俳句はコトでなく、モノを詠む
句郎 先日、俳句はコトではなく、モノを詠むもの。こんな話を聞いた。
華女 私も聞いたことがあるわ。秋元不死男が言ったような話を聞いたことがあるわ。
句郎 「鳥渡るこきこきこきと罐切れば」が有名な句を詠んだ人かな。
華女 そうよ。戦前、治安維持法違反で弾圧された人よね。
句郎 「こきこきこきと」という言葉の響きに自由への万感の思いがこもっているということかな。
華女 そうかもしれないわね。囚われの身になった人だからね。
句郎 「紅梅の照り板の間に父の飯」という句と「紅梅や板の間に父飯を食ふ」では、どちらの句が余韻が深いかな。
華女 そりゃ、「紅梅の照り板の間に父の飯」の方なんじゃないかしらね。
句郎 そうでしよ。「父の飯」というモノを表現しているから余韻がある。それに対して「父飯を食ふ」ではコトを表現しているから俳句にはならないということを秋元不死男は言っている。俳句はコトではなく、モノを表現するもの。納得できる話なんだ。
華女 私も同感だわ。
句郎 敗戦忌や広島忌はコトであってモノではないから季語としてはどうかという話があった。
華女 歳時記には載っているわよ。でも確かに季語はモノよね。
句郎 そうだよね。しかし季節感はあるよね。広島忌にしても、敗戦忌にしても夏の季節感は定着しているんじゃないかな。
華女 芭蕉忌は時雨忌ともいうから冬よね。芭蕉の句全体に冬のイメージがあるみたいね。
句郎 コトではあっても季
節感があるから忌日というのは季語に収録されているんじゃないかと思うんだ。
華女 そうかもしれないわよ。
句郎 早稲田大学に堀切実という近世文学者がいるでしよ。
華女 あっ、そう。知らないわ。
句郎 堀切氏が「現代俳句にいきる芭蕉」という著書の中で「物」があって、そこに人の「心」がふれれば、おのずと「事」が発生する。「モノ」を描く俳句の表現は結果として「コト」を表現する。このようなことを述べている。「紅梅の照り板の間に父の飯」という秋元の句は父が紅梅の照る板の間で飯を食っている「コト」を表現しているとね。俳句は「モノ」を描いて「コト」を表現する文芸だとね。忌日というものには人々の深い思いが込められている。しかも忌日には季節感もあるから歳時記に載っている。季語にも人々の思いが込められているから忌語は季語だと長谷川櫂は主張している。大事なことは「モノ」を意味する言葉に人々の思いがどれだけ籠っているかいうことなんじゃないかな。
華女 季語には確かに人々の思いが籠っているように思うわ。同じように地名もそうなんじゃないかしら。今や「フクシマ」は全世界に知られるようになった地名よ。だから「福島忌」というような言葉が歳時記に掲載される時代がくるかもしれないわね。
句郎 芭蕉にとって近江がそうだったようにね。
華女 「行春を近江の人とをしみける」ね。春日部じゃ句にならないのね。