植木枝盛の国憲案(1881年8月)
自由民権運動の論客・植木枝盛が同志たちと起草した「日本国国憲案」(全220条・明治14年起草)は大日本帝国憲法(明治22年発効)よりはるかに進歩的であり、条項によっては現行「日本国憲法」以上に革命的である。
第一編・第一条は「日本国は日本国憲法に循て之を立て之を持す」と憲法による支配を宣言している。
これに続く第二編・三編は、地方の権限を大幅に認めた連邦制による地方自治を詳細に規定しており(第7条から第39条)、
第4編では日本人民の自由権利を第40条から74条まで細かに規定している。
現憲法の内容は殆ど揃っており、死刑の禁止(第45条)や、
政府が国憲に反する政治をする場合は従わなくてもよく(第70条)、
「政府恣に国憲に背き壇に人民の自由権利を残害し建国の旨趣を妨くるときは日本国民はこれを覆滅して新政府を建設することを得」(第72条・革命権の明記)
など極めて進歩的な草案である。
一方で、この進歩的国憲案にも次の第5編では「皇帝および皇族、摂政」と、皇帝が制度として詳細に規定される。(第75条から113条)
その中では、皇帝は軍隊を統帥し、宣戦講和を行い外国に対して国を代表するという形で、元首として扱われている。
しかしながら、皇帝は立法院の議を経ずして人民の権利に関する事項を専行してはならず(87条)、連邦行政府に出頭して政治を司る(88条)など
専制支配を禁ずる多くの項目を定め、皇帝を政府の機関として扱っている。
内容的には大統領制に近いかもしれないが、皇帝を今上(明治)天皇と規定している(第96条)のは当時の状況への妥協か。
言行録によると植木枝盛の「本心」は全く別で(「朕」という表現を植木自らの呼称とし、馬鹿にして使っていたらしい。いわゆる『先生とよばれるほどの馬鹿で無し』とうところか?)、天皇を方便としながら実権を制約する意図のものであろう。
なお、97・102条で「女帝」を認めているのも「男女の同権」の著作を書いた彼らしく、女帝問題で右往左往している現在を見透かし、先取りしている。
自由民権運動の論客・植木枝盛が同志たちと起草した「日本国国憲案」(全220条・明治14年起草)は大日本帝国憲法(明治22年発効)よりはるかに進歩的であり、条項によっては現行「日本国憲法」以上に革命的である。
第一編・第一条は「日本国は日本国憲法に循て之を立て之を持す」と憲法による支配を宣言している。
これに続く第二編・三編は、地方の権限を大幅に認めた連邦制による地方自治を詳細に規定しており(第7条から第39条)、
第4編では日本人民の自由権利を第40条から74条まで細かに規定している。
現憲法の内容は殆ど揃っており、死刑の禁止(第45条)や、
政府が国憲に反する政治をする場合は従わなくてもよく(第70条)、
「政府恣に国憲に背き壇に人民の自由権利を残害し建国の旨趣を妨くるときは日本国民はこれを覆滅して新政府を建設することを得」(第72条・革命権の明記)
など極めて進歩的な草案である。
一方で、この進歩的国憲案にも次の第5編では「皇帝および皇族、摂政」と、皇帝が制度として詳細に規定される。(第75条から113条)
その中では、皇帝は軍隊を統帥し、宣戦講和を行い外国に対して国を代表するという形で、元首として扱われている。
しかしながら、皇帝は立法院の議を経ずして人民の権利に関する事項を専行してはならず(87条)、連邦行政府に出頭して政治を司る(88条)など
専制支配を禁ずる多くの項目を定め、皇帝を政府の機関として扱っている。
内容的には大統領制に近いかもしれないが、皇帝を今上(明治)天皇と規定している(第96条)のは当時の状況への妥協か。
言行録によると植木枝盛の「本心」は全く別で(「朕」という表現を植木自らの呼称とし、馬鹿にして使っていたらしい。いわゆる『先生とよばれるほどの馬鹿で無し』とうところか?)、天皇を方便としながら実権を制約する意図のものであろう。
なお、97・102条で「女帝」を認めているのも「男女の同権」の著作を書いた彼らしく、女帝問題で右往左往している現在を見透かし、先取りしている。