事実と俳句の事実とは違う
句郎 先月、孝夫さんが事実と俳句の事実は違うということを説明していたよね。どう違うのか、難しね。
華女 分かったつもりで詠んでみても俳句の事実にならない。
侘助 そうだよね。写生とは、どういうことを言うのか、結構、難しい問題があるようにも思うんだけどね。
華女 写生は写生でしょ。正岡子規が言ったことなんでしょ。高校の頃、美術の先生が言っていたわよ。見えるように描きなさいとね。言っていたわよ。自分の目に見えたように描くのが写生でしょ。小学生にも分かることよ。
句郎 そうだよね。問題は見えるように木だって、葉っぱだって、鳥だって、飛んでいる蜻蛉だって見えるようには描けないんだよね。
華女 そりゃ、そうね。飛んでいる蜻蛉を見えるように絵に描くなんて、そう簡単には描けないわね。
句郎 見えるように描くには訓練が必要だよね。
華女 そりゃ、そうでしょ。だから絵描きはデッサンなんかして修行しているんでしょ。
句郎 きっと文章でも同じことが言えるんじゃないのかな。
華女 文章もと、言うことは俳句も同じだということなのかしら。
句郎 そうなんじゃないかな。私も同様でね、分かっちゃいるけど、詠めないからね。
華女 空っぽの蜂の巣に二匹の蜂がいるのを見つけ、そのまま詠むことが写生じゃないと孝夫さんは述べていたわね。たとえ本当に二匹の蜂が空っぽの蜂の巣にいたとしてもね。
句郎 写生とは事実をそのまま詠むことではないんだ。事実をそのまま詠んでも事実は事実にならないということのようだ。
華女 写生とは事実をそのまま詠むことではないのね。
句郎 見た事実を詠まなければ写生じゃないからね。事実を詠むんだけれども、目に入る事実は無限にある。その無限の事実の中から一つの事実を選び、足りなかったら何かを付け足す。
華女 だったら空っぽの蜂の巣に一匹、秋の蜂がいたと詠んだら、句になったのしら。
句郎 それはわからない。秋の蜂を表現するため空っぽの巣に二匹の蜂がいたことに作者は秋の蜂の姿を見たのかもしれないけれども、それでは秋の蜂を表現したことにならないと孝夫さんは述べていた。。
華女 問題は「秋の蜂」を表現することなのね。
句郎 「冬蜂の死にどころなく歩きけり」という村上鬼城の句があるでしょ。よたよた歩いている冬蜂の姿に鬼城は冬蜂の本意を見たんじゃないかな。
華女 じぁー、「空っぽの巣」の句は「秋の蜂」の本意を詠んでいないと孝夫さんは言ったのかしら。
句郎 そうだと思うけど。「蜂」の季は春でしょ。咲き始めた花に群がる蜂の姿には若々しい活力が漲っているけれども秋の蜂の巣は抜け殻になってしまっている。その侘しさ、寂しさのようなものをどう表現するかということが俳句を詠むということなのかもしれない。
華女 なるほどね。帰る宿を失った秋の蜂という視点はとても良かったんじゃないのかしらね。
句郎 確かに、そうだよね。あと一歩と言ったのかも。