女、恐ろしと思へる気色にて、「あなむくつけ。こはたそ」と宣へど、「何か疎ましき」とて、
深き夜のあはれを知るもいる月の朧げならぬ契りとぞ思ふ
とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。
く
もえやらで、句ごとにずじのゝしる。はかせどもの心にもいみじ
源 ひかり
う思へり。かうやうのおりにも、まづこの君を光にし給へば、
藤つほ源に
みかどもいかでかをろかにおぼされん。中宮御めのとまる
につけて、春宮の女御の、あながちに、にくみ給らんもあ
やしう、わがかう思ふも心うしとぞ、みづからおぼしかへされける
藤つほ
大かたに花のすがたを見ましかばつゆも心の
み
をかれましやは。御心のうちなりけんこと、いかでもり
にけん。夜いたうふけてなん、ことはてける。かんだち
めをの/\あがれ、きさき、とうぐうかへらせ給ひぬれば、
のとやかになりぬるに、月いとあかうさしいてゝおかし
きを、げんじの君ゑひ心゛ちに、みすぐしがたくおぼ
御門
え給ければ、うへの人々゛もうちやすみて、かやうに思ひ
かけぬほどに、もしさりぬべきひまもやあると、ふぢ
つぼわたりを、わりなうしのびてうかゞひありけ
ど、かたらふべきとぐちもさしてげれは、うちなげ
きて、なをあらじに、こうきでんのほそどのに立
こうきでん み
より給へれば、三の口あきたり。女御はうへの御つぼ
ねに、やがてまうのぼり給ひにければ、人ずくなゝ
るけはひなり。おくのくるゝどもあきて、人をとも
せず。かやうにて世中のあやまちはするぞかしと
思て、やをらのぼりてのぞき給。人はみなねたるべし。
いとわかうおかしげなるこゑの、なべての人とはきこえ
ぬ√おほろづきよににる物ぞなきとうちずじて
こなたざまにくるものか。いとうれしくて、ふと袖を
とらへ給。女おそろしと思へるけしきにて、あなむ
源詞
くつけ。こはたそとの給へど、なにかうとましきとて
源
ふかき夜のあはれをしるも入月のおぼろけ
ならぬちぎりとぞ思。とて、やをらいたきおろして、
源
とはをしたてつ。あさましきにあきれたるさま、いと
なつかしうおかしげなり。わなゝく/\、こゝに人のとの給へ
源詞
ど、まろはみな人にゆるされたれば、めしよせたりとも、
なでうことかあらん。たゞしのびてこそとの給こゑに、
の
此君なりけりときゝさだめて、いさゝかなぐさめけり
もえやらで、句ごとに誦じののしる。博士共の心にも、いみじう思へり。
かうやうの折にも、先づこの君を光にし給へば、帝もいかでか、をろかに
おぼされん。中宮、御目のとまるにつけて、春宮の女御の、あながちに、
憎み給ふらんも、あやしう、我がかう思ふも、心憂しとぞ、自らおぼしか
へされける。
大方に花の姿を見ましかばつゆも心の置かれましやは
御心の中なりけん事、いかで漏りにけん。夜いたう更てなん、事果てける。
上達部、各々あがれ、后、春宮帰らせ給ひぬれば、のどやかになりぬるに、
月いと明う差し出でて、おかしきを、源氏の君、酔ひ心地に、見過ぐし難
く覚え給ひければ、上の人々も、打ち休みて、かやうに思ひかけぬ程に、
もしさりぬべき隙もやあると、藤壺わたりを、わりなう忍びて、伺ひあり
けど、語らふべき戸口も鎖してげれば、打ち嘆きて、なをあらじに、弘徽
殿の細殿に立ち寄り給へれば、三の口開きたり。女御は、上の御局に、や
がてまうのぼり給ひにければ、人少(ずく)ななる気配なり。奥の枢戸
(くるるど)も開きて、人音もせず。かやうにて、世の中の過ちはするぞ
かし、と思ひて、やをら登りて覗き給ふ。人は皆寝たるべし。いと若うお
かしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ。「√朧月夜に似る物ぞなき」
と打ち誦じて、こなたざまに来るものか。いと嬉しくて、ふと袖を捕へ給
ふ。女、恐ろしと思へる気色にて、「あなむくつけ。こはたそ」と宣へど、
「何か疎ましき」とて、
深き夜のあはれを知るもいる月の朧げならぬ契りとぞ思ふ
とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。あさましきに、呆れたる樣、
いとなつかしう、おかしげなり。わな泣くわななく、「ここに人の」と宣
へど、「麻呂は皆、人に許されたれば、召し寄せたりとも、なでう事かあ
らん。ただ、忍びてこそ」と宣ふ声に、この君なりけりと、聞き定めて、
いささか慰めけり。
よみ:てりもせずくもりもはてぬはるのよのおぼろづきよにしくものぞなき 有定隆雅 隠
意味:照ることもなく、曇って見えなくなるわけでもない春の夜の、朧月夜に及ぶ物は無いであろう。
備考:白氏文集巻十四の翻案句題和歌。源氏物語花宴で引歌されるが、「しく」を「似る」と改作されている。
参考:嘉陵夜有懐 其二 白居易
不明不闇朦朧月 明るからず、闇らからず、朦朧の月。
非暖非寒慢慢風 暖からず、寒からず、慢々の風。
独臥空牀好天気 独り空牀に臥せば、好天気。
平生閒事到心中 平生の閒事、心中に到る。