玉葉 建久三年二月
十七日辛庚申晴。晩に及び院に參る。昨夜殊夜の外辛苦し給ふと云々。その後落居すと雖も猶快からずと云々。右大臣《兼雅》に謁す。密に御処分の事を語る。北面の下臈等競ひて新立の荘を立つ。甚だ不便。然れども力及ばずと云々。大途公家の御沙汰と云々。尤も珍重なり。子細故らにこれを記さず。次に參内し宿し候ふ。明晩行幸に依りてなり。
十八日辛酉雨下る。終日止まず。未明法皇の宮に行幸す《六条西洞院亭》。蓋し御悩を訪はるるなり。上皇、母后等の病により臨幸の例、頗る以て邂逅。
…略…
この外所見無し。鳥羽院の御悩の時、不快の例と称し行幸無し。遂に以て事あり。安元建春門院の御事、又行幸無し。大事出で來たる。仍つて余これを案ずるに、行幸あり。吉例あり。不吉あり。行幸無し、近例兩度皆不吉なり。仍つて寛治永承等の吉例に就き、この行幸を申し行ふ。法皇太だ悦び給ふと云々。寅の刻御輿を寄す《鳳輦》。…略…寝殿の北面を以て御在所となす《殷富門院の御座、二棟の北面本の如し。同南面行幸の御路なり。仍つて几帳を出さざるなり。》…略…數刻御對面小しく御遊あり《主上御笛、女房安芸箏を弾ず。法皇并びに親能、教成等今様、院の御音例の如し》。
申の刻還御の後、丹二品法皇の御使となり參上し、申さるる事等あり《余院の御氣色に依り、御前に候ふ。故らに詔旨を承る。女房の示すに依るなり》。白川御堂等、蓮華王院、法華堂、鳥羽、法住寺等皆公家の御沙汰たるべし。自余散在の所領等、宮達に分かち給ふ事等あり。聞し食し及ぶに随ひ、面々御沙汰あるべしと云々《この外、今日吉、今熊野、最勝光院、後院の領、神崎、豊原、會賀、福地等、皆公家の御沙汰たるべし。但し金剛勝院一所、殷富門院領たるべしと云々》。この後処分の躰、誠に穏便なり。鳥羽上皇は、普通の君たり。而るに処分に於いては、尤も遺恨、併しながら美福門院に委謝せらる。法皇の崩後、女院公家に分献せらるるなり《今の法皇の御宇なり》。後鑒の覃ぶ所、法皇の御恥なり。而るに今の法皇遺詔に於いては、已に保元の先跡に勝れたること百万里。人の賢愚得失、誠に定法無き事か。夜に入り余束帯を改め着て又參入す。重ねて又院の御方に渡御。程無く還御。今度人々の事を申し置かる《宣陽門院、親能、教成等の事なり。敢へて他の人の事無しと云々》。亥の刻還御。…略…
随心院文書承久四年四月五日太政官牒