小原への入御の事
去ぬる七月九日の日の、大ぢしんについぢもくづれ、あれ
たる御所もかたぶきやぶれて、いとゞすませ給ふべき御た
よりもなし。りよくゐのかんしきゆうもんをまもるだに
もなし。心のまゝにあれたるまがきは、しげきのべよりも露
けく、おりしりがほにいづしか、むしのこゑ/"\うらむるもあ
はれなり。さるまゝには、夜もやう/\ながくなれば、いとゞ御ね
ざめがちにて、あかしかねさせ給ひけり。きせぬ御物思ひ
に、秋のあはれさへ打そひて、いとゞしのびがたうぞ思召れ
ける。何事もみな、かはりはてぬるうき世なれば、をのづから
なさけをかけ奉るべき、昔の草のゆかりも、みなかれはてゝ
たれはぐゝみ奉るべし共覚えず。され共れんぜいの大納
言、たかふさの卿の北の方、七条のしやうりの大夫のぶたかの
卿の北の方より忍びつゝ、つねは事とひ申されけり。女院
そのむかしあの人共の、はぐゝみにて有べしとは、露もお
ぼし召よらざりし物をとて、御涙をながさせ給ひけれ
ば、つき參らせたる女房たちも、みな袖をぞぬらされ
ける。此御すまゐも程みやこちかくて、たまぼこのみち
行人の、人めもしげければ、露の御命の風をまたんほど
うき事きかぬふかき山の、おくのおくへも入なばやとは思召
平家物語巻第十二 平家物語灌頂巻
九 小原への入御の事
九 小原への入御の事
去ぬる七月九日の日の、大地震に築地も崩れ、荒れたる御所も傾き破れて、いとど住ませ給ふべき御頼りも無し。緑衣の監使、宮門を守るだにも無し。心のままに荒れたる籬は、茂き野辺よりも露けく、折り知り顔にいづしか、虫の声々恨むるも哀れなり。さるままには、夜もやうやう長くなれば、いとど御寝覚めがちにて、明かしかねさせ給ひけり。期せぬ御物思ひに、秋の哀れさへ打添ひて、いとど忍び難うぞ思し召れける。何事も皆、変はり果てぬる憂き世なれば、自づから情けをかけ奉るべき、昔の草の縁も、皆枯れ果てて、誰育み奉るべしども覚えず。
されども冷泉の大納言、隆房の卿の北の方、七条の修理の大夫信隆の卿の北の方より忍びつつ、常は事とひ申されけり。女院、その昔
「あの人どもの、育みにて有べしとは、露もおぼし召し寄らざりし物を」とて、御涙を流させ給ひければ、付き參らせたる女房たちも、皆袖をぞ濡らされける。
この御住まゐも、程都近くて、玉桙の道行く人の、人目も茂ければ、露の御命の風を待たん程、憂き事聞かぬ深き山の、奧の奧へも入りなばやとは思し召
※小原 歴史地名体系「大原」によれば、
京都市:左京区大原[現在地名]左京区大原〈井出町・上野町・大長瀬町・大見町・尾越町・草生町・古知平町・小出石町・勝林院町・戸寺町・野村町・百井町・来迎院町〉八瀬以北の高野川上流域。小原とも記す。
※冷泉大納言隆房卿 藤原隆房。藤原隆季の子。正二位・権大納言。四条隆房、冷泉隆房とも。邸宅が冷泉万里小路にあった。
※七条修理大夫信隆卿 藤原信隆。右京大夫藤原信輔の子。娘の殖子は高倉天皇の寵愛を受け、守貞親王・尊成親王の2皇子の生母なり、後鳥羽天皇の外祖父。従三位・修理大夫。贈従一位・左大臣。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門信隆とも記される。
※憂き事聞かぬ深き山
新古今和歌集巻第十七 雜歌中
題しらず
西行法師
しをりせで猶山深く分け入らむ憂きこと聞かぬ所ありやと
よみ:しおりせでなおやまふかくわけいらむうきこときかぬところありやと 隆雅 隠
意味:途中木を折って来る人や帰る時の目印にしないで、もっと山深いところへ分け入りましょう。憂いの話を聞かなくて良い所はありますかと。
備考:御裳裾川歌合