいよ
し有所なり。りよくらのかきすいたいの山、ゑにかくとも
筆もおよびがたし。さて女院の御庵室をゑいらん有に
平家物語巻第十二 平家物語灌頂巻
十 小原御幸
かかりし程に、法皇は文治二年の春の比、建礼門院の小原の閑居の御住居御覧せまほしう思し召されけれども、如月、弥生の程は、嵐激しう、余寒も未だ尽きず、峰の白雪絶へやらで、谷の氷柱も打解けず。かくて春過ぎ、夏立ちて、北祭も過ぎしかば、法皇夜を込めて、小原の奧へ御幸なる。忍びの御幸なりけれども、供奉の人々には、徳大寺、花山院、土御門以下(いげ)公卿六人、殿上人八人、北面少々候ひけり。鞍馬通りの御幸なりければ、彼の清原の深養父が、補陀落寺、小野の皇太后宮(くはうたいこうくう)の、旧跡叡覧有りて、それより御輿にぞ召されける。遠山に懸かる白雲は、散りにし花の形見也。青葉に見ゆる梢には、春の名残ぞ惜しまるる。
卯月に廿日余りの事なれば、夏草の茂みが末を分け入らせ給ふに、初めたる御幸なれば、御覧んじ慣れたる方も無く、人跡絶へたる程も、思し召し知られて哀れ也。
西の山の麓ふに、一宇の御堂あり。即ち寂光院これなり。古う造りなせる前水、木立ち由有る樣の所なり。甍破れては、霧不断の香を焚き、枢(とぼそ)落ちては、月常住の燈を掲ぐとも、かやうの所をや申すべき。庭の若葉茂りあひ、青柳糸を乱りつつ、池の浮き草浪に漂ひ錦を晒すかと謝たる。中島の松に懸かれる藤波の、恨むる先に咲ける色。青葉混じりの遅桜、初花よりも珍しく、岸の山吹咲き乱れ、八重立つ雲の絶へ間より、山時鳥の一声も、君の御幸(みゆき)を待ちかほなり。法皇これを叡覧有りて、かうぞあそばされける。
池水に汀の桜散り敷きて波の花こそ盛なりけれ
古りにける岩の絶へ間より、落ち來る水の音さへ、由い良し有る所なり。緑蘿(りよくら)の墻(かき)、翠黛(すいたい)の山、絵に画くとも、筆も及び難し。
池水に汀の桜散り敷きて波の花こそ盛なりけれ
古りにける岩の絶へ間より、落ち來る水の音さへ、由い良し有る所なり。緑蘿(りよくら)の墻(かき)、翠黛(すいたい)の山、絵に画くとも、筆も及び難し。
さて、女院の御庵室を叡覧有るに
※北祭 葵祭。京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、五月十五日(陰暦四月の中の酉の日)に行われる例祭。石清水八幡宮の南祭に対し北祭ともいう。平安時代、「祭」といえば賀茂祭のことを指した。
※徳大寺 徳大寺実定。文治二年四月当時内大臣左大将。
※花山院 藤原兼雅。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。花山院太政大臣藤原忠雅の長男。官位は従一位左大臣。後花山院左大臣と号す。当時は前権大納言。
※土御門 源通親。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。村上源氏源雅通の子。官位は正二位・内大臣、右大将、贈従一位。当時は権中納言。
※清原の深養父 清原深養父。平安時代中期の歌人。豊前介清原房則の子。官位は従五位下内蔵大允。中古三十六歌仙の一人。
※補陀落寺 静原と大原の間にあった寺院。現在は京都府京都市左京区静市市原町にある。
※小野の皇太后宮 後冷泉天皇中宮藤原歓子(治安元年ー康和四年)。後に皇太后宮となる。内裏を退出後、小野の僧坊に入る。現在の左京区静原市原町にて崩御。
※甍破れては~
甍破霧焚不断香、枢落月掲常住燈
と漢詩聯のようにも見えるが、平仄が合わず、出典不明。
※青葉混じりの遅桜、初花よりも珍しく
金葉集 初度本、二度本、三度本 夏
二条関白家にて人々余花のこころをよみはべりける
藤原盛房
なつ山のあをばまじりのおそざくらはつはなよりもめづらしきかな
※八重立つ雲の絶へ間より~
金葉集 初度本、二度本、三度本 夏?
郭公をよめる
皇后宮式部
ほととぎす雲のたえまにもる月のかげほのかにもなきわたるかな
※池水に汀~
千載集
みこにおはしましける時、鳥羽殿にわたら
せ給ひけるころ、池上花といへるこころを
よませ給うける
(後白河)院御製
いけ水にみきはのさくらちりしきて浪の花こそさかりなりけれ
母待賢門院が亡くなって(久安元年八月二十二日)から五十日過ぎた比、崇徳天皇の勧めにより、鳥羽院に住んだ。つまり大原御幸の遥か以前の歌を利用している。
※緑蘿の墻 緑のつたかずらが生える垣根
※翠黛の山 大原寂光院の近くの山、又は緑色にかすんで見える遠くの山