-あらすじ 海峡-
由香里の眼に防寒具に身を固めた夫が下北半島の荒磯に立っている姿が浮かんで來た。
その夫の姿はひどく孤濁であった。何ものをも寄せつけないものを持っていた。
彼一人であった。
その夫の心のどこにも自分は居ないと、由香里は思った。
その心のどこにもはいり込む餘地があろうとは思われなかった。
コクガン、コクガン、黒雁!
由香里は口に出して言ってみた。
現在の庄司の心の中には恐らく黒雁の啼き聲しかはいっていないのであろう。
由香里は黒雁という鳥がいかなる大きさで、いかなる形をしているか、想像することはできなかった。
黒雁というからには黒い色をした雁のような鳥なのであろう。
その黒雁だけがいまの庄司の心を掴み、恐ろしい力で彼を惹き付けているのである。
下北半島という東北の果ての遠い半島の荒磯にいる黒色の鳥が、
東京にいる一人の医師に向かって「おいでおいで」をしている。
そしてその医師は本職の方は心も虚ろに、今にもその鳥のへ歩み寄ろうとしている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ほう、ついにやって來ましたな。東京からずいぶん遠くへ逃げて來たものだ」と言った。
庄司が「逃げる」という言葉をつかったので、杉原はぎょっとして顔を上げた。
「逃げた?どうして逃げて來たんです」
「なんとなく逃げて來たといった気持ちじゃないですか、ここまで來れば追っ手もなかなか探せませんよ。
そんな気持ちじゃありませんか」
「なるほど」
杉原は静かに言った。
そして何から何まで自分と同じような考えを持っては口に出してみせる庄司を、ちょっと不気味に思った。
ここまで來ればもう宏子の幻想は追いかけては來ないだろう。
杉原も自分も亦、宏子の幻想から逃げて、逃げて、ついにここまでやって來た、と思っていた。
~中略~
二人は二階の海の見える部屋へ案内された。
部屋へ荷物を置くと丹前に着替え、二人はすぐ階下にある浴室へ下り行った。
ここは近隣在住の村人の湯治場らしく、明らかに土地の人と思われる客が数人、浴槽の中へ沈んでいた。
喋っている言葉が、二人にはよく判らなかった。
泉質は硫黄泉である。
少しぬるかったが、少しぐらいぬるいことはいまの二人には問題でなかった。
躰の表面から、じわじわと湯が内部に向って浸透して來るように、杉原には感じられた。
ああ、湯が滲みて来る。
本州の、北の果ての海っぱたで、雪降り積もる温泉旅館の浴槽に沈んで、俺はいま硫黄の匂いを嗅いでいる。
なぜこんなところへ來たのだ。
美しい姫の幻影を洗い流すために、俺はやって來たのだ。
杉原は詩人になっていた。
-引用終わり-
由香里の眼に防寒具に身を固めた夫が下北半島の荒磯に立っている姿が浮かんで來た。
その夫の姿はひどく孤濁であった。何ものをも寄せつけないものを持っていた。
彼一人であった。
その夫の心のどこにも自分は居ないと、由香里は思った。
その心のどこにもはいり込む餘地があろうとは思われなかった。
コクガン、コクガン、黒雁!
由香里は口に出して言ってみた。
現在の庄司の心の中には恐らく黒雁の啼き聲しかはいっていないのであろう。
由香里は黒雁という鳥がいかなる大きさで、いかなる形をしているか、想像することはできなかった。
黒雁というからには黒い色をした雁のような鳥なのであろう。
その黒雁だけがいまの庄司の心を掴み、恐ろしい力で彼を惹き付けているのである。
下北半島という東北の果ての遠い半島の荒磯にいる黒色の鳥が、
東京にいる一人の医師に向かって「おいでおいで」をしている。
そしてその医師は本職の方は心も虚ろに、今にもその鳥のへ歩み寄ろうとしている。
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「ほう、ついにやって來ましたな。東京からずいぶん遠くへ逃げて來たものだ」と言った。
庄司が「逃げる」という言葉をつかったので、杉原はぎょっとして顔を上げた。
「逃げた?どうして逃げて來たんです」
「なんとなく逃げて來たといった気持ちじゃないですか、ここまで來れば追っ手もなかなか探せませんよ。
そんな気持ちじゃありませんか」
「なるほど」
杉原は静かに言った。
そして何から何まで自分と同じような考えを持っては口に出してみせる庄司を、ちょっと不気味に思った。
ここまで來ればもう宏子の幻想は追いかけては來ないだろう。
杉原も自分も亦、宏子の幻想から逃げて、逃げて、ついにここまでやって來た、と思っていた。
~中略~
二人は二階の海の見える部屋へ案内された。
部屋へ荷物を置くと丹前に着替え、二人はすぐ階下にある浴室へ下り行った。
ここは近隣在住の村人の湯治場らしく、明らかに土地の人と思われる客が数人、浴槽の中へ沈んでいた。
喋っている言葉が、二人にはよく判らなかった。
泉質は硫黄泉である。
少しぬるかったが、少しぐらいぬるいことはいまの二人には問題でなかった。
躰の表面から、じわじわと湯が内部に向って浸透して來るように、杉原には感じられた。
ああ、湯が滲みて来る。
本州の、北の果ての海っぱたで、雪降り積もる温泉旅館の浴槽に沈んで、俺はいま硫黄の匂いを嗅いでいる。
なぜこんなところへ來たのだ。
美しい姫の幻影を洗い流すために、俺はやって來たのだ。
杉原は詩人になっていた。
-引用終わり-