九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

和歌山の九里氏に地理的に近い佐野氏(新宮) 紀伊国牟婁郡佐野庄・佐野成俊の年代は?

2024-12-17 | 九里バラバラ情報






上記の姓氏家系大辞典の37の項によると佐野有綱の六男廣高の曾孫あたりに1194年があったということだろうか。

1194年い熊野に移った佐野氏という事は、成俊は1200年生まれと思っていたが、もっともっと前の年代に生まれたはずである。

そこで佐野有綱を調べると、1186年に老体で‥‥とある。
という事は、1100年代初めに生まれているのではないだろうか?
更にwikipediaの佐野氏の系図には、以下のように有綱と成俊が兄弟として載っている。
成俊の娘が基綱の妻となり、基綱は婿養子となっているようである。



下記の系図は田原族譜からのものだが、こちらでは成俊の息に有綱となっている。しかも享年十九



尊長の娘の息忠廣とは、年が全く違うようで、何が本当なのだろう。

田原族譜を見ると成俊の註に「実園田成実子」とある。
園田成実とは…

足利太郎成綱・家綱の弟であった。園田小倉氏祖。


何処にも近江国の佐々木氏との接点は書かれていないので、たぶん別人と思われる。

が、此の【佐野】というキーワードはかなり秀郷流の中でも九里氏に近いかもしれない。今までは、小山氏と思って調べていたが、九里龍作は新宮生まれである。

しかし、龍作は実は高須氏である。
其の祖は、大江氏だ。
だが、何度か高須氏の中に九里の娘が嫁いでいる。

九里には、本宮の前房の僧が居たり、熊野には深いご縁があった。
御師になっていた者もいた。



この本に高須氏と九里氏が登場していた。
高須富雄 九里幸清 である。
二人は、この熊代繁里の門人であったようである。





五味家の方は、九里のお墓を守って下さっていたそうである。ありがたく思っている。
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小堀氏は『秀郷流佐野氏の出』と以前書いたこととつながる。

2024-12-12 | 九里バラバラ情報
当ブログ内を【佐野】で検索してみると、
小堀氏は秀郷流佐野氏の庶流と書いていたことが分かった。
今年の9月17日の記事である。


姓氏家系大辞典では、





此の7の佐々木氏流と8の藤姓江州佐野氏が関係しそうであると思う。

同書、22は下に貼ってある。


佐野氏の成俊は近い存在であったのかもしれない。木村成俊ではなさそうである。

佐野という名のついた神崎郡と浅井郡の場所を確認してみた。
神崎郡は、伊庭氏のお膝元である能登川の近くである。
こちらは、伊庭氏の被官であった九里氏と関係がありそうな場所である。




浅井郡の佐野(二枚目の地図で赤い点で囲まれている場所)は京極氏のお膝元であったかもしれないと思う。
(小堀氏の居た小堀町とも近い…↓三枚目の地図赤い枠は小堀町)






何か、つながりがありそうに思えてきた。

近江国には、秀郷流が荘園管理をしていたと思われる節があったではないか。
この能登川付近の佐野に近い処では、豊浦庄など秀郷流の時代があったのではないだろうか?

近江国の佐々木氏が力を持つ以前から秀郷流は近江で活躍していた時代が長くあったのだろう。(田原藤太の活躍に始まり…)


その後、平安後期から鎌倉時代には、秀郷流と佐々木氏も近い関係となったのだと思う。たとえば、佐々木経高が、秀郷流や宇都宮氏のごく近いところで育てられていたなど…









安蘇郡佐野庄の場所である。↓





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「二位法印尊長の娘」の息【忠廣】(新羅三郎とあるが…)

2024-12-12 | 九里バラバラ情報
前回の記事にも登場した下記の系図に成俊の兄にあたる「忠廣」に新羅三郎と記載があり、しかも母親が二位法印尊長の娘であったことが、とても気になった。

聞き覚えが或る【尊長】である。


尊長の父は一条能保である。
其の娘という事なので、尊長の義兄弟が「高能、信能、実雅、尊長(本人)、中院通方室、西園寺公経室、九条良経室 、後鳥羽天皇乳母大納言三位保子 」であり、尊長の娘から見ると叔父や叔母がゴージャスである。

藤原秀康や、熊野別当家の行忠らと上皇側として承久の乱で活躍していた、修験者としても力を持っていた尊長なのだそうである。(和歌山県史より)

wikipediaによると
『延暦寺の僧であったが、その智謀と武芸を認められ、後鳥羽上皇の側近となる。院近臣に加えられた尊長は法勝寺及び蓮華王院の執行に任ぜられ、長淵荘、宇土荘をはじめとする両寺の寺領の支配を任される。上皇の鎌倉幕府打倒計画には首謀者の一人として参加。承久3年(1221年)の承久の乱に当たっては、義兄弟ながら親幕府派の筆頭と目されていた西園寺公経父子の逮捕・監禁に当たるなど、上皇の片腕として行動する。幕府軍との戦闘においては、兄弟の一条信能とともに芋洗方面の守備に就くが、敗戦が明らかになると乱軍の中を脱出し行方不明となる。』

尊長の妻は藤原親信(坊門親信)の娘である。
尊長は1227年迄生きていたそうである。

一条能保は1147年生まれのため、尊長は1167年前後に生まれたと思われる。一条高能が1167年生である。義兄弟の実雅は1196年生なのでかなり幅があるが、仮ではあるが1167年前後と考え、上の系図の尊長の娘を1187年生と仮定すると、その息は1200年以降であろうと思う。

つまり、この系図内の【忠廣】は1200年前後に生まれた人物となるようである。成俊の母は尊長の娘とは限らないとは思う。成俊の註にだけ佐野養子と書かれている。

一条能保の家では、中原政経が働いていた。
尊重の娘のことと関係するかどうかは不明であるが、能保・高能が歿した後に『三左衛門事件』がおこり、一条能保に仕えていた後藤基清、中原政経、小野義成 が捕らえられている。
その時に、居心地が悪くなったであろうと思われるある人物が、佐野家に尊長の娘を託した、または子どもを託した可能性はないだろうか?

後藤氏も中原氏(久経と政経に血縁関係があったとすると)も、秀郷流である。佐野氏も秀郷流である。



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木村の祖となった成俊は、中原ではない成俊であったという事も考えられるのではないか?

2024-12-07 | 九里バラバラ情報
源経方の息が(養子であったかもしれないが)中原であったとは限らない。
夢中になっていると、中原以外の事を忘れてしまう。。。

紀氏で、木村と名乗り…となっていく「成俊」を探し出したい。

成俊を調べてみると、秀郷流の足利氏の中に佐野庄司となっていた成俊がいた。
年代的には、この佐野成俊の方が中原成俊よりもぴったりとくるかもしれない。定道の息のあたりの年代かと思われる。

前回の記事の【中原成俊】が、経方と関係がある人物かどうかの疑いの目を以って調べれば、調べるほど暗雲が垂れ込めてくる‥‥

木村氏・佐野氏を調べてみて、佐々木氏との接点などをチェックしてみようと思う。


佐野庄司の成俊も養子であった可能性もあるので、益々複雑である。 
                    ↓ 佐野養子 とある。







難しい… 難しすぎる…
対馬冠者・甲斐権守の検索もなかなか思っているような情報は今のところ出てきていない。

佐野氏は秀郷流、そこから繙けるか???

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もう一度【伊香三郎成俊】を考える(1)

2024-12-07 | 九里バラバラ情報


この本では源経方と二男行定、三男定道、が養子父子関係であったとある。

一方系図では成俊が経方の息となっている記載も、また曾孫となっている記載もある。(二人の成俊がいたのかもしれない。)

系図研究の基礎知識 近藤安太郎著には『成俊は対馬冠者と号し甲斐権守・神主となった。』とある。





いろいろな系図で、年代も確定せずに戸惑う。

近江国の伊香郡にいた中原成俊(伊香三郎)は、前から数えても、後ろの年代から逆算しても1000年あたりの人物に思えるのだ。中原成俊が二人いた可能性もある。

平成俊も、大江成俊も、木村となった紀成俊もいるので、それぞれが実在していたのかもしれないと疑いつつ進めなくてはいけないようである。

さて、
木村氏にとっては沙沙貴神社神官に戻った形になるという。

沙沙貴神社はもともとは紀氏が守っていた神社であったのだ。
『常楽寺城は琵琶湖の海上ルートを押さえる目的で築城されたと考えられ、代々、佐々木氏の源流狭々城山君の支流で沙沙貴神社の神官であった木村氏が城主であったとされる。(城郭探訪さん)』
https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/9f7e52a24dae8fce866d1e2c74dce39e

古代にまで遡ってみると、狭々城山君 倭帒宿禰  山部 置目 などがみえる。その辺りのことは、また改めるとして、

今回はこの紀氏から出てきた成俊と伊香郡の伊香三郎成俊(中原)が同一人物かどうかを調べてみようと思う。

資料上では、中原成俊(1124年 越中守)と【伊香三郎】(中原成俊)を調べようと思う。


寛治5年(1091年)



康和五年(1103年)

天治元年(1124年)


保安元年(1120年)








此の成俊の活動期は 1091~1124年あたりと思う。







今回、この辺りの年代を調べてみてわかったことを書いていく。

まず、親子と兄弟の年代が、ある系図では間違っているようである。

経方から書いていく。
経方は永久三年 62歳で没している。(1115年 )… 1053年生
のように、没年から逆算しながら進めていく

    源経方 1053年生ー1115年没
     季定(為俊)1081年生-1131年没 
     行定 1084年生ー1139年没
     成俊 1074年生(その辺りか?)ー活動期 1091年~1124年
     定道 1109年生ー1171年没
     秀義 1115年生ー1184年没

つまり、定道の息が成俊ではないことになる。

成俊が経方の息であったとすると経方はかなり若い頃となる。
季定よりも前に生まれていた成俊となると思う。

定道は秀義と同世代となる。任誉が秀義の継父となっている系図もある。

もう一つ「俊」という一文字は何処から来たのであろう。
季定の初名も為俊と「俊」がついている。
伯父にあたる経方の弟の経俊かもしれない。(日野冠者)

紀氏の母方の祖父盛宗は1069年に下野守となっている。
紀盛宗の娘を母とする紀行定と成俊は兄弟なのだろうか?

一つの系図では行定の息に定道がいるとある。これが真実に近いかもしれない。紀氏の流れにある。




経方ー成俊の成俊は中原成俊でもあるのではないだろうか。
近江国御家人井口中原系図内の成俊の年代とは違っているので、伊香三郎ではなさそうである。

しかも上の系図では行定の息に家行がおり、家行は愛智郡の出で、初名行俊と「俊」がついているあたりも、中原と関係がありそうでもしかすると紀氏と中原氏との婚姻か養子関係があったのではないかと思わせる。

此の家行の名前は、中原の経行・成行を思わせる。途中で改名しているあたりも紀氏からの養子縁組があって中原氏に入ってきたのかもしれない。



経方は、伊香郡・愛智郡の中原氏と結び、また、下野の紀氏と関係も結んで佐々木荘のみではなく、広く力を及ばせることに注力していたのではないだろうか?

何が正解かはわからないが、定道は「成俊の父親ではない」ことがはっきりとしたと思う。
また、中原成俊は二人いて、一人は1000年生まれ、もう一人は1070年代生まれと思われる。
もしくは、系図の位置のずれかもしれないが…


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源経方の周辺(2) 経方の妻であった紀盛宗の娘 と 宇都宮、因幡、がヒントではないだろうか?

2024-12-02 | 九里バラバラ情報
経方の周辺を見ると、

妻の一人は源義光(新羅三郎)の娘
もう一人が、下野守紀盛宗の娘 である。

此の紀氏は、下野という土地柄もあり、宇都宮氏と密接な関係のある紀氏と思われる。
しかも、紀氏といえば、源頼政の弟の紀氏(池田)に養子に入った泰政もいた。
Wikipediaの池田氏のぺ―ジには以下のようにある。

【源平合戦の頃に、源頼政の弟源泰政が池田氏の養子に入り、泰政の子の泰光が摂津豊島郡を時景(摂津池田氏)、美濃池田郡を泰継(美濃池田氏)に継がせた。】

さらに頼政には土岐氏に通じている弟が二人いた。一人は源光重である。
もう一人は、源国政(山県国政)

重大なことは、この源(山県)国政の母は、

宇多源氏佐々木党 木村兵部大輔定通女

と【木村定道の娘】であったことだ。
定道とは、経方の孫にあたる。経方ー行定ー定道 である。

という事は、経方の周辺を見ると、

紀氏とも、土岐氏ともつながりを持つ源頼政とその父仲政との縁。

下野守盛宗とのつながりと、宇都宮氏(中原氏でもある)との縁。

宇都宮氏(中原氏)と藤原秀郷流との縁。

源義光(新羅三郎)とその裔との縁。

そして地元の沙沙貴山君氏との縁。
沙沙貴山君のwikipediaには「孝元天皇の皇子である大彦命を始祖とする阿倍臣一族とされる[1]。平安時代まで蒲生・神崎両郡の大領として近江国(現在の滋賀県)に勢力を持っていた 」とある。
この大彦命を調べていくと、沙沙貴山君(佐々貴山君)も摂津の国とつながりがあることが分かった。摂津には長田神社があった。

更にもしかして、
後に中原蓮忍(九里太郎)と常忍が、因幡国の在庁官人となっていることからも見ても、
経方と同時代に登場している伊福部氏か…ともいわれる「服経方」(長田経方。資経の父)も此の源経方であるかもしれない可能性を感じるのである。




榎本(小山氏流) ↓






源頼政は、熊野へ赴き源行家に話に行ったと記憶している。
その辺りも、此の榎本などにつながってくるのかもしれない。



ちょっと、手が届きそうな気がしている。
今回こそ、九里氏の源泉に近いのではないだろうか??


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源経方の周辺(1) 二男 行定 木村氏と紀氏 そこから繋がる 日神崇拝

2024-11-30 | 九里バラバラ情報
義経(章経)ー 経方 ー季定(初名 為俊)…新羅三郎の娘が母
        経方 ー行定(下野守紀盛宗の娘が母)佐々木宮神主
【紀盛宗】は、1069-1071年あたり、下野守となっていたようである。
しかも宇都宮氏との関係もあったようなのだ。今回の収穫である。

紀伊国の日前













この【神々の間奏曲:儀礼・芸能・文学】小林茂美 著作 桜楓社
の本の中には、木村と紀氏・宇都宮氏・小野氏・日前神社・国懸神社など、今までバラバラに調べてきたことが繋がってくるような事柄が出てくる。熊野にも繋がってくるのだ。まだ見つけたばかりではあるが、じっくりと読みたい本である。

日神崇拝は、銅鏡から来ていると思う。

*****

さて、今回もう一つ
愛智郡の季仲が養子として入った先の新宮経頼は、源経頼とは別人であることが判明した。(源経頼は1039年に歿している。)新宮経頼と愛智郡の中原季仲のことは堀河天皇在位中のことであった。




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中原久経に関する新情報 吾妻鑑標註 より

2024-11-28 | 九里バラバラ情報



もしも源経頼の子孫が久経であったなら、嬉しい。
Wikipediaではその源経頼の兄が成頼という事になっているが、宝賀先生の著書では(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会) 扶義の二人の息、兄経頼 弟成頼 となっている系図もある(尊卑分脈)。
また亀井家譜の系図の註には『権記』成頼の没年(長保五年 1003年)があり、それによると尊卑分脈(康平七年 1064年)の成頼の没年は違う事になる。

権記の記載の成頼が【源成頼】で佐々木氏の祖と言う事になると、28歳で亡くなった人物となる。
(この権記が正しければ、佐々木氏の祖の成頼とは異名異人となる…とのことだ。)

その後に経頼は1018年より兼務で近江守になっている。

扶義ー経頼・成頼ー義経(初名章経)ー経方 となる。

ここからは私の仮の想像であるが、
義経が3歳の時分に父であった成頼を亡くしたため、経頼が義経と兄弟(宗頼・成経)を育てた可能性も感じた。(あるいは、前述のようにもう一人の成頼がいた。)

また成頼の系に佐々木経久がいる。「経」がついている。
この人物は、経頼の流れを背負っているのではないだろうか。

其の経方の他の系図を見ると




こちらの系図では、経頼ー章経ー高経ー高信ー経方…となる。
これでは、代が多すぎではないだろうか?

私が思い描いている年代は、

成頼 長保5年(1003年没)
経頼 長歴3年(1039年没)
義経(章経)1021年ー1082年(永保元年没61歳)…1000年生まれの説もある
経方 1053年ー1115年(永久三年没62歳)
季定(為俊)1081年ー1131年(天承元年没 50歳)
秀義 1111年ー1184年(天暦元年没 73歳)

である。

以前因幡国の服経方(長田経方)を調べていたが、同じ時代である。

今、思いつくことを書き留めておいたので、後々役に立つ時が来るかもしれない。

もう一つ、長治二年1105年の資料がある。これは、経方52歳の時である。



*****


上記のアドレスにある情報は、貴重なので、下記に貼っておく。
私は、中原久経が中原親能と近い場所で育ったのではないかと思っている。だからこそ、源頼朝に呼ばれたのだと思う。

中原親能 ( なかはらちかよし)
大友能直の養父

 1143-1208 鎌倉時代初期の京下りの幕府文官御家人。幕府 公文所寄人(くもんじょよりうど)、 公事奉行人(くじぶぎょうにん)、京都守護、 明法博士(みょうぼうはかせ)、美濃権守、式部大夫、 掃部頭(かもんのかみ)、 穀倉院別当(こくそういんべっとう)、正五位下、法名 寂忍(じゃくにん)。康治2年(1143)生まれ。承元2年(1208)12月18日没。享年66歳。出自については諸説あり。明法博士中原 広季(ひろすえ)の子で、 大江広元(おおえのひろもと)と兄弟とするもの(『 尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』中原系図)、右京大夫藤原 光能(みつよし)の三男であるが、外祖父(母の父)中原広季の養子となったとするもの(『 大友家文書録 』)等あり、定説がない。 大友 能直(よしなお) の養父。
〈生立から関東下向まで〉
 親能は何かの事情で、幼少のころ相模国住人に養育され、そこで生長した。湯山学は、相模国足柄上郡の 波多野経家(はたのつねいえ)の 所領(しょりょう) 大友郷 ではなかったかと推定する(『地方史研究』第144号)。『 玉葉(ぎょくよう) 』には 源 頼朝(よりとも) と「年来の 知音(ちいん)」とか「甚深の知音」とある。親能が生まれた康治2年ころ、源 義朝(よしとも)は鎌倉に居り、4年後の久安3年(1147)に 熱田大宮司季範(あつただいぐうじすえのり)の娘との間に頼朝が生まれた。義朝の次子 朝長(ともなが)は波多野 義通(よしみち)の妹との間の子で、彼は相模国松田郷に居館を構えていた。親能と頼朝との交友関係は、監視つきの伊豆 流謫(りゅうてき)中は不自然で、それ以前の幼少時代の事であろうという(湯山学説)。これに対し瀬野精一郎は流人時代と主張する。
 親能はいずれのころからか上京、中納言源 雅頼(まさより)の 家人(けにん)となり、 後白河院(ごしらかわいん)の 院仕(いんじ)として仕えていた。治承4年(1180)8月の頼朝挙兵の4か月後の12月4日夜半、宿直中の主雅頼の家から逐電した。頼朝との親交関係を探知して、平 時忠(ときただ)の命令で讃岐少将 時実(ときざね)を派遣して親能を召し尋問しようとした平家の動向を察知して、逃亡したのである。頼朝の許に走って彼を 援(たす)けたと推定するが、瀬野精一郎は確証がないと述べている。
〈平家討伐に活躍〉
 『玉葉』に、親能を「漢字を読まざる人也」と評しているのは、東国で育った生活環境が就学の便を与えなかったことを示し、これが京都の公家生活を断念し、頼朝の許に走らせた原因であろう。寿永2年(1183)彼は義経の軍勢と共に西上して伊勢に入り、翌元暦元年(1184)正月入京、旧主雅頼宅に止宿、頼朝代官として万事を奉行した。2月の 一の谷の合戦 では、 搦手(からめて) 源 義経(よしつね) 軍に属し、同月16日後白河法皇の使として、頼朝の上洛を促すため鎌倉に下り、4月29日平家追討軍の奉行として上洛。まことに席の温まる暇のない活躍である。同年10月公文所 吉書始(きっしょはじめ)には、大江広元が別当、 寄人(よりうど)には中原親能 藤原 行政(ゆきまさ) 藤内遠元(とうないとおもと) 甲斐四郎 大中臣秋家(おおなかとみあきいえ) 藤判官代邦通(とうのほうがんだいくにみち)が任命された。ただし9月2日平家追討のため京都を立って西下した 源 範頼(のりより) 軍には、平家追討奉行として親能も従軍しているので、それは彼の出陣中の事である。厳寒中食糧 兵船もなく進退窮した範頼軍は、 緒方 惟栄(これよし) の提供した82 艘(そう)の兵船によって渡海し、九州の平家残党を平定し文治元年(1185)4月帰京した。
〈大友能直が中原親能の養子に〉
 文治元年4月1日波多野経家が 鎮西(ちんぜい)から帰東したが、彼を中原親能の 舅(しゅうと)と記している。「 波多野系図 」によると経家の次女が中原親能の妻となっており、その妹が 近藤( 古庄(ふるしょう)) 能成(よしなり)の妻となっており、その所生が大友能直である。能直の父能成は早世したか、経済的 社会的に微力のためか、歴史の表面に出ない。こうした関係からか、頼朝の信頼 篤(あつ)い中原親能に 托(たく)するのが、武士としての将来性に最も適しているとされたのではなかろうか。能直が「 無双(むそう)の 寵仁(ちょうじん)」として頼朝から愛されたのは、中原親能を介せずには理解することはできない。
〈京都守護 政所(まんどころ)公事奉行 鎮西奉行〉
 文治2年(1186)京都守護に任じて上洛、建久2年(1191)政所の公事奉行に任じられた。その後 天野遠景(あまのとおかげ) が建久4~6年(1193~95)の間に 鎮西奉行 を解任され、その跡に中原親能と 武藤資頼(むとうすけより) が任命され、その鎮西奉行職が各国 守護 職(しき) に分化し、親能は豊後 筑後 肥後の守護職を兼ねたらしい(石井進説)。正治元年(1199)頼朝が死し、政子が将軍独裁を廃し北条 時政(ときまさ)ら13人の合議制としたが、親能はその一人に選ばれた。この年、頼朝の娘三幡が死んだが、 乳夫(めのと)である彼は入道し寂忍と号した。元久元年(1204)3月、親能が「鎮西 乃具(ないぐ)(年貢)」の勘定を命じられたのは、在職の証拠ではなかろうか。ただし瀬野精一郎は、彼の鎮西奉行は職権行使の裏付けがなく、これを否定する。建永元年(1208)ころ所領 所職(しょしき)を大友能直に譲り、承元2年(1208)12月京都で死去した。
 参考文献 瀬野精一郎『鎮西御家人の研究』 石井進『日本中世国家史の研究』 渡辺澄夫『増訂豊後大友史の研究』
[渡辺 澄夫]


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源光行の周辺 (6)土岐光行 と 良峯氏・原氏(稲木荘or 稲置荘)

2024-11-20 | 九里バラバラ情報
土岐光行が、仮に富木常忍の父だとし、五男となると光定になってしまう。
庶子の五男であったのだろうか?

分らないことだらけだが、ともかく此の土岐光行は良峯氏の一族の領地であった稲木荘に入り、後に光行の子孫が【稲木氏】となったようである。






我が系の丹波国の柏原藩の九里氏が良峯姓前野氏と懇意であり養子縁組も二度あった事、
尾張国の良峯姓原氏(上総介広常の妹?娘?婚姻関係)、上総介広常の娘が千葉胤綱の母であった事、千葉氏と富木常忍、と大きく周囲を見渡すと、
この土岐光行の周辺と重なる部分がある。

富木常忍が近江国の中原の蓮忍入道(九里太郎)と共に因幡国に赴いていたことは確かであるので、三人の光行の中でも有力候補かもしれないと思う。

どの源光行にも九里氏と接点となる事柄があるのだけれど、

今のところ、九里氏の祖である中原冨城蓮忍・富木常忍に近いと思われるのは一番土岐光行、二番南部光行、三番源氏物語研究者の光行、である。

この良峯一族との関りがあった土岐光行。もう少し、調べてみたいと思う。

(良峯一族から土地を奪っただけかもしれないが、婚姻関係があって自然に移った可能性も否定できないと思う)

良峯=原⇒上総介広常の妹か娘が妻
千葉胤綱の母は上総介広常の娘胤綱娘と光行が結ばれていた‥‥と仮定すると、あり得ない話ではないと思う。


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源光行の周辺 (5)土岐光行 は 良峯氏との関係がある。

2024-11-16 | 九里バラバラ情報
源光行の五男か?とも言われている富木常忍だが、
其の源光行、富木氏と関係がありそうな光行と限っても、その時代に少なくとも3人はいたのである。

源氏物語の研究者であった源光行(おじは飯富氏)東国にやって来ていた。
南部光行は甲斐源氏であり、やはり当時鎌倉幕府の御家人となっていたと思う。
しかも、室町から戦国時代の事例ではあるが蒲生氏と婚姻関係がある。また、野田氏を名乗っていた者もいたのである。(東桜谷)

次に土岐光行。
富木常忍は、蓮忍と共に「因幡国の冨城郷」に居住し、在庁官人であったと言われている。
接点がありそうで、なかなかはっきりとしないのであるが、今回良峯一族との関係が見えてきたのである。

これは、常忍が生まれる14年前の事である。


こちらも鎌倉幕府の御家人でもあった事がわかる。

つまり、源光行3人とも頼朝とつながりを持ち、同時代を生きていたことになる。

常忍は、千葉氏の執事的立場として仕えていることから、土岐光行の可能性も大きいかもしれない。(下記に千葉氏とのつながりがみえる。)






見極めが難しい。…が、千葉氏との関係を見ると土岐光行が富木常忍に近いような気もしている。

良峯一族の原高春や高直が持っていた領地の主権が土岐氏に移っていったことも、婚姻関係等何等か関係があったのかもしれない。
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