九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

第十六次遣唐使 延暦二十三年 筑紫発 

2025-01-29 | 佐々氏 バラバラ情報






この第十六次遣唐使には、最澄も、空海も、橘逸勢も参加していた。
この表を見ると、菅原清公善主梶成良峯長松(医師)など、聞いたことのある人物が多い。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅原氏を調べていると、余語氏との関係が見えてきた。

2025-01-27 | 佐々氏 バラバラ情報

菅原姓 佐々系譜
餘語右衛門大夫菅原入道梅哲 先祖は江州 餘語庄人








佐々加賀守一義 京極高次の家臣とある。
京極高次の分限帳に【九里】の名前が載っている。

さて【久利・久里・九里一族】の本のなかの
菅原氏との関連部分によると、久利民部真利 が出てくる。















上記のページには
『北岡城は,秦久利の居城でした。秦久利は,菅原道真公によく仕え,菅公も文学の才のありました秦久利を愛し,親交があってしばしば城を訪れました。
 秦久利は,老いて1女のみであったので,菅公がこれを憐れみ,族子をおくって家を継がせ,その名を久利長門守といいました。・・・』

とある。

龍燈院と菅原道真にも秦久利が登場する。


佐々氏の系譜の中に江州の餘語庄人であったと記載があるが、その【餘語庄】は、中原が住んでいた所なのではないだろうか?

以前書いた自分のブログからだが、此の中原俊興(余呉大夫)は、実は、秦久利の関係者?なのだろうか?
秦氏は機織りの技術を日本に伝えたではないか。
餘語の『ご』は、余【呉】とも書くように呉国と関係がありそうだと思う。
羽衣伝説も絹の織物が登場する物語であるように。





此の俊興の父是俊の役職に『織部少允』と見える。
織部司の許で働いていたのではないだろうか?
頭・助・大允・少允・大属・少属…

織部司 ↓

この父の名前に『』という文字が含まれているのも、菅原氏の【是善】から来ているのではないかと思われる。

菅原道真903年没で、俊興『住近江国伊香郡』の記載が天慶二年(939年)。
さらに遡り、長城の註を見ると『太宰少監』とある。

菅原道真の左遷の様子は、wikipediaによると『昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったとして、1月25日に大宰員外帥に左遷された』とある。

それに追随していった者に中原長城がいたのではないだろうか?
そう思って、中原長城を調べてみると、それ(左遷)以前に太宰に赴いていた人物であったことが分かった。

筑後国司が殺されたという事件があり、事件を収めるために中原長城が兵を連れて筑後へ行くという事のようである。元から大宰府に居たのだろうと思う。

同じ文書内に菅原宗岳(菅原善主の息)が登場し、判官巡察弾正菅原宗岳が事件の糾明のために大宰府へ派遣されたそうだ。

菅原道真が845年生まれで、此の事件が元慶七年(883年)なので、38歳の時の事件となる。

さて、中原の系図を見ると讃岐に関係する人物が二人いたことがわかる。
弘宗王と中原長谷(長城の父)である。
弘宗王は讃岐権守、中原長谷は讃岐権介である。
長谷の息の【月雄】にも讃岐権掾とある。

それら註と秦久利は、何かしら関係があるのだろうか?

近江国の中原氏も依知秦氏と婚姻関係や養子縁組はあったのではないかと想像もできる。

つまり、近江国の湖北の中原氏は、秦氏の血も入っているのではないかと思うのだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

但馬国 菅荘は八幡宮の領地であった。(3) 高辻姫とは菅原家の姫であるようだ。

2025-01-24 | 九里バラバラ情報
丹波国 加佐郡河守荘地頭は、1239年(沙弥蓮忍)
肥前国 高来郡深江の地頭となったのが1247年 (深江入道蓮忍)
因幡国 法美郡冨城郷地頭は1250年以前 (蓮忍入道)

藤肥前前司経久は1285年の文書にその名が上がるが、1285年以前に菅荘にいた人物とみても良いだろうか? 三人の息子が、跡を継いだという事が書かれている。

大田文に書かれてはいるが、それ以前の文書を参考に作っていることはないだろうか?

高辻姫宮の高辻は、高辻に邸を構えていた家の御姫様という事のようであるので、もしかすると‥‥(後述)




高辻姫宮 ⇒ 皇室領(出石郷・神戸郷が蓮華王院領) ⇒ 近衛家領(南北朝時代) と変遷しているようである。

案主は、藤肥前々司の子三人の記載が残っている。
左衛門入道蓮阿
四郎左衛門入道妙心
五郎左衛門入道定智



高辻姫宮の高辻姫の家は、前回の『①高辻家という菅原氏の流れに乗る家がある。』が、正しかったかもしれない。

平安京オーバーレイマップによると                 






・・・と高辻通よりも上になるが、菅原邸があった。
白上殿・紅梅殿の間である。
高辻邸のあたりは【天満宮降誕の地】のあたりとなると思う。





菅原道真の時代から住んでいたのが、高辻であるようだ。


是綱ー宣忠ー長守ー為長ー長成・高成ー清長
           ー長貞・公良(母は中原師茂の娘)


                      (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

但馬国 菅荘は八幡宮の領地であった。(2) 高辻姫宮が領主

2025-01-23 | 九里バラバラ情報
但馬国 出石郡 菅荘 北部にあると思われる【出石神社】は、高辻宮姫の領地だという。その総地積はダントツ一位であり、広いようだ。

荘官・肥前前司とあり、藤肥前前司経久のことと思われる。
彼は私的役人であった との見解も述べられている。(神美村誌)



という事は、藤肥前前司経久は高辻宮姫や、その家の関係者であった、知り合いであった可能性が高く、その周辺を探ってみることにしたい。

①まず、高辻家という菅原氏の流れに乗る家がある。

②高辻には、亀山天皇の典侍局が産んだ【高辻宮】がいるようだが、それは藤肥前前司の時代よりも後の時代となり、当てはまらないようにも思える。

③もう一つ【高辻斎宮】という女性がいる。粛子内親王の事だそうである。
1196年生まれというので、出石神社の高辻宮には当てはまりそうな年代となる。
『建暦元年(1211年)4月19日帰京、その後の消息は不明。』とwikipediaにはあり、15歳当時以降の消息が不明となっている。その当時はまだ姫でもあり、可能性は高いかもしれない。
しかし、1201年という事はまだ5歳の時に新宮群行とある。そのように小さなころから?と疑問が残る。

wikipediaによると、
『群行(ぐんこう)は、伊勢神宮の斎宮(斎王)の京都から伊勢国の斎宮御所への下向、またはその発遣の儀式、群行の儀(ぐんこうのぎ)のことである。』





 

後鳥羽天皇の後宮:源氏(兵衛督局・加賀内侍) - 源信康女
第二皇女:粛子内親王(高辻斎宮、1196年 - ?) - 伊勢斎宮

上記の中世文学研究の中に登場する斎宮頭の源顕兼。
源顕兼の母親は石清水別当光清の女 である。



【『今鏡』では、「光清姫」として御所勤めを始めた美濃局の衣裳が華麗に描かれていて、娘の出仕に万全を期して臨んだ光清の意気ごみが感じられ、その財力は、当時の宮中を凌駕しました。】(八幡の歴史を探究する会・石清水八幡宮 唯一の宮寺への道 大田 友紀子 著)

顕兼の祖父となる石清水別当光清。
その娘 美濃局 には、聞き覚えがある。

そこから今度は菅原氏との関係が出てくるのである。
「菅原在良の娘」が石清水別当光清の妻であったのだ。

しかも、在良の母親は「藤原実方の娘」であり、熊野別当家とのつながりが見えてくるのである。確実ではないとはいえ、泰救や長快の父であったかもしれない藤原実方....と言われている。

さらに以前ブログ記事に書いたのは、石清水八幡家と土岐氏との関係であった。

土岐光信の息光重=源仲政の養子
そう仮定し、進めていく。
光重の姉か妹に「石清水八幡宗清法印室」がいる。
つまり、土岐氏から石清水八幡に嫁いでいるひとがいる。
・・・「美濃局」が文書に見えるのである。
美濃局紀家子(光清女)  道清自幼少為美濃局猶子


前出の(八幡の歴史を探究する会・石清水八幡宮 唯一の宮寺への道 大田 友紀子 著)には、以下も記されていて、このブログの部分に当てはまると思う。

光清の嫡男である田中家祖・勝清の孫の道清(1109~1206)は美濃局の猶子となってその遺産を子孫に伝えました。その息第34代別当宗清は、建保4年(1216)、勝清・慶清・道清3代の先師の墓所脇に一堂を営み、その後、子息第39代別当行清が唐招提寺の聖守を開山として伽藍を整備して「法園寺」を創建しました。】


光清ー道清(美濃局の猶子)ー宗清-行清(石清水宮別当家・田中・善法寺家)

wikopediaの紀氏には以下のように書かれている。
『紀氏の流れをくむ末裔として、田長流の石清水八幡宮別当家(田中・善法寺家)の他、下野に下向した清主より出たとされる下野紀党(益子氏)、長谷雄流を称する池田氏・信太氏・細見氏・大井氏・中村氏・品川氏・春日部氏・堀田氏・浦上氏・安富氏・高安氏などが挙げられる。また、紀伊国造家は天元年間に男子が途絶えたため、長谷雄の曾孫行義を嗣として以降朝臣姓を称した。なお、中世以降の紀氏には、橘朝臣姓を仮冒した者が多いと言われる。』

紀氏と深いつながりを持つ石清水八幡宮別当家である。
此処で、九里との接点がありそうなのは、宇都宮氏と関係のある益子氏や、大井氏、だろうか。
経久の父経任が橘次を名のっていた事とも関係が出てくるのかもしれない。


まだまだ分からないことだらけではあるが、調べると 丹波国河守荘・因幡国冨城郷(国衙在庁官人)・「但馬国菅荘地頭・出石神社の荘官」は、何れも九里太郎であったかもしれない。

更に深江蓮忍が肥前にいたことが藤肥前太郎経久であったならば、、、、と、気にかかっている。

因みに、九里太郎は、九里太郎左衛門経久 蓮忍入道 である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

但馬国 菅荘は八幡宮の領地であった。

2025-01-20 | 九里バラバラ情報

上記のページに八幡宮の別宮のことが載っている。それを読んで、石清水八幡宮と九里氏につながりがあるのかどうかを私なりに検証してみた。



1158年には菅荘(すげ・しょう)は立荘されていたと思われ、さらになぜ鳥居禅尼が関わるようになったのかを探ってみた。

それには熊野別当家である湛快が関係する。
平忠度の父、平忠盛は但馬国を与えられ…とある。
忠度の妻となった一人は湛快の娘である。もう一人は良岑高光の娘 である。

Wikipediaからだが【承安2年(1172年)、湛快は別当職を甥で権別当の行範(新宮別当家当主)に譲って隠居し、承安4年(1174年)に死去した(熊野速玉神社所蔵「熊野別当代々次第」)。享年76。】とあるように、行範が跡を継ぐ形となった。行範の妻が鳥居禅尼である。

鳥居禅尼は、菅荘の南の多々良岐の地頭となったのも、このことと関係があるのだと思う。






熊野別当家
良峯氏の原高成の孫にあたるのが良峯高光であるが、
後世から想像するに両家とも関係の深い九里氏である。

特に、良峯氏の出となる前野氏は、佐々氏となり、我が家系と養子縁組が少なくとも二回はあり、系図に記載もある。

熊野別当家と高須家も結びつきがあり、和歌山の九里家とその高須家との婚姻関係と養子縁組がある。

どちらも関係するのである。

また、貞行名の地頭を務めていたと思われる源慶豪の甥は、小坂を名乗る。
そして、良峯氏にも小坂氏が存在する。







この後の時代、信長・秀吉の時代と此の但馬国と良峯姓前野氏とのつながりは続くようで、調べていても面白い!(つづく)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇部神社(うべじんじゃ)の近くに冨城郷、出石神社の近くに菅荘、大江山麓に河守荘

2025-01-19 | 九里バラバラ情報

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【紀伊国佐野荘】と鳥居禅尼 その後の調べで、思いもよらない展開が。

2025-01-19 | 佐野氏
源為義女鳥居禅尼(熊野別当行範妻) 紀伊国佐野荘

鳥居禅尼は、佐野荘以外の【但馬国 菅荘】にもかかわっていた形跡がある。




その菅荘の地頭として大田文に二人の名が挙がっている。
但馬国菅荘
藤肥前太郎経久
多々良木(岐)孫太郎長基






沙弥蓮忍、蓮忍入道(いずれも九里太郎)の居たと思われる丹波国の河守荘と因幡国の冨城郷の間に位置することになる但馬國の菅荘。

地図をよく見ると、菅荘の近くに伊福部宮や、日置郷、雀岐荘、水谷大社、がみえる。

【伊福部宮】九里の祖の太郎経久は、因幡国の宇倍神社で伊福部氏のすぐそばに居住していた。(冨城氏)

此の菅荘の藤肥前太郎経久九里太郎経久(冨城蓮忍入道)と同じ人物である可能性もあると思う。

そうなると肥前国高来郡の深江蓮忍が経久であることを示唆しているのかもしれない。(肥前という名乗りより)

日置郷の日置は、測量士であった日置を思い起こさせ、【雀岐荘】との関係も、佐々貴山君とつながっていたと思わせるに十分なのだ。

日牟礼神社と奥嶋と高島郡の日置神社のラインを思い出させる。
これは日置氏が佐々貴山君と共に居た痕跡であるかもしれないとさえも思う。

更に水谷には大江氏がいた。(水谷重清)

延暦3年(784年)
















栗の樹とも関係がある。栗岑という地名だろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿曽沼次郎広綱か? 阿曽沼四郎広綱か? 次郎がもしも広綱の息の事であったなら?の場合。

2025-01-16 | 佐野氏





錯綜しているが、次郎がもしも広綱の息【親綱】のことであったならば、四郎広綱は佐貫と阿曽沼が同一人物となってしまう事になるかもしれない?

解明できない人物のようだ。

もしも佐貫四郎=阿曽沼四郎となると、蒲生に来た人物も阿曽沼でもあった事になる。

また、新たな発見が出てくるまでは、このまま保留としておこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ありがとうございます! 十年経ちました。

2025-01-15 | 美濃源氏

飽きっぽい私が、十年も同じことにこだわって調べ続けていたなんて信じがたい事である。

これも、ひとえに読者の方々がいらしてくださったことや、コメントを入れてくださったことなど、
「一人で書いてはいるが、一人ではない」ことがなせる業であったと思う。

本当にありがとうございます!!
まだまだ【九里氏】の解明とまでは遠く及ばずにいるので、続けていこうと思っています!

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします~~~♪


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿曽沼広綱と佐貫広綱 (2) 同一人物の説あり だが…

2025-01-11 | 佐野氏
前回「別人であることがはっきりした。」と言い切った後に出てきた一冊の本





「決め手はないが、同一人物である可能性がある事」を示唆されていた。

まぁ、プロの方々でも難しい箇所のようなので、アバウトにしている方が賢明であるのかもしれない。

…という事で、駒を戻して、一応同一人物の可能性は否定しない‥‥という方向に転換して 調べることとしたい。


さて、「佐貫」という名に聞き覚えがあった。本の記述とは別で、私の記憶の中の『佐貫』なのだ。

武蔵にも、下野にもその名はあるそうなのだが、思い出したのは上総国の佐貫城であった。

片岡経春(常春)が居城していた?とか、義経を連れて行ったとか?
もう一度調べてみるとそこに佐貫広綱がいるのではないだろうか?

範頼の配下に居て、後に義経の配下に移ったようであるが…(後日述べる)



系図では阿曽沼広綱と佐貫広綱に二代分の開きがありそうに見えるのだが、
佐貫広綱は頼朝の時代から頼家、実朝、間で活躍してるようなのだ。

という事は、此の系図の佐貫広綱よりの位置よりも前の世代に活躍しているのではないだろうか?

1219年の源実朝が殺されたあの八幡宮拝賀 にも参列していたことが吾妻鑑で分る。

という事は、佐貫広綱と阿曽沼広綱と同世代という事になりそうなのである。
初めは佐貫広綱として活躍し、後に阿曽沼を称したのだろうか?

そのスタンスで調べていたら、文治五年七月十七日の阿曽沼広綱と佐野広綱の両名が同じ文書の中に発見できたのだ。(1189年)

つまり、別人であることがはっきりとしたのである!!!



阿曽沼次郎広綱 と 佐貫四郎広綱!

・・・という事で、すっきりとした。

先に進めていこう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする