醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  305号  白井一道

2017-01-27 12:47:22 | 随筆・小説

 起あがる菊ほのか也水のあと  芭蕉44歳

句郎 「起あがる菊ほのか也水のあと」。芭蕉、四十四歳、深川芭蕉庵で詠んだ句のようだ。
華女 「水のあと」とは、何なのかしら。
句郎 深川と言えば江東の零メートル地帯にある所だから、秋、台風が来ると大水になり、床下浸水は始終あったんじゃないかな。
華女 三百年前から深川は低地だったのね。
句郎 当時の深川では井戸を掘ることができなかったみたいだよ。
華女 じゃー、飲み水はどうしていたのかしら。
句郎 買い水をして甕にいれていたようだ。
華女 生活は大変だったでしょうね。
句郎 だからほとんど人の住まない所だったんじゃないかな。
華女 へぇー、じゃーどうして芭蕉はそんな辺鄙なところに住んだのかしら。
句郎 、伊賀上野に生まれ育った芭蕉は紹介を受けた人を頼って江戸は日本橋小田原町の長屋に住んだ。そこで俳諧師の宗匠として立机した。その同じ町に住み、「鯉屋」の屋号で幕府御用の魚問屋を営み豊かな経済力を持つ杉山杉風氏の後援を芭蕉は得ることができた。その杉風さんの生け簀のあったところが深川だった。生け簀の番小屋が芭蕉庵だったんじゃないかと思うんだ。
華女 収入の乏しい芭蕉に住まいを杉風さんは提供してくれたのね。
句郎 杉風さんは芭蕉より三歳年下、俳諧宗匠としての芭蕉を尊敬していた。杉風さんは生涯芭蕉に経済援助をしたようだ。
華女 人の情けにすがって芭蕉は生きた人だったのね。俳諧はなにも生産的な経済活動をするものじゃないからね。一種の遊びだからね。
句郎 買い水しなければ生活ができないようなところに住み、その住まいに充足していた。その充足感を表現している句が「起あがる菊ほのか也水のあと」だと思うんだ。
華女 三百年前の句だと思えないような平易な句ね。
句郎 強い言葉が一つもないにもかかわらず菊の生命力のようなものが表現されているよね。
華女 菊は水びたしになっても、水が引けば、背筋を伸ばすのね。
句郎 きっと家の中まで水が入り込み、ゴミが一面に散乱した状況を見て、やれやれという気持ちになっていた時に、庭先で菊の花が頭をもたげ始めていた。この菊を見て、元気づけられたのじゃないかと思うんだ。野に生きる花のなんと健気なことかとじっと芭蕉は菊をながめていたのじゃないかなぁー。
華女 私もそんな気がするわ。
句郎 「起きあがる菊ほのかなり水のあと」。この句も名句の一つだとおもうんだけどね。どうかな。
華女 私もそう思うわ。ちっとも古びていないものね。
句郎 永遠に新しいよ。松浦寿輝という作家がこの句を芭蕉百句の一つしてあげていた。
華女 そうなの。やはり名句なんでしようね。どこがいいと言っていたの。
句郎 残念ながら忘れちゃったんだ。「ほのかなり」という言葉に説得性があるというなんじゃないかと思っているんだけどね。少し、ちょっと、「ほのかなり」とはこんな意味だよね。この「ほのかなり」という言葉に力がある。