聚樂亭の旧地は一条の南二条の北にして東は大宮を限り西は朱雀通(今の千本
通なり)
を堺とす。太閤秀吉公天正十三年に城郭を築き壮麗にあらずんば威を重ずる
事なしとて殿閣には七寶を鏤名木奇石をあつめ秦の阿房宮前漢の未央宮
にもおとらざるの寶閣なり。同十六年四月行幸ありて和哥の御會御能などあり。
其後関白秀次公こゝに住給ひしが文禄四年の滅亡より樓閣こゝかしこの寺院
にわかれて今の聚楽の名のみ遺り町の惣名となりぬ。(聚楽組と號する町数
凡百二十町あり)