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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

第38回「硫黄島島民の集い」での 平和への祈りをこめた 献鶴

2009年09月15日 | 硫黄島・小笠原村
今年の「硫黄島島民の集い」では、参加者の席に、開場前に、折鶴を置いて下さっていました。

昨年の集いで、初めて開場中央に設置してもらった、当時の島の模型の横の籠に、
テーブル番号1番の席のメンバーから順番に、「献鶴」をして、平和を祈るという
趣向でした。

「島に帰ろう!」という思いの私たち島民一同ですが、82人という若い尊い命が、戦前に在住していた島民で軍属として残って犠牲になりました。残って犠牲になった親類たち、兄弟だったり父親だったりに、参加メンバーは思いを寄せているとともに、「戦後、戻ることができない故郷の島」が、特別な激戦の島となり日米両軍の多くの兵士の命が失われた島であることも、決して忘れることはできません。

幹事の皆様が、「献鶴」という素晴らしいアイディアを出して下さったことに本当に感謝いたします。
6月の慰霊墓参では、上陸をして最初に、平和祈念旧島民墓地公園で慰霊祭が行われます。その時に、全員で、献花をしますが、それを模して、「鶴」を用意して下さいました。硫黄島での献花の時のように、鶴を籠に入れながら手を合わせて平和を祈りました。私たちの平和祈念の思いが届き、尊い命が失われる戦争がなくなりますようにと、心から祈りたいと思います。

この写真で鶴を入れる籠がある位置が、小笠原丸から上陸する釜岩の付近です。
平和祈念旧島民墓地公園から、私たちが宿泊できる平和祈念館にかけてが手前側です。

写真左側が、学校、村役場、警察署、太平館(旅館)などがあった、元山一帯です。

この模型初登場だった昨年は、「自分の家の場所に、名前の札を立てよう」という趣向で、「ここだろうか、あそこだろうか。」と、皆で場所を迷っていましたが
今年は、あらかじめ、分かる限りの正確な位置に、名前の札を立てて下さっていたようでした。
6月に、元山出身の皆さんのおかげで再確認することができた位置関係、お豆腐やさんと、魚屋(雑貨なども扱っていた祖父母宅、母の生家)が隣同士で、立ててありました。船見岩にあった、当時の船の入港を知らせる半鐘も、船見岩がある硫黄ヶ丘のあたりに立ててもらっているのが写っています。

アウトリガー模型がある場所から写真右側にかけてが、米軍が上陸した、鶉石がある海岸で、この写真の右端写っていないところが擂鉢山という位置関係です。
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