※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺>宮道神社
京都市山科区内には、勧修寺ゆかりの以下の人物の墓や陵が伝わっています。
現在も地元の方々に大事にされている様子がうかがえますね。
宮道朝臣列子墓
●所在地:京都市山科区勧修寺西栗栖野
宮道列子(つらこ・れっし・たまこ)は宮道弥益(みやじのいやます)の娘。
藤原高藤(ふじわらのたかふじ)との間に 胤子(たねこ)・定国(さだくに)・定方(さだかた)・満子(みつこ)を産む。
醍醐天皇の外祖母。
藤原胤子陵
●所在地:京都市山科区勧修寺北大日
贈皇太后藤原胤子。
宇多天皇女御。醍醐天皇の生母。
光孝天皇の第七皇子として生まれた源定省(さだみ=のちの宇多天皇)と結婚。
源維城(これざね)<のちに親王宣下→敦仁親王→醍醐天皇>を産む。
※宇多天皇陵は京都市右京区にあります。
※醍醐天皇陵は京都市伏見区にあります。
【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」 編:池上洵一/発行:(株)岩波書店
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
宮道神社
●所在地:京都市山科区勧修寺仁王堂町
●交通 :地下鉄「小野」駅下車 徒歩10分

勧修寺(かじゅうじ)の南に宮道神社(みやじじんじゃ)が鎮座しています。
宮道神社は、さまざまなご縁結びの願いを叶えてくださる神社だそうです。

宮道神社は、898年(寛平10年)に創祀され、宮道大明神または二所大明神とも称されました。
後世、宮道弥益と娘の列子、列子の夫である藤原高藤とゆかりの人々を合祀されました。
<御祭神>
日本武尊(やまとたけるのみこと)・・・宮道氏の祖神
稚武王 (わかたけのみこ) ・・・日本武尊の子
<のちに合祀された御祭神>
宮道弥益(みやじのいやます) ・・・胤子の外祖父
宮道列子(みやじのたまこ) ・・・胤子の母
藤原高藤(ふじわらのたかふじ) ・・・胤子の父
藤原胤子(ふじわらのたねこ) ・・・醍醐天皇の母
藤原定方(ふじわらのさだかた) ・・・三条右大臣
など、勧修寺ゆかりの人々


『小倉百人一首』 三条右大臣(藤原定方)歌碑
名にし負はば 逢坂山の さねかづら
人に知られで くるよしもがな
宮道神社のご祭神のひとりである藤原定方(ふじわらのさだかた)の歌碑が建立されています。
藤原高藤と宮道列子の間に生まれた次男・定方は、右大臣となり、邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、「三条右大臣」と呼ばれました。
京都市山科区において勧修寺ゆかりの人物の墓・供養塔が伝わっています。
ゆかりの人々お墓参りへ続きます。
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺
『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
宮道神社
●所在地:京都市山科区勧修寺仁王堂町
●交通 :地下鉄「小野」駅下車 徒歩10分

勧修寺(かじゅうじ)の南に宮道神社(みやじじんじゃ)が鎮座しています。
宮道神社は、さまざまなご縁結びの願いを叶えてくださる神社だそうです。

宮道神社は、898年(寛平10年)に創祀され、宮道大明神または二所大明神とも称されました。
後世、宮道弥益と娘の列子、列子の夫である藤原高藤とゆかりの人々を合祀されました。
<御祭神>
日本武尊(やまとたけるのみこと)・・・宮道氏の祖神
稚武王 (わかたけのみこ) ・・・日本武尊の子
<のちに合祀された御祭神>
宮道弥益(みやじのいやます) ・・・胤子の外祖父
宮道列子(みやじのたまこ) ・・・胤子の母
藤原高藤(ふじわらのたかふじ) ・・・胤子の父
藤原胤子(ふじわらのたねこ) ・・・醍醐天皇の母
藤原定方(ふじわらのさだかた) ・・・三条右大臣
など、勧修寺ゆかりの人々


『小倉百人一首』 三条右大臣(藤原定方)歌碑
名にし負はば 逢坂山の さねかづら
人に知られで くるよしもがな
宮道神社のご祭神のひとりである藤原定方(ふじわらのさだかた)の歌碑が建立されています。
藤原高藤と宮道列子の間に生まれた次男・定方は、右大臣となり、邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、「三条右大臣」と呼ばれました。
京都市山科区において勧修寺ゆかりの人物の墓・供養塔が伝わっています。

※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺
『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルのひとり
敦慶親王
宇多天皇の第四皇子・敦慶(あつよし)親王は、「容姿美麗、好色絶倫なり」と評され、「玉光宮(たまひかるみや)」とも称されました。
その生涯から『源氏物語』の光源氏のモデルのひとりとされています。
父・宇多天皇に寵愛された歌人の伊勢との恋愛、兄・醍醐天皇の女御だった藤原能子との恋愛・・・。
その生き方が光源氏を彷彿とさせます。

敦慶親王 (あつよししんのう)
888年(仁和3年)~930年(延長8年)2月28日
父は、宇多天皇。
母は、贈皇太后藤原胤子。
宇多天皇の第四皇子で、醍醐天皇の同母弟である。
896年(寛平8年)、母の藤原胤子が卒去し、宇多天皇の女御・藤原温子(ふじわらのよしこ・おんし)の猶子となる。
温子の一人娘で異母妹である均子内親王と結婚。
中務卿、式部卿 などを歴任。二品に叙される。
管弦詩歌に秀でており、醍醐朝の文化興隆に貢献した。
兄の醍醐天皇・叔父の藤原定方・定方の従兄弟である藤原兼輔らと文化的な親交があった。
≪敦慶親王が愛した女性たち≫
均子内親王 (きんしないしんのう)
890年(寛平2年)~910年(延喜10年)
父は、宇多天皇。
母は、宇多天皇中宮藤原温子。(更衣→女御→中宮)
敦慶親王の異母妹にあたり敦慶親王の正妃となる。
歌人の伊勢は、温子と均子内親王に仕えた女房。
孚子内親王 (さねこないしんのう)
生年不明~958年(天徳2年)4月28日
父は、宇多天皇。
母は、宇多天皇更衣徳姫女王。
敦慶親王の異母姉妹にあたる。
歌人としてすぐれていた。
孚子内親王は敦慶親王との恋ののち、源嘉種と偲ぶ恋をしたという。
藤原 能子 (ふじわらのよしこ)
生年不明~964年(応和4年)
父は、三条右大臣藤原定方。
いとこである醍醐天皇の更衣として入内。
913年(延喜13年)10月8日、更衣から女御へ。
三条御息所または衛門御息所と呼ばれた。
醍醐天皇の崩御後、醍醐天皇の弟・敦慶親王と通じ、のちには藤原実頼の妻となる。
歌人としてすぐれていた。
※但し、同時代に生きた藤原能子と藤原仁善子の読みが同じ「よしこ」であるため、記録に混同がみられる。
伊勢 (いせ)
877年(元慶元年)頃?~939年(天慶2年)頃?
父は、藤原継蔭(つぐかげ)。
平安中期の女流歌人。
伊勢の名は、父の藤原継蔭が伊勢守であったことにちなむ。
伊勢の御息所(みやすどころ)、伊勢の御(いせのご)とも呼ばれた。
宇多天皇中宮藤原温子に仕え、温子の弟・藤原仲平(なかひら)と恋愛。
のちに宇多天皇の寵愛を受け、親王を出産するが早世する。
温子崩御後、宇多天皇の皇子・敦慶親王との間に、娘の中務(なかつかさ)を産む。中務もまた、歌人として活躍した。
中務の名は、敦慶親王が中務卿であったことにちなむ。
伊勢は、宇多・醍醐・朱雀三代にわたって歌人として活躍。
歌集『伊勢集』を遺す。
※『伊勢集』は『源氏物語』にも深く影響を与えている。
*『百人一首』に撰ばれている歌
難波潟 みじかき葦の ふしの間も
あはでこの世を 過ぐしてよとや
【参考】
「もっと知りたい源氏物語」著:大塚ひかり/発行:(株)日本実業出版社
「平安時代史事典CD-ROM版」監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「カラー小倉百人一首」 編著:島津忠夫・櫟原聰/発行:(株)京都書房
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藤原高藤と宮道列子のロマンス>勧修寺
『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルのひとり
敦慶親王
宇多天皇の第四皇子・敦慶(あつよし)親王は、「容姿美麗、好色絶倫なり」と評され、「玉光宮(たまひかるみや)」とも称されました。
その生涯から『源氏物語』の光源氏のモデルのひとりとされています。
父・宇多天皇に寵愛された歌人の伊勢との恋愛、兄・醍醐天皇の女御だった藤原能子との恋愛・・・。
その生き方が光源氏を彷彿とさせます。

敦慶親王 (あつよししんのう)
888年(仁和3年)~930年(延長8年)2月28日
父は、宇多天皇。
母は、贈皇太后藤原胤子。
宇多天皇の第四皇子で、醍醐天皇の同母弟である。
896年(寛平8年)、母の藤原胤子が卒去し、宇多天皇の女御・藤原温子(ふじわらのよしこ・おんし)の猶子となる。
温子の一人娘で異母妹である均子内親王と結婚。
中務卿、式部卿 などを歴任。二品に叙される。
管弦詩歌に秀でており、醍醐朝の文化興隆に貢献した。
兄の醍醐天皇・叔父の藤原定方・定方の従兄弟である藤原兼輔らと文化的な親交があった。
≪敦慶親王が愛した女性たち≫

890年(寛平2年)~910年(延喜10年)
父は、宇多天皇。
母は、宇多天皇中宮藤原温子。(更衣→女御→中宮)
敦慶親王の異母妹にあたり敦慶親王の正妃となる。
歌人の伊勢は、温子と均子内親王に仕えた女房。

生年不明~958年(天徳2年)4月28日
父は、宇多天皇。
母は、宇多天皇更衣徳姫女王。
敦慶親王の異母姉妹にあたる。
歌人としてすぐれていた。
孚子内親王は敦慶親王との恋ののち、源嘉種と偲ぶ恋をしたという。

生年不明~964年(応和4年)
父は、三条右大臣藤原定方。
いとこである醍醐天皇の更衣として入内。
913年(延喜13年)10月8日、更衣から女御へ。
三条御息所または衛門御息所と呼ばれた。
醍醐天皇の崩御後、醍醐天皇の弟・敦慶親王と通じ、のちには藤原実頼の妻となる。
歌人としてすぐれていた。
※但し、同時代に生きた藤原能子と藤原仁善子の読みが同じ「よしこ」であるため、記録に混同がみられる。

877年(元慶元年)頃?~939年(天慶2年)頃?
父は、藤原継蔭(つぐかげ)。
平安中期の女流歌人。
伊勢の名は、父の藤原継蔭が伊勢守であったことにちなむ。
伊勢の御息所(みやすどころ)、伊勢の御(いせのご)とも呼ばれた。
宇多天皇中宮藤原温子に仕え、温子の弟・藤原仲平(なかひら)と恋愛。
のちに宇多天皇の寵愛を受け、親王を出産するが早世する。
温子崩御後、宇多天皇の皇子・敦慶親王との間に、娘の中務(なかつかさ)を産む。中務もまた、歌人として活躍した。
中務の名は、敦慶親王が中務卿であったことにちなむ。
伊勢は、宇多・醍醐・朱雀三代にわたって歌人として活躍。
歌集『伊勢集』を遺す。
※『伊勢集』は『源氏物語』にも深く影響を与えている。
*『百人一首』に撰ばれている歌
難波潟 みじかき葦の ふしの間も
あはでこの世を 過ぐしてよとや
【参考】
「もっと知りたい源氏物語」著:大塚ひかり/発行:(株)日本実業出版社
「平安時代史事典CD-ROM版」監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:(株)角川学芸出版
「カラー小倉百人一首」 編著:島津忠夫・櫟原聰/発行:(株)京都書房
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
勧修寺<宮道弥益邸宅跡>
●所在地:京都市山科区勧修寺仁王堂町
●交通 :地下鉄「小野」駅下車 徒歩10分

勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある真言宗山階派の大本山で、山号は亀甲山と称します。
寺名は「かじゅうじ」と読み、周辺地名の「勧修寺」は「かんしゅうじ」と読みます。
勧修寺の起こりについては、いくつかの説があるようです。
●宇多天皇女御である藤原胤子(たねこ・いんし)の発願により、胤子の外祖父である宮道弥益の邸宅跡に寺を建立した。
●醍醐天皇が若くして亡くなった母・藤原胤子を弔うために外曾祖父である宮道弥益の邸宅を寺に改めた。
●醍醐天皇が母・藤原胤子の御願を継いで宮道弥益の邸宅を寺として建立された。
いずれにしても、宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅があった地に寺を建立したことに変わりはないようです。
この宮道弥益の邸宅こそが、『今昔物語集』にみられる藤原高藤と宮道列子が出会い、藤原胤子が誕生したとされる地です。
まさにロマンスの地ですね♪
藤原高藤の諡号(しごう)から、勧修寺と号します。

勧修寺は、皇室と藤原氏の援助を受けて繁栄し、のちには門跡寺院として代々、法親王が入寺されていました。
現在、勧修寺内にある建物は江戸時代のもので、“氷室の池”のそばにある観音堂は昭和初期の建立です。

この駒札に記されているように、『源氏物語』の作者・紫式部は、藤原高藤と宮道列子の子孫です。
紫式部の夫・藤原宣孝もまた子孫にあたります。
紫式部は『源氏物語』の作中において、実在した人物をモデルとして登場させたり、実際に起こった事件を下敷きにしたりしていますので、先祖のロマンスから何らかの影響を受けていたとしても不思議はないと思います。

※醍醐天皇の同母弟・敦慶親王は『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人といわれています。
⇒光源氏のモデル・敦慶親王

勧修寺 宸殿
勧修寺はみどころが多いお寺です。
『勧修寺庭園』と呼ばれる庭園の中心に「氷室の池」があります。
平安時代には、毎年一月二日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さによってその年の五穀豊穣を占ったと言い伝えられているそうです。
次は勧修寺の南にある宮道神社をご紹介します。
宮道神社へ続きます。
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『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
勧修寺<宮道弥益邸宅跡>
●所在地:京都市山科区勧修寺仁王堂町
●交通 :地下鉄「小野」駅下車 徒歩10分

勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある真言宗山階派の大本山で、山号は亀甲山と称します。
寺名は「かじゅうじ」と読み、周辺地名の「勧修寺」は「かんしゅうじ」と読みます。
勧修寺の起こりについては、いくつかの説があるようです。
●宇多天皇女御である藤原胤子(たねこ・いんし)の発願により、胤子の外祖父である宮道弥益の邸宅跡に寺を建立した。
●醍醐天皇が若くして亡くなった母・藤原胤子を弔うために外曾祖父である宮道弥益の邸宅を寺に改めた。
●醍醐天皇が母・藤原胤子の御願を継いで宮道弥益の邸宅を寺として建立された。
いずれにしても、宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅があった地に寺を建立したことに変わりはないようです。
この宮道弥益の邸宅こそが、『今昔物語集』にみられる藤原高藤と宮道列子が出会い、藤原胤子が誕生したとされる地です。
まさにロマンスの地ですね♪
藤原高藤の諡号(しごう)から、勧修寺と号します。

勧修寺は、皇室と藤原氏の援助を受けて繁栄し、のちには門跡寺院として代々、法親王が入寺されていました。
現在、勧修寺内にある建物は江戸時代のもので、“氷室の池”のそばにある観音堂は昭和初期の建立です。

この駒札に記されているように、『源氏物語』の作者・紫式部は、藤原高藤と宮道列子の子孫です。
紫式部の夫・藤原宣孝もまた子孫にあたります。
紫式部は『源氏物語』の作中において、実在した人物をモデルとして登場させたり、実際に起こった事件を下敷きにしたりしていますので、先祖のロマンスから何らかの影響を受けていたとしても不思議はないと思います。

※醍醐天皇の同母弟・敦慶親王は『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人といわれています。
⇒光源氏のモデル・敦慶親王

勧修寺 宸殿
勧修寺はみどころが多いお寺です。
『勧修寺庭園』と呼ばれる庭園の中心に「氷室の池」があります。
平安時代には、毎年一月二日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さによってその年の五穀豊穣を占ったと言い伝えられているそうです。
次は勧修寺の南にある宮道神社をご紹介します。

※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンス<京都市山科区>
『源氏物語』において、桐壺帝の皇子として生まれた光源氏と受領階級出身である明石の君は明石(兵庫県)で結ばれ、光源氏が帰京してのち明石の君は明石の姫君を産みます。
やがて光源氏の手元にひきとられた明石の姫君は東宮(とうぐう=皇太子)の妃として入内し、第一皇子を出産。やがて夫の東宮は帝として即位。明石の姫君が産んだ第一皇子が新たな東宮に立ち、明石の姫君自身は女御から中宮になるのでした。
このことにより、光源氏は権力が増大します。
帝と明石の中宮との関係は良好で四人の皇子と一人の皇女に恵まれます。
光源氏と明石の君との身分違いの恋は、『今昔物語集』に描かれている藤原高藤(ふじわらのたかふじ)と宮道列子(みやじのつらこ・たまこ・れっし)の恋がモデルになっているという説があるそうです。
藤原高藤は、藤原北家の嫡流・藤原冬嗣の孫。
宮道列子は、山城国宇治郡(ぐん)大領(たいりょう=長官)である宮道弥益(みやじのいやます)の娘でした。
※ふたりのロマンスについては後述します。
高藤と列子は身分の差が大きいものの山科で結ばれ、高藤が列子と会えない間に胤子(たねこ・いんし)という娘が誕生します。
胤子は宇多天皇の妻となりのちの醍醐天皇をもうけます。
宇多天皇と胤子の間には、のちの醍醐天皇をふくめた四人の皇子と一人の皇女に恵まれました。
以下の系図をご覧下さい。
実在した藤原高藤と宮道列子 系図

『源氏物語』光源氏と明石の君 系図

実在した人物と『源氏物語』の登場人物との類似点
藤原高藤 ⇔ 光源氏 ・・・天皇(東宮)の外祖父となり出世
宮道列子 ⇔ 明石の君・・・天皇(東宮)の外祖母となる
藤原胤子 ⇔ 明石の中宮・・母の身分は低いものの天皇のキサキとなる。次代の天皇となる第一皇子を出産。天皇の母となる。
『今昔物語集』 巻第二十二 本朝
高藤の内大臣の語(たかふじのないだいじんのかたり)より
【あらすじ】
藤原冬嗣の孫で良門の子である藤原高藤は「鷹狩」を好んでいました。
高藤が15~16歳の頃の秋、京から北山科へ鷹狩に行っていたところ、にわか雨と雷鳴に見舞われました。
風雨を避けるために一夜の宿をかりたのが、宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅でした。高藤は歓待され、13歳~14歳くらいの美しく愛らしい少女に出会います。
高藤は、将来を約束し少女と一夜を共にするのでした。
朝になり、高藤は腰につけていた太刀を形見として置き、決して少女が他の男と結婚しないよう、後ろ髪をひかれる思いで言い置きます。この少女が宮道弥益の娘・列子でした。
京に戻った高藤は、父から遠出を禁じられます。列子を恋しく思い、妻をめとらず、北山科を訪ねることができないまま6年ほどが経ちました。
機会を得て、再び高藤が宮道弥益邸を訪ねてみると、成長した列子と列子のそばに5~6歳ほどのかわいらしい女の子がいました。それは一夜の契りで授かった高藤と列子の娘だったのでした。
枕元をみると、高藤が置いた太刀がそのままにありました。
高藤から見れば、列子ははるか下流階級の者の娘ではありますが、列子との縁は前世の契りが深かったからに違いないと思い、高藤は京に宮道列子と娘の胤子を迎えます。
胤子は宇多天皇の女御となり、のちの醍醐天皇を産みました。
醍醐天皇の即位にあたって、祖父である高藤は大納言から内大臣になります。
高藤と列子が出会った宮道弥益の邸宅は寺に改められました。これが現在の勧修寺です。
宮道弥益の妻によって勧修寺の東の山側に大宅寺(おおやげでら)が建立されました。
醍醐天皇は勧修寺<宮道弥益邸宅跡>のあたりに思いを寄せられたことから、近くに陵があるということです。
上記の“物語”は完全な事実に基づくものではなく、宮道弥益の実際の身分や藤原高藤と宮道列子の婚姻時期など不確かではあります。
しかしながら、ふたりの娘である藤原胤子が醍醐天皇の生母となったことで、藤原高藤の一族は繁栄しました。
列子との間に生まれた次男・藤原定方は右大臣に至り「三条右大臣」の名で歌人としても知られます。
勧修寺を中心に藤原高藤と宮道列子ゆかりの地を訪ねました。
次回は京都市山科区のロマンスの地をご案内します。
勧修寺へ続きます。
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『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンス<京都市山科区>
『源氏物語』において、桐壺帝の皇子として生まれた光源氏と受領階級出身である明石の君は明石(兵庫県)で結ばれ、光源氏が帰京してのち明石の君は明石の姫君を産みます。
やがて光源氏の手元にひきとられた明石の姫君は東宮(とうぐう=皇太子)の妃として入内し、第一皇子を出産。やがて夫の東宮は帝として即位。明石の姫君が産んだ第一皇子が新たな東宮に立ち、明石の姫君自身は女御から中宮になるのでした。
このことにより、光源氏は権力が増大します。
帝と明石の中宮との関係は良好で四人の皇子と一人の皇女に恵まれます。
光源氏と明石の君との身分違いの恋は、『今昔物語集』に描かれている藤原高藤(ふじわらのたかふじ)と宮道列子(みやじのつらこ・たまこ・れっし)の恋がモデルになっているという説があるそうです。
藤原高藤は、藤原北家の嫡流・藤原冬嗣の孫。
宮道列子は、山城国宇治郡(ぐん)大領(たいりょう=長官)である宮道弥益(みやじのいやます)の娘でした。
※ふたりのロマンスについては後述します。
高藤と列子は身分の差が大きいものの山科で結ばれ、高藤が列子と会えない間に胤子(たねこ・いんし)という娘が誕生します。
胤子は宇多天皇の妻となりのちの醍醐天皇をもうけます。
宇多天皇と胤子の間には、のちの醍醐天皇をふくめた四人の皇子と一人の皇女に恵まれました。
以下の系図をご覧下さい。




実在した人物と『源氏物語』の登場人物との類似点
藤原高藤 ⇔ 光源氏 ・・・天皇(東宮)の外祖父となり出世
宮道列子 ⇔ 明石の君・・・天皇(東宮)の外祖母となる
藤原胤子 ⇔ 明石の中宮・・母の身分は低いものの天皇のキサキとなる。次代の天皇となる第一皇子を出産。天皇の母となる。
『今昔物語集』 巻第二十二 本朝
高藤の内大臣の語(たかふじのないだいじんのかたり)より
【あらすじ】
藤原冬嗣の孫で良門の子である藤原高藤は「鷹狩」を好んでいました。
高藤が15~16歳の頃の秋、京から北山科へ鷹狩に行っていたところ、にわか雨と雷鳴に見舞われました。
風雨を避けるために一夜の宿をかりたのが、宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅でした。高藤は歓待され、13歳~14歳くらいの美しく愛らしい少女に出会います。
高藤は、将来を約束し少女と一夜を共にするのでした。
朝になり、高藤は腰につけていた太刀を形見として置き、決して少女が他の男と結婚しないよう、後ろ髪をひかれる思いで言い置きます。この少女が宮道弥益の娘・列子でした。
京に戻った高藤は、父から遠出を禁じられます。列子を恋しく思い、妻をめとらず、北山科を訪ねることができないまま6年ほどが経ちました。
機会を得て、再び高藤が宮道弥益邸を訪ねてみると、成長した列子と列子のそばに5~6歳ほどのかわいらしい女の子がいました。それは一夜の契りで授かった高藤と列子の娘だったのでした。
枕元をみると、高藤が置いた太刀がそのままにありました。
高藤から見れば、列子ははるか下流階級の者の娘ではありますが、列子との縁は前世の契りが深かったからに違いないと思い、高藤は京に宮道列子と娘の胤子を迎えます。
胤子は宇多天皇の女御となり、のちの醍醐天皇を産みました。
醍醐天皇の即位にあたって、祖父である高藤は大納言から内大臣になります。
高藤と列子が出会った宮道弥益の邸宅は寺に改められました。これが現在の勧修寺です。
宮道弥益の妻によって勧修寺の東の山側に大宅寺(おおやげでら)が建立されました。
醍醐天皇は勧修寺<宮道弥益邸宅跡>のあたりに思いを寄せられたことから、近くに陵があるということです。
上記の“物語”は完全な事実に基づくものではなく、宮道弥益の実際の身分や藤原高藤と宮道列子の婚姻時期など不確かではあります。
しかしながら、ふたりの娘である藤原胤子が醍醐天皇の生母となったことで、藤原高藤の一族は繁栄しました。
列子との間に生まれた次男・藤原定方は右大臣に至り「三条右大臣」の名で歌人としても知られます。
勧修寺を中心に藤原高藤と宮道列子ゆかりの地を訪ねました。
次回は京都市山科区のロマンスの地をご案内します。
